泉詩郎
泉 詩郎(いずみ しろう、1902年 - 1978年5月2日[1])は、昭和初期から戦後にかけて活躍した活動弁士。岡山県岡山市出身。本名は姫路与四郎(ひめじ よしろう)。坊主頭に眼鏡をかけた姿であった。
いずみ しろう 泉 詩郎 | |
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本名 | 姫路 与四郎(ひめじ よしろう) |
生年月日 | 1902年 |
没年月日 | 1978年5月2日 |
出生地 | 日本・岡山県岡山市 |
死没地 | 日本・兵庫県 |
職業 | 活動弁士 |
ジャンル | 流行歌、歌謡曲 |
活動期間 | 1924年 - 1955年 |
経歴・人物
編集8人兄弟の末っ子で、両親は荒物商を営んでいた。岡山商業高校(現在の岡山東商業高等学校)卒業後、来阪して活動弁士の泉浩一路に師事し、1924年に道頓堀朝日座で初舞台。無声映画時代の名弁士として活躍し、「東に夢声あり、西に詩郎あり」と称された[1]。トーキー化以降は自身の名を冠した団員数30人近あまりの大所帯の泉詩郎歌謡楽団を結成。戦後はボーイズ物泉詩郎歌謡ショウと称して寄席や劇場に進出すると共に、映画・歌謡曲の解説をした。全盛期のころの歌謡ショウのメンバーに大島千鶴、菅原みよじ、藤原博がいた。
独特の甲高い声と歌手の持ち歌に歌謡物語を作り、映画説明をするのが特徴。1933年、リーガルレコードで活動を行う。1941年、テイチクレコードに移籍し、1955年頃に引退。
1978年、兵庫県の病院にて死去[1]。享年76歳。
作品
編集脚注
編集出典
編集- 相羽秋夫『現代上方演芸人名鑑 上方演芸人1400人を網羅』少年社、1980年8月。