小室哲哉

日本のミュージシャン、音楽プロデューサー (1958-)

小室 哲哉(こむろ てつや、1958年昭和33年〉11月27日 - )は、日本ミュージシャン作曲家音楽プロデューサーキーボーディスト東京都府中市出身。

小室 哲哉
MTV VMAJ 2014 Tetsuya Komuro (cropped).jpg
MTV Video Music Awards Japan 2014」のレッドカーペットに登場した小室哲哉。
基本情報
別名 TK
t[注釈 1]
t.komuro[注釈 2]
TECHI KOMURO[注釈 3]
TETSUYA KOMURO[注釈 4]
Tetsuya Komuro
Tetsuya_Komuro[注釈 5]
TETSUYA "TK" KOMURO[注釈 6]
566[注釈 7]
DJ TK[注釈 8]
t.tek 2[注釈 9]
TAN DK[注釈 10]
Lifecell[注釈 11]
Digital "Cheap" Snake[1]
スーパーウェーブ小室 [注釈 12]
生誕 (1958-11-27) 1958年11月27日(62歳)
出身地 日本の旗 東京都府中市
学歴 早稲田大学社会科学部中退[2]
ジャンル プログレJ-POPテクノレイブジャングルオルタナティヴR&BヒップホップニューエイジトランスEDM
職業 音楽プロデューサー
作詞家作曲家編曲家
トラックメイカー
キーボーディスト
シンセシスト
シンセサイザープログラマ
ミキシングエンジニア
DJ
担当楽器 キーボードシンセサイザーピアノオルガンギターベースドラムスコーラスボーカルブルースハープ
活動期間 1975年 - 2018年
2019年 -
レーベル
事務所
公式サイト avex公式サイト
著名使用楽器
Roland TR-808 / TR-909
YAMAHA KX5 / Tetsuya Komuro's Mind Control
YAMAHA DX7 / DX7II-FD / DX7II-D
E-mu Emulator II
EOS B200 / B500 / B700
Synclavier 6400
Ensoniq VFX
Roland JD-800
Fantom-G6 / G7 / G8
Clavia・Nord Lead 3
Access Virus・Virus Indigo 2 Redback / Virus TI2 Polar

参加ユニット

経歴

学生時代

3歳から12歳まで東京芸術大学教授の下でヴァイオリンクラシック音楽練習曲で只管同じフレーズを弾くレッスンを始めて、音感のベースを学ぶ。小学生の頃から既にクラシック音楽のインストゥルメンタルの楽曲を作っていた[5][6][7]。小学5年生のとき、母がエレクトーンを購入。これが鍵盤楽器との出会いとなる。母より先にコードを覚え、10日で基本操作をマスターし、エレクトーンの先生を驚かせた。同じ頃、母方の親戚の叔父からギターコードを習い、マスターするのが速くて叔父を驚かせた[6][8]。練習の時にフェリックス・メンデルスゾーンのメロディの歯切れの良さ・BPMの異常な速さ[9]、クラシック音楽の練習曲の子供でも飽きない多少の変化が考えられた構成[7]に影響を受けた。反面ピアノは独学であり、中学2年生の時に音楽の授業で周囲がギターを選ぶ生徒が多かったから敢えてピアノを選ぶ形で弾き始めた[10]。プロの鍵盤奏者として改めて真剣に向き合い、自分の腕を客観視し始めたのは実に1983年に入ってからだった[11]。ただし、それが功を奏し、後に「和音管弦楽法を前提にした発想」より「主旋律は1本のみ、単音を目立たせる構成」という基本が小室の中で出来上がった[7]

音楽の時間に50分で16小節を譜面に書く作曲のテストがあった際、教師が小室の作品を見て「誰かは言いませんけどこの中ですごく上手な人がいました」と言った後、その曲がピアノで披露されて、その曲を他のクラスメイトがリコーダーで吹いた。小室は当時を振り返り「目立ちたくない時期だったためものすごく嫌だった」「だけど自信にはなりました」と語っている[12][13][14]日本万国博覧会シンセサイザーマニピュレーターマルチモニター・12チャンネルステレオを背景に演奏する冨田勲を間近で見て、「もしモーツァルトの時代と同じ楽器しかなかったら僕はこの世界で勝負しなかった」と後述する程の衝撃を覚える[15][16]

中学生の時にシンセサイザーを無性に買いたくなり、家にあったギター・ヴァイオリン・エレクトーンを家族に無断で売り、当時16万円以上したというシンセサイザー「ローランドSH1000」を購入した。家族からは叱られたものの、「当時のシンセサイザーはエレクトーンより音数も限られていて、機体も小さかった。だけど間違いなく自分が得意なものとプライドを持てる」と確信し、それを切っ掛けに改めて練習を続けると共に、オリジナル楽曲の作曲を本格的に始める。渡辺美里の「きみに会えて」「BELIEVE」「嵐ヶ丘」「I wish」・TM NETWORKの「Here, There & Everywhere (冬の神話)」等後に提供する楽曲の雛型約20曲をその頃に作曲したという[6][17][18][19]

早稲田実業学校高等部商業科に入学。小室の作曲テクニックにクラスメイトが憧れる余り、クラスメイトの半数以上の作曲の宿題を肩代わりさせられた。音楽担任は小室が卒業するまで気づかなかったという[20]。この頃からELPピンク・フロイドレッド・ツェッペリンキング・クリムゾンT.Rex[注釈 18]ユーライア・ヒープコモドアーズKool & the GangEarth, Wind & Fireドナ・サマーディープ・パープルYes等の洋楽をプログレッシブ・ロックファンクを中心に漁るように聞いた[22][23]。その中でも影響を受けたミュージシャンとして、キース・エマーソンリック・ウェイクマンジョン・ロードキース・ジャレットジョー・サンプルデイヴ・グルーシン等のジャズ畑のピアニストを挙げ、特にキース・エマーソン[注釈 19]・キース・ジャレット[注釈 20]に関しては、即興演奏中心でプレイする姿勢に感銘を受けている。新宿のロック喫茶店に毎日入り浸り、ファンとしてミニコミ誌「ロック・ボトム」に参加し、アルバムの感想と評論を書いた[24]

早稲田大学社会科学部[2]に進学し5年ほど在籍、在学中にプロ・ミュージシャンとしての活動を開始する[注釈 21]。初めての現金で支払われたギャランティーは、18歳でダンスパーティーのバックバンドでキーボードを担当した時の演奏代で5千円だった[27]。ミュージシャンとしての腕前は自他共に認める程の下手さだったが、「シンセサイザーを使っている珍しいミュージシャン」という点で注目されて、色々な所からスカウト・セッション・レコーディングへの参加の依頼につながった[24]。大学の講義にはほとんど出なかったが統計学だけは面白く感じ、統計学の講義にだけは必ず出席し「どういう人達はどこに響くかを、リサーチ・計算して考える」ことにやりがいを覚えた[28]。その後も音楽活動に没頭し、授業料を楽器代に使い廻していたために単位が取れず、小室も「授業料を払う位ならシンセサイザーを買った方がいい」と考えたために除籍となる[29]

「真っ当な職に就くべきなのか」と焦りを感じつつも、音楽雑誌「Player」の当時の編集長の紹介でいくつかのレコード会社とつながりを持ちながら、その後も数々の数え切れない色々な人のバックバンド・スタジオミュージシャンを務め、デビュー前のTMのメンバー・スタッフのマネジメントも率先して取り仕切り、コンテストで腕を慣らした。1982年に機材運搬のための自前の自動車を売り払ってまで新しい機材を用意し、各方面に数々のデモテープを応募した。その時の志向はジョルジオ・モロダー[注釈 22]ELOバグルスのような「テクノポップの方面に行き過ぎず、飽くまでもポピュラー音楽の雰囲気を守り、如何に高級な機材を使わずに巧くダンス・ミュージックの音色を作るか」を考えながら入念に制作していた[31]。そうしていく内にデモテープが小坂洋二小林和之の目に留まり[32]、本格的にTM NETWORKデビューへの下準備を進めていった[13]

TM NETWORK〜TMN

自身の音楽ユニットであるTM NETWORKと並行して、三浦徳子の勧めと三浦の紹介で知り合った渡辺有三の推薦[33]、「たまには他の人の曲を作るのも勉強になる」という今野敏の後押し[34]岡田有希子の「Sweet Planet」「水色プリンセス ―水の精―」を皮切りに、渡辺美里荻野目洋子おニャン子クラブ福永恵規堀ちえみ中山美穂松田聖子小泉今日子宮沢りえ観月ありさ牧瀬里穂中森明菜などに楽曲を提供し、作曲家としても活躍する。その活動はTM NETWORK・ソロ活動の際の企画・制作費・プロモーションの環境整備に一役買った。特に当時共同で作業する機会が多かった大村雅朗に関して小室は「僕が提示しようとした新しさを一番理解してくれた。その上で他の歌謡曲とどのように馴染ませるか・どうフレーズとコード進行をアレンジすればヒットするかを考えるときに随分助けてもらった」と語っている[35][18]。その活動は巡り巡って雑誌・新聞に「TMの小室哲哉が作曲」と言う形でTMの宣伝として形に表れ、その後の作曲家としての小室の動き方に大きな影響を与えた[36]

1986年(昭和61年)に渡辺美里へ提供した「My Revolution」が、第28回日本レコード大賞金賞。TM NETWORKは、1987年に発表した「Get Wild」で一躍人気バンドとなり、1988年には第39回NHK紅白歌合戦に出場。しかし、小室は「何で『Get Wild』が1位じゃないんだ」と悔しがり、それ以来レコード会社と一緒に他の人気アーティストと発売日が飾らないように、スケジュールを自ら調整するようになる[37]

1988年初春から、「CAROL 〜A DAY IN A GIRL'S LIFE 1991〜」等の制作・海外の動向を探り、最新の音源に直接触れるために小室一人の仕事で費用をペイすることを条件[38]ロンドンに渡り、半年程をアパートで過ごした[注釈 23]。部屋に置いたCP-80で曲を作り、製品盤のイメージが見えてきたらトンプソン・ツインズのプライベートスタジオに足を運んでデモテープを作り、それを郊外のレコーディングスタジオで仕上げるという現地のミュージシャンと同じスタイルでの制作活動を繰り返した[41]。あわよくば現地にて女性ボーカリストをスカウトし「TM international」というTMの姉妹ユニットを結成・世界デビューさせる計画があったが、カイリー・ミノーグの1stアルバム「Kylie」の売り上げ規模をみて、日本と海外のマーケットの差が如何に隔絶しているかを思い知らされたこと[38]・「キックハイハットがシンクロしていない。これでは踊れない」と現地のミュージシャンに忠告され、自分の無力さを痛感したこと・プロデューサー集団PWLストック・エイトキン・ウォーターマン)の仕事を間近で見たことによりスタジオワークの面白さを知ったこと[注釈 24]ジャングルのロンドンでの浸透にショックを受けたこと[注釈 25]・日本との連絡手段として、直接話すときは国際電話、企画書のチェックにはFAX、デモテープの配送には郵便と用途別に使わなければならず、無駄な時間と通信費がかかり、本来の仕事に支障をきたしたことで白紙になった[46][47]。この件がきっかけでそれ以降、1年に最低でも1回、多くて4~5回はスタジオの設計と機材の研究も兼ねて、ロンドンの複数のスタジオでレコーディング・ミキシング作業を行うようになる[40][48][49]。その他にもミュージカル作曲家のアンドルー・ロイド・ウェバーの次から次へめくるめく感覚にも影響を受け、研究した[注釈 26]

1989年(昭和64年/平成元年)にシンガーソングライターとしてソロデビュー。リードボーカルを担当した「RUNNING TO HORIZON」、「GRAVITY OF LOVE」が連続でオリコンシングルチャート1位を記録。1985年 - 1992年の間には、アニメーション映画の「吸血鬼ハンターD」、実写映画の「ぼくらの七日間戦争」、「天と地と」、月9テレビドラマの「二十歳の約束」、舞台ミュージカルの「マドモアゼル モーツァルト」の劇中音楽を手掛けた。

1991年頃、松浦勝人と対面した際に松浦からTMの楽曲をユーロビート調にアレンジしたリミックスアルバム「TMN SONG MEETS DISCO STYLE」の企画を持ちかけられた時に「TMの作品が初回プレスは売り切っても、バックオーダーが発生しないから楽曲がファン以外に広がらず、カラオケでもディスコでも渡辺美里さんの曲しかかからない」という危惧・諦めからTMの固定ファンを「15万個の消しゴム」と例えるようになり、当時新興で軌道に乗り始めていたエイベックスからの誘いには最初は及び腰だった。だが松浦の「だったらTMの楽曲がかからないような所をターゲットにすればいいじゃないですか。絶対格好悪くならないようにしますから」「ヨーロッパでは一つの音で、ダンスフロアがぶわっと盛り上がる。そういう作り方の音楽も面白いですよ」と勧められたこともあり、1992年から自分のベースの一つであるダンス・ミュージックが「どうしたらそのジャンルが大好きな固定ファンから不特定多数の大衆に広がるか」をDJとして全国を回り音色・出演メンバーに対する若者の反応を確かめ、オーディションの審査員を務め、地道にスタジオで作曲活動をする等の試行錯誤をしていた[51][52][53][54]。ダンス・ミュージックを主軸に専念した理由として、「カラオケとディスコが流行りだしていて、ディスコの後にカラオケに行く人が多かった。でも、歌う曲はサザンオールスターズ松任谷由実さん・ZARDのような熱唱しなければいけない型ばかりで、ただタンバリンを持ってメロディに合わせて踊るだけでは無理がある曲が多かった。だから、歌うか・踊るかどちらに行っても楽しめる曲がもっとあってもいい。僕から見るとそこがマーケットとしての空白だった」と語っている[17]。しかし、1970年代 - 1980年代のシンセサイザーだとどうしても難しいプログラミングができないため、やむを得ず「メロディーとリズムが戻ってくる」パターンを作って繰り返さなければならず「流れが流暢でドラマチックで起承転結のある日本の歌謡曲」「尾崎豊さんのような涙・汗・エモーショナルな楽曲が名曲」と若者に受け入れられていた世間に対して、どうやったら反復が多くて無機質なダンス・ミュージックにロック・ミュージックに対抗できるパワーを持たせるか、音楽業界に入り込むかを考えていた[29]

しかし、小室がavex traxとライセンス契約を結んだ際、EPIC内では「他社のアーティストをプロデュースするなんて契約違反だ!」「法的には何の問題もないが義理としてはどうか」と議論が巻き起こった。これは当時の音楽業界では「音楽プロデューサーはレコード会社の社員・元アーティストの専属契約」であることが多かったためといわれる。その問題に対応するためにtrfデビューの際、TMとしての契約は引き続きEPICと結びながら、音楽プロデューサーとしてはフリーランスであるために、個人事務所「OPERA GIG(後にTK stateに改名)」を設立し、小室は音楽に関する全てのコンセプトを立てた。それをスムーズに実行させるために、丸山茂雄は「アーティスト主導・レパートリーの管理に特化した芸能事務所」をコンセプトに「アンティノス・マネジメント(後のブルーワンミュージック→現ソニー・ミュージックアーティスツ)」を設立、小室は第一号契約者となった[注釈 27][56]。それと同時に丸山が小室の個人事務所とフリー契約を結び、avexとの橋渡し役を務めた。形態として「演奏権は確かにエピック側が持っているが、打ち込まれたデータの再生は演奏ではない」と丸山が保障することで契約問題を乗り越え、その見返りとして本来小室に支払われる3つの音楽著作権印税の内「原盤権で生じる印税」「実演家としてのアーティスト印税」を丸山が頂く形をとり[57][58]、「作詞・作曲・編曲・プロデュースを中心とした売上中1~5%の著作権印税」は小室の取り分になった[40][59]

1993年に音楽プロデューサーに徹する決意を周囲に表明する。東京・のオフィスビルのフロアを借り切り、個人用のスタジオを3軒建て、ミキシング専任のスタッフをロサンゼルスとロンドンに抱え、配送スタッフを週2日定期的に行き来させる等、いつ誰とでも楽曲制作ができて、スムーズに海を越える態勢を整え[60]、「1993年はスタジオで音作りに明け暮れた」と述懐する程に、只管に楽曲のストックを増やす制作活動に徹した[61][注釈 28]。その時の目標となったのが、ジ・オーブの作品群・活動スタイルであり[注釈 29]、「TM・trfに共通する僕のすごくポップな部分が生まれる切っ掛けになった」と話している[64]。その時の状況を「世の中は既に仕事を分担してシステム化していくのに、全てを自分一人で決めていくなんて時代に逆行しているのではないか、やっていることは家内制手工業と同じだ」と迷いを見せたが[65]、反面作詞・作曲・編曲の内、小室の担当する作業がどれか1つだけだと制作に行き詰まり、敢えて3つ兼ねれば「メロディとコード進行が同じでも、音色と作詞次第で全く別の曲にできる」「作詞に行き詰ったときにコード進行をマイナーからメジャーにすることで全然違うイメージにする」「アレンジをダンスミュージックからロックに簡単に様変わりできる」等仕事の組み合わせが3つ以上あった方がかえって仕事がやりやすいことに気付き、「大量のアイディアのライブラリーになるし、アーティストのキャラクターの色分けにもつながる」と語っている[66]

そうした要領で創作活動を行いながら企画書を練っていく内に、「TMでできることはもうないんじゃないか」「女性ボーカリストのための曲をプロデュース・ワーク的な部分で作りたい」とその内容は小室を含むTMの3人では到底収めることができるものではなくなってしまったために1994年、TMの活動停止を決意する。その際のキーワードとして「解散」ではなく「終了」を全面的に押し出したのはその間際になってもなおTMの次のイメージと可能性[注釈 30]を見つけた自分に気付き、それを尊重するために「飽くまで第1期プロジェクト終了」「ニュース・ドキュメンタリー・モニュメントとしての『終了』という言葉のプロデュース」[69]というコンセプトから来たものである。小室が後に「どう聞いてもわがまま」と振り返るほどの申し出を受け入れてくれた宇都宮・木根には感謝の意を示している[70]

小室ブーム

1994年TMN終了前後から、観月ありさ篠原涼子trfhitomi内田有紀H Jungle with tdosglobe華原朋美安室奈美恵など、多数の作詞、作曲、編曲と音楽プロデュースを兼任して行った。1994年から1999年の間に数々のミリオンセラーヒット曲を打ち立て、各メディアにおいて「小室ファミリー」、「小室サウンド」、「小室系」といった名称でカテゴライズされる、自身の少年時代からの夢だった小室ブームという社会現象を起こした。ソニー・ミュージックエンタテインメント丸山茂雄が小室のプロデューサー活動を支援するためにアンティノスレコードを設立し、マネジメント業務もアンティノス・マネジメント(後のブルーワンミュージック→現ソニー・ミュージックアーティスツ)に移管した[71][72]

プロデュース手法の構築においては1980年代に、打ち込みによるダンス・ミュージックを基軸として世界的大ヒット曲を量産したストック・エイトキン・ウォーターマンとレコード会社をチェーンストアと考え、市場の要求とカラオケに通うファンのニーズに応えたソフトを自ら製造していく姿勢に対して「サウンドプロデューサーとして同じ志とノウハウ・戦略を持っている」と感じ取り、同時に「数字とクオリティに負けたくない」と悔しさをもらしたビーイング長戸大幸のプロデュース手法を参考にしたとされる[注釈 31]。実際に、小室本人がJ-POP向けにプロデュースした楽曲は、打ち込みによるダンス・ミュージックを基軸とした明確なサビのある歌モノであり、音楽に詳しくない一般層に対しても分かりやすいという特徴を持っていた[71][72][74]。松浦は「ぱっと聴いて、すぐ耳に残る分かりやすいフレーズ」を優先して作るように指示し[54]、その延長線上でミュージシャン・エンジニアとして様々な実験的演出を行った[75]

1994年から、EUROGROOVEという多国籍メンバーによるユニットを結成して海外進出を図った。小室ブームを迎え、日本の音楽が世界に通用しない現実を覆す試みとして開始されたが、日本国内で絶大なブームを迎えた小室本人の多忙により1996年に終了している。

1995年から4年連続でプロデュースした曲が日本レコード大賞を受賞[76]。この頃から「提供する歌手本人に一度も会わないこともある、音にこだわればそれでいい、その場限りの関係の単純な楽曲のオファー」より「まずテレビ番組とのタイアップがあって、それに向けた楽曲のプロデュースをして欲しい。部分的に見て頂いても構わないし[注釈 32]、最初から最後まで見てくれてもいい。アーティスト・発売先・音色・曲順・タイトルもお任せしますので好きにして構いません。レコーディングの予算・ジャケット写真・PV・ポスター・宣伝素材・キャッチコピーと取材を行う雑誌と放送等のメディアもプランの段階からコストを管理して、版下チェックして下さい。ライブの内容やスケジュールも監修してください。製作費まで全部お預けします」といった全権委任のオファーが殺到するようになり[44][40][79][80][81][82]、アーティストとしてステージに立ち、プロデューサーとしてレコード会社のマーケティング会議からCDショップでのセールスプロモーションまで時間の許す限りどんな場所にも顔を出し[83]、「相手のオファーの内容が分かりにくくなる」という理由から第三者を通してのやり取りはしないで代理店のスタッフを同伴してテレビ局・スポンサーに対して直接ディスカッション・売り込みを行い、要求を呑みつつも「作り手が直に交渉している」という事実を突きつける形で念押しし、出来上がった作品に対してスポンサーが断れないように持って行った[40][84]。小室が一番神経を使ったのが出稿量であり、「自分にくれるお金があるなら、その分スポットCMの本数を増やしてほしい」との思いから、テレビCMに提供した楽曲の著作権使用料は一切受け取らなかった[85]

1996年の1月から2月にかけて、スキャンダル報道が過熱し、複数のレコード会社の利害が錯綜した創作活動、複数の営業窓口が発生したCM等のタイアップ活動、マスコミ対策等、小室・丸山が対応できる範疇を超えてしまい、仕事量の膨大さと対処の煩雑さから、アンティノス・マネジメント独自のA&Rシステムは事実上崩壊する。それをカバーするため、マネジメント業務をエイベックス子会社のプライム・ディレクション(現:エイベックス・ライヴ・クリエイティヴ)が新設した「TKルーム」に移管。音楽業界以外の芸能界にも精通した小回りの効くスタッフが集められて、松浦をリーダーとするチーム体制での新しいマネジメントシステムがスタートし[86]、同時期に制作・生活拠点をロサンゼルスに移した[87]

この時点で、「タイアップが決まらないと曲を書かない」と公言する程[29]のタイアップありきのプロデュース手法に対して表立った批判が目立ちだしたが、小室は「まずスポンサーに気に入られて、初めて僕の曲になるんです」[88]「プロのミュージシャンは売れることで、やっと自分の好きな音楽ができるようになる。自分の好きな音楽よりも、売れる音楽を優先して作らないと駄目」[72]「聴いてもらえないということは『ポピュラー』の根幹に関わる。『大衆に迎合しすぎる』とか、『売ることばかりを考えている』との批判を聞くが、これは大衆音楽なのに」[85]と割り切った意見を述べた。

Mr.Childrenなどのプロデューサーとして知られる小林武史とイニシャルが同じことから「TK時代」「ダブルTK」「哲武ミリオン時代」と呼ばれた[89][90]。小室は「仕事の仕方は鏡に映る自分を見るようで、そっくりです。ただ小林さんは男性ボーカル・ロック・バンド系をプロデュースする。僕は女性ボーカル・ダンス・打ち込み系をプロデュースと対極にあるんです。この二つが互いに刺激し合ったおかげで、お互いにミリオンヒットが生まれたんだと思います」と語っている[89]

1996年4月15日にはオリコンシングルチャートにおいてプロデュース曲がトップ5を独占した[76]。1996年はglobeのアルバム「globe」が当時のオリコン記録を更新し、歴代1位となる売り上げ400万枚以上を記録。安室奈美恵のアルバムも330万枚を超え、華原朋美のアルバムも250万枚を超えるなど、この年だけでプロデュース曲の総売上枚数は1,500万枚以上を記録した[91]。さらに1996年から2年連続で高額納税者番付において全国4位を記録、1997年の納税額は11億7000万円で推定所得は約23億円だった[91]。1996年末には海外進出を狙いルパート・マードックと組み、100万ドルを出資して香港に合弁会社TK NEWS(後のRojam Entertainment)を設立した[91]

1997年、スピード2のテーマ曲のリミックスを手掛ける等の世界展開を行った[91]。8月にマネジメント業務をプライム・ディレクションからアンティノス・マネジメントへ戻し、活動拠点をアジアに定めた。「インターネットを駆使しての他所との円滑なスタジオワークのやり取り・近況報告」「アジアのマーケットの新たな開拓と米国への浸透」「米国のサウンドをアジアに持ち込み、『米国のサウンドと比べてアジアのサウンドはどうなのか?』というリサーチの繰り返しによる、アジアのサウンドの水準の維持・向上」を目的にしていた[87][92][93]が、後に「技術革新のスピードを読み違えてしまい、日本・ヨーロッパ・アメリカ・香港等、国毎にデータ転送の速度や通信環境などに格段の差があり過ぎて、すれ違いが起こってしまった」「『自分が今まで築き上げたブランドと成績を求められている』と過大評価していて、現地のリスナーやシンガーと密着して共に音楽の質を育てていく活動を意識していなかった」[94][95]「ただ日本での企画に関する喧騒からスタジオに逃げたかっただけだった」[96][97]と語っている。

ブームの失速

1997年前半まではミリオンセラーを連発していたが、この頃から既存の小室ファミリー向け楽曲の曲調がポップテイストからエレクトロへ変化している点(特に安室奈美恵の楽曲が顕著)、同年夏に小室とエイベックスの関係性の急速に悪化によりglobeが一時活動停滞したことや翌年1998年にはTRFhitomiらのプロデュースが無くなり、小室ブーム全盛期の中心にいた安室奈美恵は出産のため休業し、ミリオンセラーを叩き出した華原朋美も恋愛関係の清算による離脱等の複合的要因で小室ファミリーの規模が縮小。同時期に新たな音楽性をもつJ-POPアーティスト(R&B本格シンガーとして登場したMISIA、バンドブームを牽引したGLAYL'Arc〜en〜Ciel、若年層のアイドルブームを牽引したSPEED、エイベックス内で脱小室派閥が進んで勢いをつけたEvery Little Thingなど)が台頭し始め、小室ブームは少しずつ落ちていく。1998年にはtohko鈴木あみ未来玲可をプロデュースさせたものの、1996年前後の小室ブーム全盛期と比べて勢いは劣っていた。

翌1999年以降は明確なサビを持たせた楽曲展開をやめ、globeTRUE KiSS DESTiNATiONらを使って小室本人が次世代のダンス・ミュージックとして注目していた、トランスなどを日本のJ-POPに導入しようと試みたが、時代の先取りであった為、一般には受け入れられなかった。しかし、そこですでに最新の音楽を日本に取り入れていたのは、ある意味での功績とも言える。また、更なる世代交代で新しいアーティスト(若干15歳ながら数々の金字塔を打ち立てた宇多田ヒカル、エイベックスの脱小室派閥による戦略で女子高生を中心にブレイクした浜崎あゆみ、オーディション番組からつんく♂のプロデュースでブレイクしたモーニング娘。、自称新宿系を称し独自の世界観で魅了したシンガーソングライター椎名林檎など)のCDがヒットチャートの中心となり、小室プロデュースのCD売り上げは落ち、それ以後はglobe関係の活動がほぼ小室のウエイトを占めるようになった。

特にヴィジュアル系[注釈 33]つんく♂[注釈 34]・宇多田[注釈 35]の台頭には、価値観と感覚の相違・引退を意識させられた程の衝撃を受け、「今とは違った形のプロデューサーにならなければ」「作りたいときに作れて、鍵盤を弾けるときに弾ける作曲家に戻りたい」と自分の将来の立ち位置に悩んでいた[102]

この頃になると「売れなくてもいい」「売れるに越したことはないけど、この時代にどれだけ人の心に届くかを重視している」[103]小澤征爾さんの作品の大ヒットを見て、メガヒットに頼らないセレクトショップのような音楽を目指したいと思った」[104]と心境の変化を語った。

吉本興業へ移籍

2001年1月にソニー・ミュージックエンタテインメントとの専属プロデューサー契約を解除し、前受の報酬金(印税)18億円を返還。数々のミリオンセールスを導き出した安室奈美恵が『Think of me/no more tears』を最後に小室プロデュースから独立した。5月にASAMIと再婚。また、小室が株式の大半を握っていたRojam社が香港株式市場(H株GEM)に上場factoryorumokを清算後、マネジメント契約をアンティノスマネジメントから吉本興業所属に移す。かたわらでタレントとしても活動し、同年のバラエティ番組「笑う犬の冒険」のコントに『超ハンサム侍』として出演する等の話題はあったが、プロデュース業は好転しなかった[91]。9月に富士銀行が日本の銀行として初めて本人所有の著作権を担保に10億円の融資を行った[105]。融資金は先述の専属プロデューサー契約解約による前受金返還に充てたことが後の5億円詐欺事件の公判で明らかにされた。

2002年3月にASAMIとわずか10か月でスピード離婚(実子あり)。5月には吉本興業が設立したアール・アンド・シー・ジャパン(現:よしもとミュージック)の株式70%強をRojamが買収し、吉本との関係を強化した。そして11月にはKeikoと再婚。TBSで結婚披露宴特別番組生中継されたことは話題となった[91]。しかし、ASAMIとの間で合意した約7億円の慰謝料を一括で払うことはできず分割で支払うことになったが、その支払いも資金繰り悪化のために2004年8月頃には滞るようになったという[91][106]

この頃より所有していた別荘株券高級車クルーザーなどの資産売却を行うようになった[91]。2004年には約70億円の株式評価損が生じたRojam Entertainmentの出資・経営から撤退した[91]。さらに2005年9月には大分トリニータへのスポンサー料7000万円を滞納していることも明らかとなった[106]2007年吉本と契約終了し新たにイーミュージックと契約。2008年11月1日NACK5の開局20周年番組に出演した際には自らの活動を振り返り「98年からの10年はなかなか曲が出てこなかった」[107]「もうやれることはやりつくした気がして貪欲になれなかった」[108]と語っていた。

5億円詐欺事件

2006年8月6日、小室は日本音楽著作権協会に自分名義で登録している全楽曲806曲の著作権を10億円で譲渡する仮契約を関西地方在住の個人投資家男性と締結。前妻のASAMIが著作権使用料を差押さえているとして、その解除費用として5億円の先払いを要求し、8月29日までに5億円を受け取った[109]

しかし実際には仮契約段階で既に著作権の一部は、エイベックス・エンタテインメントバーニングパブリッシャーズライジングバブリッシャーズといった音楽出版社に譲渡(音楽業界では著作者である作曲家や作詞家が音楽会社に著作権を譲渡して管理を任せる代わりに印税を受け取ることが慣例となっている[109])されており、小室には著作権がなかった[109]。だが小室は返金に応じなかったため、男性は2008年2月に小室に対し逸失利益を含めた6億円の損害賠償を求め提訴[109]。小室が全額を支払うことで和解が成立したが、期日であった9月末までに小室は支払わなかった[109]

このため男性は地方検察庁刑事告訴した[109]。検察側は小室が受け取った5億円を差し押さえ解除ではなく借金返済に使っていたことを把握。当初から金を詐取する目的だったと判断し、2008年11月4日午前7時40分頃に大阪地検特捜部は小室とトライバルキックスの社長、広告会社の実質経営者の計3名を5億円の詐欺容疑で逮捕した[110]。なお、前日に大阪地検特捜部から任意出頭の要請を受けたため新大阪駅前のシティホテルに滞在しており、逮捕時はみのもんたの朝ズバッ!など一部の朝の情報番組が特別編成となり、逮捕容疑の解説とホテル上空の空撮映像を交えてホテルエントランス前から連行される様子を生中継していた。

11月21日に起訴され、同日に保釈保証金3,000万円を支払い保釈された[111]。保釈保証金はレコード会社のエイベックスと妻のKEIKOが支払った[112]

2009年1月21日に大阪地方裁判所にて初公判、3月12日に第2回公判が行われる。第2回公判直前の3月10日、解決金を含めて6億5000万円をエイベックス・グループ代表の松浦勝人がポケットマネーで立て替え、被害者に完済した。被害者側に謝罪の手紙を送っているが受取りを拒否されている[113]。なお、この被害者に送るつもりだった謝罪文は第三回公判の際に、小室自身により読み上げられた[114]。被害者側との示談交渉においては、情状証人として出廷した松浦は「示談を申し込んだが“できない、誠意が足りない”と弁護士から聞かされた。“誠意が足りないとはどういうことか”と代理人に尋ねたら“お金だ”と聞き、非常にショックを受けた。」と証言した[115]が、被害男性は「そのようなことは一切言っていない」と否定し、「民事裁判で和解が成立して決着している。」と話している[116]。なお、SNSmixiでは2008年11月から「小室哲哉氏の復活を願う会」というコミュニティが457人を集めたり、mixiのサポートを受けての紙ベースの署名活動も行われていた。(署名TVでも行われていた。)さらに小室の母親やマネージャー、弁護士の了解を得た上で署名活動と平行して裁判所への提出もありうるという大前提で小室に対して手紙を書く「小室哲哉さんへの手紙」という活動も行われていたりと、復帰待望論が起き、[注釈 36]小室の減刑を望む動きは、音楽業界や音楽業界関係者からもあり、実際に減刑嘆願書を出した音楽業界関係者もいた[117]。第3回公判は4月23日に行われて結審。

2009年5月11日大阪地方裁判所より懲役3年、執行猶予5年の有罪判決が言い渡され、弁護側・検察側共に控訴はせずに、同年5月25日午前0時をもって刑が確定した。

再出発

2010年5月に復帰第一作としてAAAの楽曲「逢いたい理由/Dream After Dream 〜夢から醒めた夢〜」をプロデュース。また、翌6月には森進一への提供楽曲が発売されることがマスメディア、および5月2日付の小室のtwitterにて明らかとなった[118]。『眠らないラブソング/道標』の楽曲提供が決まり、作曲の他作詞、編曲も手掛けることとなった。その後もレコード会社を問わず超新星SMAP北乃きい浜崎あゆみらへ楽曲を提供している。小室は、アイドルなどにたくさんの楽曲を提供していた80年代の頃に感覚が似ていると語っていた。一方で2010年9月29日にはglobeのベスト盤がリリースがされ、未発表曲や、パッケージによっては未公開映像や小室のサインも提供された。また、11月にやしきたかじんへ楽曲「その時の空」を提供した。

2011年6月13日、宇川直宏の主催する音楽動画配信サイトDOMMUNEにてストリーミング配信ライヴを行う。瞬間最大視聴者は2万7000人を超え、合計視聴者数は14万4000人を記録した。12月23日、ラフォーレミュージアム原宿にて開催される「HARAJUKU PERFORMANCE + DOMMUNE」の4日目に出演。冨田勲とのトーク&ライヴを開催した[119]

2012年3月20日、幕張メッセで行われた東日本大震災復興支援チャリティコンサート『ALL THAT LOVE-give&give-』に、TM NETWORKとして参加したのをきっかけに、約4年ぶりにTM NETWORKの活動を再開、日本武道館コンサート、新曲「I am」リリース、2013年にはさいたまスーパーアリーナ公演を開催。

TM NETWORK 30周年

TM NETWORKがデビュー30周年を迎える年である2014年にはツアーやリリース、テレビ出演など活動を活発化させた。春にはおよそ6年ぶりとなる全国ツアー『TM NETWORK 30th 1984〜 the beginning of the end』がスタート。過去楽曲をリメイクしたアルバム『DRESS2』や新曲『LOUD』もツアーのスタートに先駆けてリリースされた。同年10月29日には7年ぶりとなるオリジナルアルバム『QUIT30』をリリースし、オリコン初登場8位を記録した。同時に秋から冬にかけて行われたツアー『TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30』もスタート。

2015年2月にアリーナ公演『TM NETWORK 30th 1984〜 QUIT30 HUGE DATA』、3月に横浜アリーナにて単発コンサート『TM NETWORK 30th FINAL』を行い2012年から続いたシアトリカルなライブを完結させ、2012年から続いたTM NETWORKとしての活動も充電期間に入ることが発表された[120]

突然の引退表明

その後坂本美雨とのコンサートやglobe20周年、多岐に渡る楽曲提供や各種イベント出演、ソロアルバムや脇田玲とのインスタレーションの制作、配信番組の司会や浅倉大介とのPANDORA (音楽ユニット)の結成など精力的に活動していたが、2018年1月19日、前日発売の『週刊文春』の報道をうけ記者会見を行い、音楽活動からの引退を表明した[121]。小室は会見で女性との不倫関係を否定し、妻の介護をする中での自身の精神の疲労を述べ、C型肝炎や左耳の突発性難聴といった病を患って左耳がほとんど聞こえなくなり身体的な能力が低下したことで、自身の創作能力の限界を感じていたことを明かした[122][123]。後に離婚調停に入っていることが報じられた[124]

活動再開

2019年より、ピアノ・シンセサイザーを駆使して制作した空間音楽建築芸術関係の企業に向けて提供する仕事を、自身の名前を出さずに始めることでミュージシャンとしての制作活動を再開する[125][126]

2020年、秋元康や関係者の後押し・オファーによって乃木坂46の「Route 246」に作曲・編曲として参加し2年3ヶ月ぶりに公での楽曲提供を行い[126]、ストリーミングは1週間で300万再生を超えた[127]。父母ヶ浜での野外コンサート、TM NETWORKとしてのラジオ出演や3人でのステージなど活動を再開した。

2021年2月26日、KEIKOとの離婚が成立した[128]

バイオグラフィ

ディスコグラフィ

ライヴ・コンサートイベント

※オーガナイザーを務めたライヴ等も含める。ゲスト出演等は省略。

テレビ・ラジオ

※テレビ・ラジオの項ではレギュラー出演していたもののみ記す。

テレビ

ラジオ

チャート

1996年4月15日付けのオリコンシングルチャートで、小室哲哉が作詞・作曲・プロデュースした楽曲が1位から5位までを独占した。同一作曲家、兼プロデューサーによる上位5曲の独占は、日本のみならず世界の音楽チャートにおいても史上初めてのことである。

1995年度のJASRAC発表の著作権使用料の分配額ランキング(JASRAC賞)では、小室哲哉が作詞・作曲した楽曲が国内作品の1位から3位までを独占した。同一作曲家による上位3曲の独占は、同ランキング史上初めてのことである。

1998年10月19日付けのオリコンシングルチャートで、小室がリーダーを務めるglobeの楽曲4曲が同時にベスト10入りし、当時として史上初の記録を達成した。この記録は「発売日が異なる再発でない同一アーティストによるシングルの複数チャートイン」として現在も記録が保持されている。

オリコン

シングル総売上枚数 - 4,219万枚(作詞家歴代4位)2011年6月20日現在
順位 売上枚数
(単位:万枚)
作詞家
1 6,828 阿久悠
2 4,984 松本隆
3 4,576 秋元康
4 4,219 小室哲哉
5 3,718 稲葉浩志
6 3,570 桑田佳祐
7 3,467 つんく♂
8 2,850 桜井和寿
9 2,596 なかにし礼
10 2,473 山上路夫

主な提供曲(1980年代〜2011年)

下記は一部に過ぎない。詳細は小室哲哉提供楽曲一覧を参照。

  • 岡田有希子
    • 「Sweet Plant」 アルバム「十月の人魚」に収録された下記曲を含むアルバム曲で、2曲とも作詞は三浦徳子、編曲は松任谷正隆が担当。
    • 「水色プリンセス」
  • 福永恵規
    • 「10月はさよならのパームツリー」 元おニャン子クラブのメンバーに初めて提供したミディアムテンポの歌謡曲。編曲は下記曲と共に大村雅朗。
    • 「ハイパー・ラッキー」 こちらはアップテンポの楽曲で、小室哲哉の特徴的な早口のアイドルPOPS。
  • 岩崎良美
    • 「哀愁クルーズ」 アルバム『cruise』に収録。
    • 「スロープに恋をして」 作詞は松井五郎。編曲は武部聡志で、小室哲哉の80年代の楽曲提供曲を多くアレンジした一人。
    • 「Blizzard」 作詞は麻生圭子、編曲は上記曲と同じく武部聡志。収録アルバム『blizzard』の表題曲に当たる。
  • 原田知世
    • 「家族の肖像」 作詞・秋元康、編曲・後藤次利というゴールデンコンビでの楽曲。
  • 荻野目洋子
    • 「NONSTOP DANCER」 アルバム「ノン・ストッパー」に収録されている楽曲で、荻野目洋子自身が一番好きな曲と公言した曲。
    • 「ジャングル・ダンス」 NHK「みんなのうた」で何度も流れていた楽曲。
  • 松田聖子
    • 「Kimono Beat」 元レベッカ土橋安騎夫がサウンドプロデュースしたアルバムの「Strawberry Time」に収録されている楽曲。
  • 大西結花
    • 「パンドーラ」 小室哲哉が当時お気に入りだったと公言していたアイドルに提供した楽曲。
  • 八木さおり
    • 「月と恋心」 同じく小室哲哉が当時お気に入りだったと公言していたアイドルに提供した楽曲。作詞は森雪之丞で、編曲は武部聡志。
  • 沢口靖子
    • 「Follow me」 沢口靖子が出演した「痛快!ロックンロール通り」の挿入歌。作詞は川村真澄で編曲は大村雅朗。同ドラマではTMNetworkが主題歌を担当した。
  • 郷ひろみ
    • 「空を飛べる子供たち〜Never end of the earth」 アルバムの最後に収録されている楽曲で作詞は秋元康。
  • 渡辺美里
  • 中山美穂
    • JINGI・愛してもらいます(1986年)中山美穂が出演した映画「ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌」主題歌
    • 50/50(1987年)オリコンシングルチャートで2位を記録
  • 堀ちえみ
    • 愛を今信じていたい(1987年)引退前のラストシングル
  • 伊藤かずえ
    • 星屑のイノセンス(1988年)
  • 小泉今日子
  • 宮沢りえ
    • ドリームラッシュ(1989年)デビューシングル。小室がプロになってから始めてトータルプロデュースしたアイドルである。
    • NO TITLIST(1990年)宮沢りえが主演のフジテレビ系ドラマ「いつも誰かに恋してるッ」の主題歌。デビュー曲と同様に編曲も担当している。
  • 田中美奈子
    • 夢みてTRY(1990年)田中美奈子が主演の「トップスチュワーデス物語」の主題歌。
    • 「I say Hello Again」 こちらは「夢みてTRY」のカップリング曲で、B'z松本孝弘がエレキギターを弾いている。
    • tears(1995年)作曲。編曲は窪田晴男と担当、ジャングルサウンドとなっている。
  • 観月ありさ
    • TOO SHY SHY BOY!(1992年)作詞・作曲・編曲、サウンドプロデュースを担当。
  • 東京パフォーマンスドール
    • キスは少年を浪費する(1993年)サウンドプロデュースと作曲・編曲を担当。
    • ダイアモンドは傷つかない(1993年)楽曲提供のみでなく、ミキシングまで手掛けた楽曲。楽曲提供したアルバムでも同様。
    • 「Sanctuary〜淋しいだけじゃない」 所属していた篠原涼子穴井夕子が歌唱している楽曲。後に小室哲哉プロデュースで篠原涼子がセルフカバーしている。
  • バックストリート・ボーイズ
  • 森進一
    • 眠らないラブソング(2010年)作詞・作曲・編曲を担当。
  • SMAP
    • Trust(2010年)作詞・作曲・編曲を担当。アルバム『We are SMAP!』に収録。
    • グラマラス(2010年)作詞・作曲を担当。シングル『This is love』のc/w。
    • 意外にもジャニーズのアイドルグループに楽曲を提供するのはこれが初である。
  • 北乃きい
    • 花束(2010年)作詞・作曲を担当。翌年のアルバムにも2曲を書き下ろし。
  • AAA
  • 浜崎あゆみ
    • crossroad(2010年)作曲・編曲を担当。
    • Virgin Road、Last angel(2010年)作曲を担当。シングル『L』収録。
    • アルバム『Love songs』では収録曲のほとんどを小室が作曲した。以降も時折楽曲提供。
  • やしきたかじん
    • その時の空(2010年)作曲を担当。
    • やしきたかじんの冗談で楽曲提供が決まった。作詞は秋元康が手がけた。
  • 坂本美雨
    • True Voice(2011年)作曲を担当。アルバム『HATSUKOI』収録。
    • 坂本美雨は同時期に小室のソロアルバム『Digitalian is eating breakfast 2』にも参加、のちにライブを各地で共に行っている。

主なヒット曲(1993年〜)

1994年、小室哲哉は、trfの「survival dAnce 〜no no cry more〜」で初めて100万枚以上のヒットを達成。

1997年の華原朋美の「Hate tell a lie」まで20曲のミリオンヒット曲を世に送りだした。(小室ブーム参照)。

小室哲哉がこれまでにプロデュースしたシングル・アルバムの総売上枚数は、約1億7000万枚に達する。また、日本の作曲家別シングル総売上枚数は筒美京平に次ぎ第2位[76]、作詞家別シングル総売上枚数は第4位である[182]

※下記は主な小室哲哉プロデュース作品であり、一部にすぎない。☆ … ミリオン ☆☆ … ダブルミリオン

1993年
1994年
1995年
1996年
1997年
1998年
1999年
2000年
2001年
2020年

音楽性

ミュージシャンとしての姿勢

メディア上の戦略的演出

人物

尚美学園大学芸術情報学部教授[注釈 44]
国際麻薬統制委員会(UNODC)親善大使[152]
肝炎対策大使
東京多摩振興特命武蔵国府中大使[163]

親は福島県出身。福島県中島村村長を務めた小室康彦は遠縁にあたる[注釈 45]。自身のTwitterで、佐久間象山柴田勝家の血をひいている可能性があることを明らかにしている[183]

愛称は「てっちゃん」「先生」「TK」など。身長167cm、体重57kg。血液型O型。左腕下部に入れ墨が2つある。1990年代にTKロゴを、2000年代にその上に別のマークを彫った[184]

早稲田実業学校高等部商業科卒業後、早稲田大学に進学・在籍するが除籍、しかし現在は推薦校友になっている。2001年に早稲田実業学校開校百周年記念に百周年記念歌『ワセダ輝く』を作曲(作詞は奥島孝康)。母校の早稲田実業学校には『小室哲哉記念ホール』がある。年齢も職業も異なる人たちと異業種交流を行う会である「異能会」を主催し、定期的に行っている[185]

自他共に認める「怒らない性格」であり[186]阿川佐和子は「淡々とした語り口、やさしく、腰が低く、親しみやすい雰囲気」[187]久保こーじは「殴り合いはもちろん、怒鳴りつけている所も見たことがない。ブツブツと文句を言うこと位はありますけど、温厚な人なんですよ」[188]岩佐俊秀は「自分の不注意で大切なデータを消してしまったのに、『仕方ないね』の気楽な一言で済ませてしまう性格は真似したくてもできない」[189]と語っている。

自他共に認める「ワーカーホリック」であり[13]、1年の内の8割をテレビ・コンサート・CM等のメディア出演がない限り1日をスウェット姿でスタジオを兼ねた自宅で過ごし[190][191][192]、特に年末年始を世間の喧騒から逃れられる貴重な時間として好んでいる[193]。小室は「スタジオが好き。『メロディが出来て、こんなアレンジで完成して、このような広がり方で売れて、こんなコンサートがあって』と夢を膨らませることができる」と語っている[194]

使用機材

関連企業

  • Office TIMEMACHINE(株)
1983年TM NETWORKデビュー前から小室・木根が所属していたJun & Kei社内に設立されたTMのマネジメント・コーディネート業務専門の芸能プロダクション[195]。別名「TIMEMACHINE CAFE」・「TIMEMACHINE CORPORATION」・「TIMEMACHINE GROUP」・「Timemachine」。1990年「TMNリニューアル」の際、事務所社長に就任[196]。一時期、葛城哲哉阿部薫浅倉大介貴水博之も所属しており、「TMN終了」以降も1995年までのaccessのマネージメント、1998年まで宇都宮のマネジメントを行っていた。
  • T-MUE-NEEDS(株)
TM NETWORKのグッズ・イベント等の企画・運営会社。1994年8月「TMN終了」時に袂を分ち改称[197][198]
  • グラデミー(株)
小室が1991年に設立し、代表取締役社長に就任した映画製作会社(宇都宮、木根も取締役に就任、角川春樹三菱商事もバックアップとして参加していた)。社名の由来は、「グラミー」と「アカデミー」を掛け合わせた造語とも[199]、英語で「引力」と表す「gravitation」と英語で「純粋・学術的」と表す「academic」を掛け合わせた造語とも[200]いわれる。木根尚登著「月はピアノに誘われて」の映画化、TM NETWORKの楽曲「THE POINT OF LOVERS' NIGHT」をモチーフにした映画製作(小室、原案・脚本、木根)[201]、「チーム・グラデミー」名義でのF1参加[200]の企画が持ち上がったものの、それ以降公式のアナウンスが無いまま自然消滅した(F1参加は実現した)。
小室の個人レーベル運営およびイベント制作のために設立された会社。現在では小室とは離れた事業会社としての性格も持つ。
TK TRACKSの子会社。小室と直接の関係はない。
  • OPERA GIG→TK state(有)
    • TK MUSEUM
    • TK state America MUSEUM
    • TK SEQUENCE
    • TK SEQUENCE America
    • TK ENTERTAINMENT SERVE
    • Prime Direction TK Room
    • tetsuya komuro rise
1992年に「OPERA GIG」として設立され[202]、1994年に「TK state」に改名[203]。その後2000年まで運営されていた小室の個人事務所。「TK MUSEUM」はイベント限定で音楽ユニットとしても活動していた(このノウハウは後のTKCOMに活かされる)。
小室と丸山茂雄ニューズ・コーポレーションが共同で設立したアジアマーケットをターゲットとし、音楽レーベル運営・テレビ番組の制作と配給を目的とした事業会社[73]。「SPEED TK RE-MIX」のスーパーバイザー・中国で放送されたオーディション番組「TK NEWS -小室魔力-」の番組監修を務め、JスカイB(現スカパー!)の小室のタイアップによる音楽専門番組「Sky Music」で小室プロデュース楽曲とPVを流す予定もあった[204][205]。後に本社を母体としてRojam Entertainmentに発展する形で解散・吸収合併した。
香港を拠点とした本格的なアジア進出を目的とした総合音楽プロダクション。小室は2004年5月に全持株を売り実質上経営から撤退するも、プロデューサー契約として残っており(専属ではない)、小室の個人スタジオを運営・管理する等関係は2008年まで続いていた。
サッカー関連のマーケティング、制作などを行うための会社として設立、後に実質的な小室・木根(一時期のみ)の個人事務所となる。TKCOMの発足に伴い、休眠。

個人レーベル

個人スタジオの変遷

※太字は2011年現在使用しているスタジオである。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 浜田雅功とのコラボレーション時に使用。
  2. ^ SERIKA with DOGのサウンドプロデュース、篠原涼子とのコラボレーション時に使用。
  3. ^ SPEEDWAY参加時に使用。
  4. ^ クレジットに乗る際の大部分の名義として定着している。
  5. ^ 2010年から使用。
  6. ^ 1997年の全米進出時に使用。
  7. ^ dosのアルバム『chartered』に使用、またTM NETWORKのオフィシャルサポーターユニットのグループ名として命名、バリ島の別荘の表札に使用。
  8. ^ mF247への楽曲提供時に使用、現在も時折使っている。
  9. ^ TRFの海外用PR盤制作時に使用。
  10. ^ global trance 2』制作時・『Cyber TRANCE』プロジェクト参加時に使用。
  11. ^ Embryo』の発表時に使用。
  12. ^ ハンバーグ&カニクリームコロッケ』での活動時に使用。
  13. ^ 小室・西村麻聡山田わたるによる企画ユニット。FENCE OF DEFENSEのデビューによりTM NETWORKのサポートメンバーから抜けざるを得なくなった西村・山田への返礼として結成され、1987年1月に全国8ヶ所を周った。ハワード・ジョーンズのコピー・TMの楽曲のインスト・吸血鬼ハンター“D”の楽曲・未発表のオリジナル楽曲が演奏された[3]
  14. ^ 1993年の「avex rave '93」まで正式メンバーとしてキーボードで参加。
  15. ^ 山羊智詞率いるロックバンド。小室はキーボーディスト・作曲家としての参加であり、水江慎一郎 (ex UP-BEAT)、横内健亨(ex ハイソサエティーTENSAW)、朝井泰生今川勉 (ex ECHOES) もメンバーとして名を連ねていた。ツアー途中からに太田明(ex 筋肉少女帯)が参加、1993年頃にデビューアルバムをリリースする予定だったが、レコード会社・所属事務所の都合でアルバムリリース直前に解散。EPIC・ソニー(現:エピックレコードジャパン)から発売予定だった1stシングル「No! Mercy Boy!」は、小室哲哉の作曲作品(山羊智詞 作詞)で、東京パフォーマンスドールの「キスは少年を浪費する」と同曲であった。
  16. ^ 東京パフォーマンスドールのアルバム『MAKE IT TRUE 〜Cha-DANCE Party Vol.6』のサウンドクリエイトのために結成された小室と久保こーじ松本みつぐ田代隆廣が取締役・プロデューサーを務める音楽製作プロダクション「MST」からなる制作ユニット。
  17. ^ 小室哲哉feat.神田沙也加(TRUSTRICK)& tofubeats[4]
  18. ^ 「音楽のファンというより、ヴィジュアルのファンだった」「生まれて初めて自分で買った洋楽のロックアルバムが『ザ・スライダー』だったけど、アバンギャルドで恐ろしい音楽。アコースティック・ギターがメインのイギリスのフォークという色で、僕が得意とする音じゃなかった」と語っている[21]
  19. ^ ナイスの時に知った際はロックというより怖い宗教音楽みたいなイメージでのめり込む勇気がなかった。ELPになった時『シンセサイザーとロックがつながった』と感じ、色々買い出した」[24]「運指の粗さ・ミスタッチをアドリブでどうごまかすか、どのようにお客さんを驚かせて喜ばせるかがすごく勉強になった」と話している[25]
  20. ^ 「テクニックや正確さよりも、それぞれが気持ち良いと思う響きを奏でようとする姿勢に共感しました」[26]「『フェイシング・ユー』を聴かなかったら、もしかしたらプロにならなかったかもしれない。弾き方や癖にまで影響を受けた。元々ジャズピアニストだがグルーヴ感があり、ロックを感じた」[10]と話している。
  21. ^ 哀婉・あのねのね白竜原田真二等のバックバンド(キーボードを担当)、SPEEDWAYへの参加等。
  22. ^ 「『ジョルジオ・モロダーと言えば小室君!』と宣言できる位、僕は彼のことに詳しいですよ。彼には悪いけど、すごく音楽性が似てるんだもんね」と話している[30]
  23. ^ ロンドンを気に入り永住権も取得していたが[39]、最終的に引き払った[40]
  24. ^ ビルボードでも堂々と1位を取ったり等大衆性があった。とにかく歌う側も『誰かに形にしてもらって当たり前』と完璧に開き直っていました。そんなすごく華やかなシーンに注目していたので、この時期の日本の動きにはほとんど目がいってませんでした」[42]「どのブースに行ってもコントロールルームみたいで、誰も楽器を扱わずにひたすらボタンをいじっていた」「『イギリスは島国だけど、日本と違ってアメリカやヨーロッパと繋がっているんだな』と再認識させられました。今でいうハブ空港じゃないけど、『ポータル的な場所だ』と思っていたんです」「日本の海外進出活動とは違って、戦略的にチャートヒットを仕掛けて、当たり前のように実現させてきたんですよね。そんなスタイルを『早く日本に持ち帰って、追いつかなきゃ』と焦りを感じていたんです」[43]と話している。
  25. ^ 「画期的な音楽なんですよ。1曲の中にリズムが2個同居しているから、ゆっくりとリズムをとってもいいし、その半分の感覚で速いリズムをとってもいい。あらゆる意味でバランスの良いリズムですね」[44]「『サンプリングのドラムの音をあそこまでピッチを高くして上げて、高くなった音にまた別の音とリズムを重ねる』という当時の自分のスタジオでも30分でできたことだった。当時発表しても『音がペラペラでこういうリズムでは踊れない』と言われたかもしれないが、古いシンセサイザーでも一番安く誰でもすぐ作れるのに第一発見者になれなかった」[45]と振り返っている。
  26. ^ 「懇意にしている洋服のブランドを日を空けてまた買いに行くと、全く違う系統のデザインや色使いになっていたような感じだった。それを2時間のライブにどう持ち込んで凝縮させるかを考えていた」と話している[50]
  27. ^ 小室と同時にプロデューサー契約を締結した同期生として、CMJK久保こーじ松原憲がいた[55]
  28. ^ 主に春夏秋冬通してスタジオでTRFに向けた音色作りを活動の中心にし[62]、当時の中森明菜東京パフォーマンスドール・TMに向けた作品の制作でもそれらを反映させていた[63]
  29. ^ 「1992年頃のレイヴ全盛の頃、ロンドンでは本当にスターでした。ライヴだと環境音楽っぽいけど、一方で無茶苦茶ヒットするポップな曲も作っているんです。そういうのはもうアメリカのチャートでも上位に入っています。といっても、バンドみたいに人数が決まっているわけではなくて、ほとんどがDJスタイル。ターンテーブルとサンプラーがあって、人数も3人だったり4人だったり。4~5時間やるのが普通なので、途中で入れ替わったりもする。客の波を拾いながらやるから、楽譜があるわけでもない。見て楽しむエンターテインメントとしてのライヴとは明らかに違いますね。客も簡単に言えば一種のトランス状態。シンクロエナジャイザーが大きくなってコンサートになった感じ。僕もこういうのがやりたい、というより方向性の示唆をしてくれていた」と話している[64]
  30. ^ trfの1stアルバム「trf 〜THIS IS THE TRUTH〜」をリリースした後、自身のソロアルバムを制作していたが「これはTMで発表したい」という気持ちが強くなり、急遽中止した。その時に作られた素材はすぐに商品として発表できるレベルまで煮詰めていた[67]。そして「ループ素材を使ったグルーヴを軸にした音楽」「カラオケで気軽に歌えない音楽」を1994年春のTMのコンセプトとし、「一途な恋」をはじめとするパイロットとなるシングルを3〜4枚出し、リードシングルの無いオリジナルアルバムを出すという予告があった[68]が中止になった。
  31. ^ 特にビーイングに対して、小室は「本人が歌っている絵が見えないという匿名性があるにもかかわらず、音を自然に楽しんでもらえば、ミュージシャンのキャラクターがはっきり出なくてもいいという姿勢を成立させた」と評している[73]
  32. ^ 実際にtohko「BAD LUCK ON LOVE 〜BLUES ON LIFE〜[77]を例に衣装の提案・イメージ戦略の統括を担当し、楽曲制作には全く関わらないケースもあった[78]
  33. ^ 「TRF・安室さん・globe等で書いてきた『女の子同士の共感・友情・仲間意識』『女子が裏側で流行を仕切っていて、女子が男子を品定めしている時代』『女子が主人公で表舞台に立って時代をリードしよう』より彼らの書く『異性に対するきっちりとした愛情』の方が受け入れやすくなった。女子が女子に『貴女だって可愛いんだから頑張ろうよ』から女子が男子に『貴方は素敵なんだから頑張って』という時代になった」と話している[98]
  34. ^ 「歌唱力があったり、メロディが良かったり、歌詞が良かったり。僕には彼のしょっぱい感じが出せなかった」と話している[99]
  35. ^ R&Bブラックミュージックを本格的にやってみて、本場にどこまで近づけるか挑戦してみようとしたが、僕には突き詰めることができない領域があることを悟り、このジャンルから撤退するのを決意させた」[100]「作詞の概念を変えられてしまった。とにかく僕には『Automatic』っていうのは出て来なかった。出ないってこと自体、クリエイター側からすると『出てこないんだ自分は…』ってなるんです」「歌詞のハメ方、ラジオの喋り方等、何から何まで自由で『うらやましいなあ、こんな好きに喋っていいんだ』っていうことだったり」[99]「ブラックミュージックを原風景に育ったネイティブな日本人が21世紀を引っ張っていく」[32]「ものすごい枚数が売れたと同時に『これ以上はCDの枚数は稼げないだろうな』という直感があった」[101]と話している。
  36. ^ 日本大学名誉教授板倉宏は、「巨額詐欺なので、被害者が許した場合でも執行猶予の確率は30%。実刑になった場合は1億円なら1年が相場、今回は弁済しているので3年くらいが妥当」と述べている“執行猶予30%…小室哲哉、まだまだ続くいばら道”. 夕刊フジ (ZAKZAK). (2009年3月13日). http://www.zakzak.co.jp/gei/200903/g2009031324_all.html 2011年2月3日閲覧。 
  37. ^ 早稲田実業学校時代より複数のバンドで活動。
  38. ^ 特例として、外部からの依頼に関しては全方位外交で臨む許諾をソニーから得ていた。globe等ユニットで活動する場合は「専属解放」という形になり、1曲毎の許諾を得て、レコーディング・歌唱・ライブ活動・テレビ出演・CM撮影を行い、写真撮影1枚に至るまで詳細な契約書が制作された。麻生香太郎曰く「Jリーグの選手の期限付き移籍みたいな形」と称している[133]
  39. ^ 例として、H Jungle with tは2枚目のシングル「GOING GOING HOME」の発売とそれに関連した活動で終わる予定であり[134]篠原涼子とも制作にエイベックスが関わっていたため、最初からシングル3枚・アルバム1枚とそれに関連した活動のみの契約だった[135]。小室とエイベックスはお互いがいつでも離れられる関係であり、そこから小室は「誰をどのレーベルに所属させれば、製作費が多くもらえるか」を考えていた[136]。契約した最初期は小室自身のボーカル・コーラス等の歌唱を録音することができなかった[137]
  40. ^ これは依田巽の「エイベックスが小室さんを独占し、小室さんに安住することを防ぎ、如何にエイベックスが小室さんに魅力的な提案をしていけるのかを考えるのがエイベックスの仕事」という思いやりもあった[134]
  41. ^ 小室は「僕がロンドンに住んでいた時には、現地ではディスコに入るための制約が多すぎた。『大きい箱を借りなくても、防音設備のない倉庫を借りたジャズ・クラブや浜辺に仮設のステージでも建てて、大勢の若者だけで踊りまくろうよ』と生まれるべくして生まれた」「アーティストの一挙一動に注目するより、照明の熱さ・スモークの煙たさ・電圧の高い音色等の様々な演出をアーティストとお客さんの両方が共有できるのをわかってもらいたい」[140]「レイブっていうのはキックの音だけで数万人ものオーディエンスを盛り上げていく力を持っているんだ」[139]とDJ KOOに話していた。
  42. ^ R&Bに興味を持った切っ掛けはティンバランドロドニー・ジャーキンスフィーチャリングを積極的に行おうという姿勢が伝わった。続いてジャム&ルイスベイビーフェイスが彼らに追従しようとしていたけど、明らかに感覚が違ったグルーヴが作られていた。それらの現象をみた小室が「自分は果たしてどちらに入るのか?世代は置いといて、若い世代向けの音を作れるのか?」「端から血の部分は出せないと考えていたけど、シーケンサーの進歩でグリッド・シャッフルを作るテクノロジーがかなり進歩してきたから、打ち込みの段階でノリの実験ができる時期がきた」「メロディ・コーラスの場所・曲の起承転結の仕方等は、今までの作り方とは切り離している」と入れ込み様を見せた[145]
  43. ^ trfのプロモーションを兼ねて、横浜ベイサイドクラブで小室の個人名義の主宰で開催されたライブイベント[181]
  44. ^ 2007年4月から2008年11月4日まで尚美学園大学の芸術情報学部・音楽表現学科・特任教授に就任して、音楽特論(新世紀音楽概論)を担当していた。
  45. ^ お互いの祖父がいとこ同士(出典:時計寄贈の過去も… スポニチ

出典

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参考文献

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  • 小室哲哉『罪と音楽』幻冬舎、2009年。ISBN 978-4-344-01731-3
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  • 『小室哲哉ぴあ globe編』ぴあ、ぴあ、2015年。ISBN 978-4-8356-2511-9

外部リンク