1953-1954シーズンのNBA
1953-1954シーズンのNBAは、NBAの8回目のシーズンである。シーズンは1953年10月30日に始まり、1954年4月12日に全日程が終了した。
1953-1954シーズンのNBA | ||
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ミネアポリス・レイカーズ | ||
期間 | 1953年10月30日-1954年4月12日 | |
TV 放送 | NBC | |
観客動員数 | 981,606人 | |
ドラフト | ||
レギュラーシーズン | ||
トップシード | ミネアポリス・レイカーズ | |
スタッツリーダー | ||
得点 | ニール・ジョンストン | |
プレーオフ | ||
イースタン 優勝 | シラキュース・ナショナルズ | |
ボストン・セルティックス | ||
ファイナル | ||
チャンピオン | ミネアポリス・レイカーズ | |
<1952-53 |
シーズン前
編集ドラフト
編集ドラフトではレイ・フェリックスがボルティモア・ブレッツから全体1位指名を受けた。またボブ・ホーブレッグス、リッチー・リーガン、フランク・ラムジー、クリフ・ヘイガン、ジャック・ジョージ、ケニー・シアーズが指名を受けている。また地域ドラフトではニューヨーク・ニックスからウォルター・デュークスが指名を受けた。
その他
編集- 全米に放送網を持つ三大ネットワークの一つ、NBCとの放送契約に成功する。この契約は1962年まで続いた。
- 前季急増したファウルゲームを抑制するため、5つ目以降のチームファウルにはフリースロー2本が与えられるようになった。
- インディアナポリス・オリンピアンズが解散し、チーム数は9チームにまで減少した。
シーズン
編集オールスター
編集- 開催日:1月21日
- 開催地:ニューヨーク
- オールスターゲーム イースト 98-93 ウエスト(OT) MVP:ボブ・クージー (ボストン・セルティックス)
イースタン・デビジョン
編集チーム | 勝 | 負 | 勝率 | ゲーム差 |
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ニューヨーク・ニックス | 44 | 28 | .611 | - |
シラキュース・ナショナルズ | 42 | 30 | .583 | 2 |
ボストン・セルティックス | 42 | 30 | .583 | 2 |
フィラデルフィア・ウォリアーズ | 29 | 43 | .403 | 15 |
ボルティモア・ブレッツ | 16 | 56 | .222 | 28 |
ウエスタン・デビジョン
編集チーム | 勝 | 負 | 勝率 | ゲーム差 |
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ミネアポリス・レイカーズ | 46 | 26 | .639 | - |
ロチェスター・ロイヤルズ | 44 | 28 | .611 | 2 |
フォートウェイン・ピストンズ | 40 | 32 | .556 | 6 |
ミルウォーキー・ホークス | 21 | 51 | .292 | 25 |
スタッツリーダー
編集部門 | 選手 | チーム | 記録 |
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得点 | ニール・ジョンストン | フィラデルフィア・ウォリアーズ | 1,759 |
リバウンド | ハリー・ギャラティン | ニューヨーク・ニックス | 1,098 |
アシスト | ボブ・クージー | ボストン・セルティックス | 518 |
FG% | エド・マコーレー | ボストン・セルティックス | 48.6 |
FT% | ビル・シャーマン | ボストン・セルティックス | 84.4 |
※1969-70シーズン以前はアベレージよりも通算でスタッツリーダーが決められていた。
各賞
編集- All-NBA First Team:
シーズン概要
編集- ニール・ジョンストンが2年連続得点王を獲得。2年連続アシスト王に輝いたボブ・クージーは、得点王レースでも2位に着けた。
- このシーズンに設けられた「5つ目以降のチームファウルにはフリースロー2本が与えられる」新たなルールは、数字上でも確かな効果を見せた。前季1試合平均57.8まで上昇したファウル数は、このシーズンには50.7にまで抑えられた。ファウルゲーム乱発の対策には目処が立ったが、一方でリーグ全体の1試合平均得点は1947-48シーズン以来の80得点割れとなり、もう一つの課題であったロースコアゲームにも何らかの対策が必要だった。
チーム数が8にまで減ったことで、プレーオフの方式がまたもや変更された。プレーオフは各デビジョンごとにレギュラーシーズンの勝率上位3チームによるリーグ戦(総当たり戦)が行われ、その上位2チームでファイナル進出を賭けてデビジョン決勝を争った。デビジョン決勝は3戦2勝制、ファイナルは7戦4勝制である。
ウエスタン・デビジョン
チーム | 勝 | 負 |
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ミネアポリス・レイカーズ | 3 | 0 |
ロチェスター・ロイヤルズ | 2 | 1 |
フォートウェイン・ピストンズ | 0 | 4 |
イースタン・デビジョン
チーム | 勝 | 負 |
---|---|---|
シラキュース・ナショナルズ | 4 | 0 |
ボストン・セルティックス | 2 | 2 |
ニューヨーク・ニックス | 0 | 4 |
デビジョン決勝 | ファイナル | ||||||||
W1 | レイカーズ | 2 | |||||||
W2 | ロイヤルズ | 1 | |||||||
W1 | レイカーズ | 4 | |||||||
E1 | ナショナルズ | 3 | |||||||
E1 | ナショナルズ | 2 | |||||||
E2 | セルティックス | 1 |
ミネアポリス・レイカーズが前人未到の三連覇を達成し、5度目の優勝を飾った。1951年にロチェスター・ロイヤルズに阻まれなければ、6連覇の可能性さえあった。
レイカーズは30歳を迎えたジョージ・マイカンが故障箇所を多く抱えるようになり、数字の面ではやや衰えを見せ始めていた。レギュラーシーズンの平均得点は初めて20得点を下回り、18.1得点14.3リバウンドの成績だった。しかしそれでもマイカンは十分支配的なセンターであり、チームをリーグ最高勝率に導いた。また前季のドラフトで指名し、今季からチームに合流した206cmのセンター、クライド・ラブレットがプレーオフに入って大活躍した。
イースタンでは3年連続ファイナルに進出し、このシーズンもデビジョン首位に立ったニューヨーク・ニックスがプレーオフのリーグ戦まさかの4戦全敗を喫し、早くも姿を消した。プレーオフはシラキュース・ナショナルズが勝ち進んだが、その過程で故障者が続出し、マスコミは彼らを「Bandage Brigade(包帯部隊)」と呼ぶようになった。
ファイナルは包帯部隊を王朝レイカーズが一蹴するだろうと予想されたが、シリーズは意外にも第7戦までもつれ込んだ。第6戦では63-63の同点で迎えた第4Q残り4秒、NBAでは80試合しかプレイしなかったジム・ニールが決勝シュートを決め、65-63でナショナルズが勝利し、シリーズは第7戦へと突入した。しかし傷だらけのナショナルズは第7戦でついに力尽き、レイカーズが序盤に奪ったリードを一度も譲ることなく87-80で勝利した。
マイカンの引退とレイカーズ王朝の終焉
編集NBAの初代王朝を築いたレイカーズは、この優勝が1950年代最後の優勝となった。このシーズン終了後、レイカーズの心臓であったジョージ・マイカンが突如引退を表明し、世間を驚かせた。マイカンは未だリーグのトップ選手であったが、すでに肉体は悲鳴をあげていた。マイカンはNBLを含め、計7回の優勝を手にNBAから去ることになった。マイカンの去ったレイカーズは初代王朝の終焉期を迎えるが、すぐに再興に成功する。しかし次の絶頂期はボストン・セルティックスの絶頂期とも重なってしまい、レイカーズが次に優勝を手にするまで18年を待たなければならない。