小槻山 広虫(おつきやま の ひろむし、生没年不詳))は、奈良時代中期の采女女官。氏は小欟山とも記される。官位従四位下命婦

出自

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新撰姓氏録』「左京皇別」に小槻君があり、垂仁天皇皇子の「於知別命之後也」と記し、『古事記』にも落別王を小月之山君と記すことより、小槻山君もその同族と考えられる。近江国栗太郡の小槻神社のあたり(現在の草津市青地町周辺)を本拠地とした氏と想定される。

生涯

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聖武朝天平8年(736年)8月6日付内侍司に「従八位上栗太郡女小欟山君広虫」と現れており[1]、近江国栗太郡より貢上の采女と推定される。

同9年(737年)2月に、正八位下から従五位下に昇叙[2]。その後、尾張小倉らとともに従五位上から正五位下になり、のち累進して天平勝宝元年(749年)8月には正五位下に昇叙している[3]。同4年(753年)6月17日付買物には、「従四位下小槻山君広虫」とある[4]

その後の経歴は不明で、藤原仲麻呂が広虫の出身地である近江国に関心を寄せていたことを考え合わせると、広虫が出世した背景には、藤原氏との深い関連が推測される[5]

官歴

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注記のないものは『続日本紀』による。

脚注

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  1. ^ 『大日本古文書』巻二 - 8頁
  2. ^ 『続日本紀』巻第十二、聖武天皇 天平9年2月14日条
  3. ^ 『続日本紀』巻第十七 孝謙天皇 天平勝宝元年7月2日条
  4. ^ 『大日本古文書』巻廿五 - 47頁
  5. ^ 日本図書センター『日本女性人名辞典』

参考文献

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関連項目

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