松本豊 (実業家)
松本 豊(まつもと ゆたか、明治39年(1906年)5月8日 - 平成12年(2000年)12月25日)は日本の柔道家、実業家、政治家。境港商工会議所名誉会頭。元境町会議員、境港市会議員。
松本 豊 まつもと ゆたか | |
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生年月日 | 1906年5月8日 |
出生地 | 鳥取県境港市 |
没年月日 | 2000年12月25日(94歳没) |
出身校 |
米子中学校 (現在の米子東高校) |
配偶者 | 松本清子 |
境町会議員 | |
境港市議会議員 |
経歴
編集米中卒[2]。松本材木店経営[1]。姫路野砲第十連隊入隊[1]、昭和19年(1944年)再応召[1]、陸軍中尉[1]。
昭和21年(1946年)松本木材(株)を設立、取締役社長に就任[2]、同年境港商工会議所会頭(のち公職追放で辞任)[2]。昭和30年(1955年)~昭和61年(1986年)境港商工会議所会頭[2]。
昭和34年(1959年)(株)米子木材市場取締役社長、境港外材輸入(協)理事長、昭和38年(1963年)大山産業(株)取締役社長、昭和57年(1982年)松本木材(株)を境港木材工業(株)に改組、取締役顧問[2]。
人物像
編集- 安田光昭(元鳥取県議会議員、米子市教育長)著『「あの人この人」私の交友録』によれば、
「境港市に松本豊というボスがいる。毎年お盆の前後にこのボスからの指令が発せられ、東京、大阪各地から十数名の仲間が集合する。せっかく帰省するんだから同期生会も同時期に開かせてはどうか、という意見が出たところ、“つまらんよ。余計なことはせんがええ”と一蹴されてしまった。心友同士の顔寄せこそ、というのが言葉にならぬ注釈であった。このつどいのメンバーを、故人も入れて列記するとなると、まことにけんらん極まりないものになるが、限られた紙面では大変なことだし、故人は最近の物故者だけに絞り、現存者だけマア列記してみよう。
- 故九段山根英師 元中学教師、〃二段山浦勘蔵 元日大教授、〃六段安田真 元警察師範、〃六段大庭孝一 元華北交通、〃六段永海憲 東京教育大卒、〃八段森務 国士舘助教授、〃七段寺沢正 米東高教師
- 現存七段佐々木繁孝 在米、六段坂口平兵衛 米子商工会議所前会頭、八段浜田武夫 接骨業、四段野津快造 在米 、八段阿部信文 県柔連会長、三段加川雅光 元農協組合長、七段安田光昭 前県議会議員、五段中下魁平 前日大講師、六段松本豊 境港商工会議所会頭、三段菅田栄治 阪大名誉教授、六段天満和人 米子ゴルフクラブ社長、八段古曳保正 講道館審議員、八段古浜昭 境港市議会議員
以上のように、旧制米子中学柔道部の名声を、全国的に売ったころのメンバーが、心の友として寄りつどった会である。音頭取りは前述のごとく、柔道家たらんとして出奔し、親父に押えられて引き戻され、涙をのんで木材商を引き継ぎ、現在経済界の大御所に納っている松本豊である。」という。
参考文献
編集- 安田光昭 『「あの人この人」 私の交友録』 1980年 17-18頁