BIG-1物語 王貞治』(ビッグわんものがたりおうさだはる)は、1977年12月1日に公開されたドキュメンタリー映画吉田喜重構成・監督、読売映画社/東京読亮巨人軍読売興業)製作、東映配給[1]

BIG-1物語 王貞治
監督 吉田喜重
出演者 王貞治
川上哲治
荒川博ほか
音楽 一柳慧
読売日本交響楽団
製作会社 読売映画社東京読亮巨人軍読売興業
配給 東映
公開 日本の旗1977年12月1日
上映時間 86分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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文部省選定(少年向)作品[2]映連青少年映画審議会推薦[2]、優秀映画鑑賞会推選映画[2]

概要 編集

この年、ハンク・アーロンの755号を越える756号のホームランを打ち、国民栄誉賞を受賞した王貞治の"その瞬間"とこれまで歩んできた道を描く[1][3]

同時上映は、テレビアニメ新・巨人の星』の再編集版で、巨人軍をテーマにする映画の二本立てという、東映は後にも先にもない番組ローテーションを組んだ。

製作 編集

1977年9月24日、帝国ホテル記者会見があり、正力亨読売ジャイアンツオーナー、水町仁一読売映画社社長、岡田茂東映社長が出席[4]。正力オーナーは「伝統ある巨人軍の一因としての足跡と天性の明るさでチームをけん引している王選手の人間的な魅力を画面に引き出したい。華やかな一面だけでなく、努力することの美しさを知ってもらいたい」などと話した[3][5]。配給を担当する岡田東映社長は「この映画は各社争奪戦だった。封切りも当初は来春を予定していたが、国民的話題をぜひ今年中に映像化し『新・巨人の星』と合わせて巨人軍の群像をお伝えしようということになった」と話し[3]、このときの説明では「既に製作費6000万円を投じ、これからの製作費で8000万円になる予定。1977年10月20日クランクアップ、『新・巨人の星』との併映で1977年11月19日公開の予定」と発表されていた[4]

東映は長く自社製作配給興行ブロックブッキング)を堅持していたが、この年夏に岡田が積極的な外部提携を行う方針を打ち出していた[6][7][8]。構成・監督の吉田喜重は「この四年間はテレビの美術番組を撮ってきて、人間を描きたいという思いにかられていた。いま王選手の人間ドラマに取り組めるのは幸せだ。構成にあたり、ここまで来ているテレビ時代の中で、映画館では王選手とわたしというように一対一で対話できるようにしたい。もう一つあの756号は、王選手と日本人にとって何であったかを問い返すというテーマを持ちたい」などと話した[3]王貞治は「巨人軍に入団して19年。無心に白い球を打つことだけを心がけてきました。現役としては、ありがたいと同時におもはゆい感じもしますが、今まで描かれていない場面もあると思います」と述べた[5]

撮影・編集 編集

1977年8月末の対広島カープ三連戦で、王が四本のホームランを打った時点からフィルムを回し、756号を放った"世紀の瞬間"も後楽園球場の八か所に据えたカメラで撮影した[3]。他に王のそれまでの様々な試練に立ち向かう孤独な闘いの苦しさが織り込まれている[3]。全巻を上映したら二日間もかかるという10万フィートを超えるフィルムを回し、それを1時間26分に編集した[5]

出演者 編集

スタッフ 編集

同時上映 編集

新・巨人の星

出典 編集

  1. ^ a b BIG-1物語 王貞治”. 日本映画製作者連盟. 2019年2月3日閲覧。
  2. ^ a b c (1977年11月29日6面). “「広告」”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社)
  3. ^ a b c d e f (1977年9月27日2面). “「王選手の偉大な記録映画に構成 監督には吉田喜重 十一月東映系で公開へ」”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社)
  4. ^ a b “洋画関係の記者会見多い週”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1977年10月1日) 
  5. ^ a b c (1977年11月27日22面). “「王選手、栄光と涙全記録『BIG-1物語 王貞治』特別試写会」”. 読売新聞 (読売新聞社)
  6. ^ 文化通信社編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』2012年、87-100頁、ヤマハミュージックメディア ISBN 978-4-636-88519-4
  7. ^ (1977年10月4日7面). “「〈娯楽〉 テレビの人気シリーズ 水戸黄門映画化へ 東映と松下電器提携で 出演者ら同じ顔ぶれ 宣伝効果など共に大きな利点が」”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社)
  8. ^ 山田宏一山根貞男「関根忠郎 噫(ああ)、映画惹句術 第四十八回」『キネマ旬報』1983年12月下旬号、129頁、キネマ旬報社

関連項目 編集

外部リンク 編集