諫早 茂孫(いさはや しげたね)は、江戸時代後期の武士肥前国佐賀藩士。諫早鍋島家諫早氏)14代当主。

 
諫早茂孫
諫早茂孫肖像
時代 江戸時代後期
生誕 文政8年6月11日1825年7月26日
死没 慶応2年2月20日1866年4月5日
改名 孫九郎(幼名)、茂孫
別名 兵庫
墓所 長崎県諫早市西小路町天祐寺
主君 鍋島斉正
肥前佐賀藩
氏族 諫早鍋島家諫早氏
父母 諫早茂洪
兄弟 茂喬鍋島利卿茂孫一学、郁
家崇
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出自

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諫早家は龍造寺隆信の又従兄弟家晴の子孫。藩主鍋島氏の旧主君龍造寺氏の一族で、鍋島氏を憚って諫早氏を称す。家紋は「上り藤」。代々藩主の偏諱を受け「茂」の字を拝領している。藩内の家格は親類同格。龍造寺氏一族として、藩内で大名並みの知行二万六千石と強い影響力を持つ。

略歴

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文政8年(1825年)6月11日、諫早邑主12代・諫早茂洪の三男として誕生。幼名は孫九郎。

嘉永元年(1848年)2月に13代当主の兄・茂喬が病死し、兄の子・益千代はまだ幼児であることから、孫九郎が3月に家督相続した。

嘉永2年(1849年)アメリカ東インド艦隊の軍艦プレブル号が長崎に来航した際に、兵を率いて長崎に急行して港の警備に当たった。嘉永3年(1850年)藩主・斉正より、茂孫や鍋島茂昌ら青年の家老は日勤を免除して、藩校弘道館で文武に励むように命じられた。

嘉永5年(1853年)3月、隠居して家督を益千代(武春)に譲る。隠居後は家中で「大旦那様」と呼ばれた。

慶応2年(1866年)2月20日死去。享年42。菩提寺の天祐寺に葬られた。長男・家崇は一学の後を受けて諫早家17代当主となり、明治30年(1897年男爵に叙爵された。

参考文献

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参考リンク

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