平等 文成(びょうどう ぶんじょう、1907年明治40年)3月17日 - 1970年昭和45年)12月12日))は、衆議院議員日本社会党)、歴史学者。選挙には「びょうどう ぶんせい」の読みで出馬した。

来歴

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神奈川県横浜市出身。1929年、新潟高等学校卒業[1]東京帝国大学文学部卒業。東京で新聞・雑誌記者として勤めたのち[2][3]、中国大陸に渡り高橋公館、興亜院華北連絡部に勤務。のち、新民学院や北京大学(農学院[4])教授などを歴任し、東洋史の研究に従事する。第二次世界大戦後、長野県北佐久郡軽井沢町浅間山麓に入植し、農民運動を始め、全日本農民組合中央常任委員、同国際部長、同長野県連合会委員長、日本社会党長野県本部統制委員長、私学新報社長などを歴任した。

昭和42年(1967年)第31回衆議院議員総選挙長野県第2区から出馬し、当選した。

著書

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・千田二郎[5]『邪教を裁く:現代宗教批判』伽耶書房、1936年

・平等文成『躍動する新中国:中共の勝利とその建設』經濟社、1949年

脚注

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  1. ^ 新潟高等学校 編『新潟高等学校一覧 乙 自昭和5年至昭和6年』新潟高等学校、1930年、69頁。 
  2. ^ 八百板正 (1971). “激動の歴史と生涯を共にした平等文成君逝く”. 月刊社会党 168. 
  3. ^ 平等文成 (1968). “社長と社員の取組み合い”. 実業之世界 65 (6): 358. 
  4. ^ 丸山義二 著「軽井沢の開拓者・平等文成」、「農業日本」編集部 編『ご苦労さま:丸山義二対談集』中部日本新聞社、1956年、155頁。 
  5. ^ 千田二郎は平等のペンネーム(『実業之世界』33(9)、1936年、91頁による)。

出典

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  • 中村勝実『佐久の代議士』櫟、1989年。
  • 『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治-昭和』日外アソシエーツ、2003年。