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西郡局(にしのこおりのつぼね[1]、生年不詳 - 慶長11年5月14日1606年6月19日))は、徳川家康側室上ノ郷城主・鵜殿長持の次男、鵜殿長忠の娘[2][3]

別名 西郡の方蓮葉院。兄弟に日梅、鵜殿長次など。

生涯編集

いつごろかは不明だが徳川家康の側室となり、家康の次女・督姫を産んだ[4]

天正11年(1583年督姫天正壬午の乱の和睦の条件として北条氏直正室となった[5]

しかし天正19年(1591年)に氏直が死去したため豊臣秀吉の周旋で、文禄3年(1594年)、池田輝政に再嫁した[6]

西郡局は鵜殿氏が信仰していた法華宗に帰依しており、家康が上ノ郷城を落城させた際に焼失した長應寺を一族の日翁に再建させている[7]

西郡局は慶長11年(1606年)5月14日伏見城で没し家康の命により娘婿の池田輝政が葬式を執り行い、京都の本禅寺に葬られた[8]法名は蓮葉院日浄。

池田輝政は供養のため姫路城東方の野里に青蓮寺を建立したが、督姫の願いにより法華宗となった池田輝澄[9](輝政の四男)が山崎藩主となった際、現在の兵庫県宍粟市山崎町に移転した。

墓所は本禅寺塔頭の心城院、青蓮寺のほか長應寺(現:東京都品川区小山)にもある。

長應寺は明治維新後に北海道天塩郡幌延町に移転し[10][11]、鵜殿氏ゆかりの絵曼荼羅と共に西郡局の肖像画や位牌等を所蔵している[12]

脚注編集

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  1. ^ 西郡局の名前の由来は、祖父・鵜殿長持の領地である西郡由来だが、『三河物語』において西郡は"西之郡"と表記され当時の読み方は"にしのこおり"だったと思われる。
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』巻七百四十二 鵜殿. http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082713/508. 
  3. ^ 『薨日記考』『柳営譜略』などでは鵜殿長持の娘とされているが、前述の『寛政重修諸家譜』と整合せず『大日本史料』では誤りではないかとされている。
  4. ^ 督姫の生年については、永禄8年(1565年)あるいは天正3年(1575年)とするものがあり判然としない。
  5. ^ 鵜殿長持は今川氏親の娘(今川義元の妹)を正室としており、督姫から見て氏直は7親等の再従叔父(はとこおじ)となる。
  6. ^ 『言経卿記』. https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1594/17-1-2/10/0062?m=all&s=0062&n=20. 
  7. ^ 『芝高輪長應寺記録』. 
  8. ^ 『蓮葉院余光記』. https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1204/0127?m=all&s=0125&n=20. 
  9. ^ 『譜牒余録』. https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1206/0248?m=all&s=0246&n=20. 
  10. ^ 品川区の長應寺は、同じ宗派の寺が名跡を引き継いだものである。
  11. ^ 林善茂. 『法華宗農場顛末』. https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/31088/1/12(2)_P11-29.pdf 2018年12月17日閲覧。. 
  12. ^ 幌延町地域おこし協力隊”. 2018年12月17日閲覧。

参考文献編集

  • 「幕府祚胤伝」(『徳川諸家系譜』2巻)