鵜殿長忠

鵜殿長持の次男

鵜殿 長忠(うどの ながただ)は、戦国時代三河国武将

 
鵜殿 長忠
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正16年12月13日1589年1月29日[1]
別名 藤助、柏原一庵[1][2]
戒名 日庵[1]
墓所 三河国宝飯郡柏原[1]
主君 今川義元徳川家康
氏族 鵜殿氏
父母 父:鵜殿長持、母:今川氏親娘?
養父:鵜殿長祐[1]
兄弟 長照、藤九郎、長忠松平伊忠[3][4]
松平清宗?[3][注釈 1]
奥平貞勝の娘[1]
三郎次郎、日梅、山崎左近の妻、長次
西郡局[1][5]
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略歴 編集

三河国宝飯郡一帯に影響力を持ち駿河大名今川氏に属した上ノ郷城鵜殿長持の子。叔父にあたる分家筋の柏原城主鵜殿長祐の養子となった[1]永禄3年(1560年桶狭間の戦いを機に今川氏の三河支配が後退し、岡崎城松平氏徳川氏)が今川氏を離れて台頭する。鵜殿一族は引き続き今川氏に属する者と松平氏に与する者に分かれ、当初柏原家は上ノ郷家とともに今川方に属したらしく、早くに松平方についた下ノ郷城(蒲形城)の鵜殿長龍とは合戦に及んでいる[6][7]。上ノ郷城は永禄5年(1562年)に松平勢によって攻め落とされ兄の長照は戦死したが、柏原家はその前後に松平氏に降ったようであり、長祐は永禄6年(1563年)の三河一向一揆との戦いで松平氏の武将として戦死している[6][7][1]。長忠は家臣の加藤義広(善左衛門)の娘を養女とし、彼女はやがて徳川家康の側室となって出身地から西郡局と呼ばれ、一女督姫を生んでいる[8][1]

宗長の『東国紀行』によれば天文13年(1544年)三河を訪れた宗長は鵜殿氏領に滞在し「西郡千句」の興行を行っているが、長忠は父の鵜殿長持、下ノ郷鵜殿玄長深溝松平好景竹谷松平清善五井松平元心らとともに参加している[9]。このように長忠は連歌を嗜んだようで、『家忠日記』にも連歌会を主催した記事が見える[10]

天正16年(1588年)死去。子の長次は引き続き徳川氏に仕えたが、後に督姫の外戚の縁をもってその嫁ぎ先の池田氏に仕えることになった。子孫は鳥取藩の重臣となっている[1][11]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 長照と竹谷松平家の関係について、長照の実母が後に松平清善に嫁ぎ清宗を生んだとする説(鵜殿長持室=松平清善室、『鵜殿家譜』)、長照と松平清善が異父兄弟であるとする説(鵜殿長将室=松平親善室、『寛政重修諸家譜』)がある[3]

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k 『寛政重修諸家譜』, p. 173.
  2. ^ 『新編岡崎市史』, p. 1040.
  3. ^ a b c 『蒲郡市誌』, p. 199.
  4. ^ 『寛政重修諸家譜』, p. 168.
  5. ^ 伊藤 1981, p. 229.
  6. ^ a b 伊藤 1981, pp. 228–229.
  7. ^ a b 『蒲郡市誌』, p. 205.
  8. ^ 『蒲郡市誌』, p. 435.
  9. ^ 『新編岡崎市史』, pp. 582–583.
  10. ^ 『新編岡崎市史』, pp. 1039–1040.
  11. ^ 『鳥取藩史』, p. 201.

参考文献 編集

  • 伊藤天章 編『蒲郡史談』国書刊行会、1981年。 
  • 蒲郡市誌編纂委員会; 蒲郡市教育委員会 編『蒲郡市誌』 本編、蒲郡市、1974年。 
  • 『新訂寛政重修諸家譜』 16巻、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0220-8 
  • 新編岡崎市史編集委員会 編『新編岡崎市史』 20巻、新編岡崎市史編さん委員会、1993年。 
  • 鳥取県 編『鳥取藩史』 1巻、鳥取県立鳥取図書館、1969年。