ビリー・ジョー・アームストロング

ビリー・ジョー・アームストロング (英語: Billie Joe Armstrong1972年2月17日 - ) は、アメリカ合衆国カリフォルニア州オークランド出身。パンク・ロックバンド、グリーン・デイのヴォーカリスト、ギタリスト。

ビリー・ジョー・アームストロング
ビリー・ジョー・アームストロング(2013年)
基本情報
出生名
ジャンル パンク・ロック[1]
職業
担当楽器
活動期間 1989年 -
レーベル
共同作業者

来歴 編集

1972年2月17日、アメリカ・カリフォルニア州オークランドに6人兄弟の末っ子として生まれる。父アンディーはジャズ・ミュージシャン兼トラック・ドライバー、母はレストランウエイトレスであった。

ビリーは5歳の頃、小学校の先生の勧めで歌を始め、病院に行き、患者のために歌ったりしていた。「ルック・フォー・ラヴ」という曲を地元レーベルでレコーディングしている[注釈 1]

11歳の時、父からブルーと名付けられた、正しく青色のストラトキャスターを貰う[注釈 2]

1983年9月10日、ビリーが11歳の時に父が食道癌で亡くなる[注釈 3]。母は、6人の子供を養うため、ウエイトレスの仕事を続ける。

12歳になり、ビリーは地元のミドルスクールに進学、そこでマイク・ダーントと出会う。10代の頃のビリーは、他の同世代と同じくメタルハードロックを好んで聴いていたが、14~15歳の頃にセックス・ピストルズの「ホリデー・イン・ザ・サン」を聞いて以降パンクに傾倒していくこととなり[2]ハスカー・ドゥリプレイスメンツラモーンズなどのバンドに影響を受ける[3][4]。やがて地元の高校へと進学するが、1990年2月の18歳の誕生日を目前に音楽の道を志し、退学。マイクと共にグリーン・デイ前身のバンドとなるスウィート・チルドレンを結成。家出をし、共に自活するようになる。

その後、地元のレーベルのルックアウト・レコーズからCDを出すことになった。ビリーとマイクは、デモテープを手に社長と会う。その時社長は、どこのガキかも分からない彼らを、そう簡単には受け入れなかった。すると社長に「会社から200マイル離れた田舎の小屋で夜にオーディションするから、やる気があるなら来なさい。」と言われた。当時17歳だった2人は、それを信じてその小屋へ行った。しかし、小屋にはがかかっており、さらに雨も降っていた。仕方なく2人は鍵をぶち壊して中に入り、社長が驚くと思い2人は発電機を盗んできた。音は出せる状態だが照明が無いので近所のガキ12人を集めてロウソクを持たせた。そこに社長が現れ2人を見ると、まんまと騙したつもりだったのに逆に驚かされ、見事契約することができたという。だが、2011年12月にルックアウト・レコーズは廃業してしまう。

人物 編集

  • 1990年初め、ミネソタ州でのコンサートでアドリエナ・ネッサーと出会い、4年後の7月2日には結婚。現在は2児の父である。
  • アドヴォケイト誌のインタビューで、「同性にも性的興味はある」と述べた。ただし、同性との性的経験はないとも発言している。
  • ザ・クラッシュジョー・ストラマーを尊敬していると公言しており、「I Fought The Law」などをカヴァーしている。
  • マイ・ケミカル・ロマンスのボーカルジェラルド・ウェイに、売り上げ増大による過度のプレッシャーについて相談されることがあった。そして、「世界は正当なロックを必要としてるんだ」と彼に言い、成功へ導いた。
  • 父の死から2年後、母は再婚するが、ビリーとその兄弟は相手のことをひどく嫌っていた。

問題 編集

2003年1月飲酒運転で警察に捕まっている。スピード違反で捕まり、そのとき吸気アルコール度数がカルフォルニア州基準の0.08%を越える0.18%であった。

2012年9月21日に、ラスベガスで開催されたiHeart Radio Music Festivalに出演。しかし、「バスケット・ケース」の演奏中に残り1分と表示されたモニターを見たビリーは、「残り1分、1分?ふざけるな。1分だって?俺はクソジャスティン・ビーバーじゃないんだ、クソ野郎」等とブチ切れ、「1分がどんなものか見せてやるよ」と言い放ち、ステージにギターを何度も叩きつけ壊し、観客を騒然とさせた。

その2日後の23日、ビリーがリハビリ施設に入院することをスポークスマンが発表した。バンドのオフィシャルサイトでは「グリーン・デイは、ラスベガスでのiHeart Radio Music Festivalで不愉快な思いをした人全員に謝罪します」と声明文が公開され、ビリーが入院するため、予定されていたプロモーション・イベントをいくつかキャンセル、延期すると発表された。 この頃のビリーはアルコールや睡眠薬への依存に歯止めが効かない状態だった事や、家族と共に過ごしている時間でさえ「死」について考える事が度々あったといい、ビリーが後に『人として基本的な部分が完全にダメになりつつあった』と語るほど深刻な状況であったという[5]

使用楽器 編集

また、ギブソンエピフォン[6]からレスポールジュニアのシグネイチャーモデルが発売されている。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 『インターナショナル・スーパーヒッツ』の「マリア」の冒頭部分に当時のレコーディングの一部が使われている。
  2. ^ 2012年現在でも、ブルーのレプリカがライブなどに登場している。
  3. ^ ウェイク・ミー・アップ・ホウェン・セプテンバー・エンズ」は、彼の父親との思い出を綴った曲である。

出典 編集

外部リンク 編集