TK state
「TK state」(ティーケーステート)とは1994年から2000年まで運営されていた小室哲哉の個人事務所である。正式名称は「TETSUYA KOMURO state」である。小室の父が代表取締役を務め、小室も取締役に名を連ねていた[1]。
来歴編集
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系列事務所編集
TK MUSEUM編集
MUSEUM | |
---|---|
出身地 | 日本 |
ジャンル |
テクノ レイヴ ラップ ドラムンベース |
活動期間 | 1998年 |
レーベル | ソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズ |
事務所 | TK state |
共同作業者 | 原田大三郎(VJ) |
メンバー |
小室哲哉 (シンセサイザー) マーク・パンサー (ボーカル ) OLIVIA (ボーカル) DJ DRAGON (DJ) |
- 中日邦交正常化25周年記念ライブツアー「TK Presents GROOVE MUSEUM」では音楽ユニット「MUSEUM」としての側面もあった[2]。最初は小室、マーク・パンサー、OLIVIA、DJ DRAGONの4人からなる構成[3]であり、その後原田大三郎を加えその5人を固定メンバーとして、中国・香港の現地歌手との流動的なコラボレーションを中心にした世界展開プロジェクトを行う音楽ユニットを「MUSEUM project」名義で継続・兼任する企画もあった(この企画は諸事情で中止になるが、後にGABALL、TKCOMで結実する)。
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TK state America MUSEUM編集
- アメリカ・ハリウッドを活動・制作拠点にしていた。
- オン・ザ・エッヂ(現ライブドア)、バーニングプロダクションと業務提携を行っていた。
- 小室の当時の公式サイト「TK Gateway」・「planet TK」・「komuro org」、安室奈美恵の当時の公式サイト「AM-GLAM」、globeの当時の公式サイト「on the globe」、華原朋美の当時の公式サイト「area kahala」、鈴木亜美の当時の公式サイト「鈴木あみ ami suzuki」の運営を行っていた。
- 「YAMAHA EOS SOUND CONTEST98」に協賛として参加した。
- 「デジモンアドベンチャー キャラクターソング ミニドラマ (1)~(3)」にアドバイサーとして参加した(クレジット上は「スペシャルサンクス」となっている)。
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TK SEQUENCE編集
- 正式名称は「tetsuya komuro SEQUENCE 1101〜5」である。「True Kiss Disc Studios 1101〜5」とも表記された。
- 主に小室個人所有のレコーディングスタジオの運営・管理・機材購入を行っていた。
- 東京のマンションのフロアを5部屋借り切る形で設立され、トイレ・エレベーターを含む各階・各部屋全てにテレビモニターをつけて、どこからでもボーカル・コーラスを録れる様にした[4]。
- 小室の「東京のスタジオのレンタル料金は世界一高い。1時間5万円はかかる。6時間借りて、且つエンジニアへのギャランティ・機材のレンタル料金・スタッフの食事代も入れると1日50万円はすぐに超えてしまう。だから私有スタジオを作った方が結果的にリーズナブル」という経験が本格的にプライベートスタジオを所有する切っ掛けになった。機材・設備も小室の自費で揃え、設立するための総経費は2億5千万~2億7千万円はかかっている[5]。
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TK SEQUENCE America編集
- Kiss Destinationのレコーディングスタジオとして使用していた。
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TK ENTERTAINMENT SERVE編集
- 「TK E SERVE」と略することもあった。
- 小室プロデュース作品のプロモーションビデオ・CMの制作とプロデュースを取り仕切っていた[6]。
- イベント限定音楽ユニットであったtk-trapのプロデュースを行っていた。
- 華原朋美のヒストリービデオ「HOW TO MAKE TOMOMI KAHALA 華原朋美はいかにして華原朋美となり得たか」の制作を行った。
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Prime Direction TK Room編集
- 1996年以降のエイベックス発の小室プロデュース作品の原盤管理・映像制作を担当していた[6]。
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tetsuya komuro rise編集
- 「TK rise」と略することもあった。
- 主に華原朋美・木根尚登・久保こーじのプロデュース・マネジメント・コーディネート業務をエイベックスと共同で行っていた[6]。
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