藤原岳守

808-851, 平安時代前期の貴族

藤原 岳守(ふじわら の おかもり)は、平安時代初期の貴族藤原南家巨勢麻呂流、春宮亮藤原三成の長男。官位従四位下近江守

 
藤原 岳守
時代 平安時代初期
生誕 大同3年(808年
死没 仁寿元年9月26日851年10月24日
官位 従四位下近江守
主君 淳和天皇仁明天皇文徳天皇
氏族 藤原南家巨勢麻呂流
父母 父:藤原三成、母:藤原真夏の娘
兄弟 岳守岳雄、宜行、是行
滋柯
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経歴

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若くして大学で学ぶが、史伝を読み漁り、たいそう草隷も習ったという[1]天長元年(824年)より皇太子・正良親王の身近に仕えるが、物事に応対する際の立ち居振る舞いが優雅であるとして、正良親王に重んじられたという[1]。天長3年(826年内舎人に任ぜられる。

天長10年(833年)正良親王が即位仁明天皇)すると、右近衛将監次いで内蔵助を務め、承和元年(834年従五位下に叙せられる。讃岐介左馬助を経て、承和5年(838年)左少弁に任ぜられるが、耳の不具合で朝議の聴受ができず、弁官の業務遂行が困難となったため、まもなく大宰少弐に転任する[1]大宰府に赴任中に、人の貨物の内容を調査した際に得た元稹白居易詩筆天皇に献上したところ、天皇は非常に喜び、承和6年(839年)従五位上に昇叙された[1]

その後、左兵衛佐を経て、承和12年(845年正五位下・左近衛少将、承和13年(846年従四位下・右近衛中将と昇進するが、承和15年(848年近江守として地方官に転じる。地方官として任地の人々に慕われ、任期を終えたのちも栄達を望まなかったことから、当時の論者に賞賛されたという[1]仁寿元年(851年)9月26日卒去享年44。最終官位散位従四位下。

人物

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生まれつき寛大な性格で、取るに足らない官人であっても対面して心を傾けたという。孝行心が篤く、天長7年(830年)に父・三成が没しに服した際、哀悼の度が過ぎて、命を落としてしまいそうなほどであった[1]

官歴

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続日本後紀』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ a b c d e f 日本文徳天皇実録』仁寿元年9月26日条
  2. ^ 『近衛府補任』
  3. ^ 尊卑分脈』では、典侍正五下衆女とする。

出典

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