1960年東京オリンピック構想
1960年東京オリンピック構想(1960ねんとうきょうオリンピックこうそう)では1960年夏季オリンピック開催地に東京都が立候補したことについて記述する。
1952年、オリンピックに復帰することになった日本は、同年5月に1960年第17回夏季オリンピックを東京に招致する意向を表明したが、1955年6月15日の第50次IOC総会の投票において第1回目の投票で落選した。東京は1940年夏季オリンピックの開催地として選ばれたが、日中戦争の拡大により開催を返上している。
招致活動の経過
編集- 1952年
- 5月19日 - 東京都議会でオリンピック招致を決議[1]。
- 6月23日 - 日本体育協会で行われた国際委員会、理事会の合同会で第3回アジア競技大会開催地として東京都を推すことを決定[2]。
- 7月2日 - 1960年夏季オリンピック東京招致のため東京都の春彦一副知事、東龍太郎IOC委員・日本体育協会会長、高石真五郎IOC委員がスイスのローザンヌへ出発[3]。
- 7月4日 - 都議会で1960年オリンピック招致委員会を都議会全員で構成し、その中から実行委員25名を選ぶことを決定[4]。
- 7月10日 - 東、高石両IOC委員と春東京都副知事がエドストレームIOC会長を訪問[5]。
- 7月12日 - IOC実行委員会が、1960年夏季オリンピック開催地の決定を3年後に延期[6]。
- 7月16日 - IOC総会で次期IOC会長にアメリカのアベリー・ブランデージを選出。
- 7月19日~8月3日 - ヘルシンキオリンピック開催。
- 7月24日 - ヘルシンキでアジア競技連盟総会が開かれ、1958年アジア競技大会を日本で開くことを決定。開催地は日本NOCが決めることになる[7]。
- 8月9日 - 都議会オリンピック招致実行委員会、委員長に中塚栄次郎を選出[8]。
- 11月28日 - 日本体育協会国際委員会は、第3回アジア大会を東京で開くことを決定[9]。
- 1953年
- 1954年
- 1955年
投票結果 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
都市 | NOC | 1回目 | 2回目 | 3回目 | ||
ローマ | イタリア | 15 | 26 | 35 | ||
ローザンヌ | スイス | 14 | 21 | 24 | ||
デトロイト | アメリカ | 6 | 11 | |||
ブダペスト | ハンガリー | 8 | 1 | |||
ブリュッセル | ベルギー | 6 | ||||
メキシコシティ | メキシコ | 6 | ||||
東京 | 日本 | 4 |
その後
編集1955年10月10日、東京都議会は第18回大会の招致を満場一致で決議し、1964年の東京オリンピック開催を目指すことになった。
脚注
編集- ^ 『朝日新聞』昭和27年5月20日付朝刊第3面
- ^ 『朝日新聞』昭和27年6月24日付朝刊第4面
- ^ 『朝日新聞』昭和27年7月3日付朝刊第4面
- ^ 『朝日新聞』昭和27年7月5日付朝刊第4面
- ^ 『朝日新聞』昭和27年7月12日付朝刊第4面
- ^ 『朝日新聞』昭和27年7月14日付朝刊第4面
- ^ 『朝日新聞』昭和27年7月25日付朝刊第4面
- ^ 『朝日新聞』昭和27年8月10日付朝刊第4面
- ^ 『朝日新聞』昭和27年11月29日付朝刊第5面
- ^ 『朝日新聞』昭和28年3月8日付朝刊第1面
- ^ 『朝日新聞』昭和28年12月17日付朝刊第8面
- ^ 『朝日新聞』昭和29年10月10日付朝刊第6面
- ^ 『朝日新聞』昭和29年12月8日付夕刊第3面
- ^ 『朝日新聞』昭和29年12月12日付朝刊第6面
参考文献
編集- 波多野勝『東京オリンピックへの遥かな道』草思社、2004年 ISBN 4-7942-1335-2