鵜沢尚信
鵜沢 尚信(うざわ なおのぶ、1895年(明治28年)8月10日[1][2] - 1980年(昭和55年)9月19日[1][注 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
鵜沢 尚信 | |
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生誕 |
1895年8月10日 日本 東京府東京市 |
死没 | 1980年9月19日(85歳没) |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1916 - 1946 |
最終階級 | 陸軍中将 |
除隊後 | 全日本銃剣道連盟会長、全国戦友会連合会会長 |
経歴
編集本籍千葉県[1]。鵜沢総司陸軍大佐の息子として東京市で生れる[1]。開成中学、陸軍中央幼年学校予科、同校本科を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業[1][2][3]。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付となる[1][3]。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を優等で卒業し近衛歩兵第4連隊中隊長に就任[1][2][4]。
1928年(昭和3年)3月、教育総監部付勤務となり、教育総監部課員を経て、1931年(昭和6年)5月から1933年(昭和8年)7月までドイツ駐在[1]。1931年8月、歩兵少佐に昇進[1]。1933年8月、近衛歩兵第2連隊大隊長となり、教育総監部課員に異動し、1935年(昭和10年)12月、歩兵中佐に進級[1]。1937年(昭和12年)8月、第2軍参謀に転じ日中戦争に出征[1][2][4]。1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に昇進し教育総監部第1課長となる[1][4]。1940年(昭和15年)7月、歩兵第61連隊長に着任し宜昌作戦などに参加[1][2][4]。1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級、歩兵第130旅団長に就任し太平洋戦争を迎えた[1][4]。
1942年(昭和17年)12月、第17独立守備隊長に発令され、1943年(昭和18年)3月、陸軍戸山学校長に就任[1][2][4]。1944年(昭和19年)6月、香港占領地総督部参謀長に転じ、同年12月、第23軍参謀長を兼務[1][2][4]。1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進み、翌月、第129師団長に就任[1][2][4]。恵州、淡水の警備に当たり終戦を迎えた[2]。1946年(昭和21年)5月に復員[1]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。
著作
編集- 『鵜沢尚信私記』非売品、1988年。
- 『陸軍戸山学校略史』私家版、1969年。
親族
編集栄典
編集- 勲章
脚注
編集注釈
編集- ^ 『日本陸軍将官辞典』122頁では5月19日。