二木保幾

日本の経済学者

二木 保幾(ふたつぎ やすき、1892年6月29日[1] - 1934年9月21日)は、日本の経済学者

来歴

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長野県南安曇郡明盛村(現安曇野市)生まれ。旧制順天堂中学校を経て、明治43年(1910年)早稲田大学高等科に入学し、大正3年(1914年)早稲田大学政治経済学部卒業。同年朝日新聞社に入社し、政治経済部の記者を経て、外務省担当記者を担当した。同4年(1915年)大隈内閣が全国遊説を試みた際には後援会遊説部を組織し、その会長となった。同8年(1919年)、早稲田大学第2代総長塩澤昌貞から、母校留学生としてアメリカドイツフランスへの留学を命じられ、帰国後は、同12年(1923年)同大学経済学部教授、同13年(1924年)教務主任等を勤め、日本の経済学界の重鎮と謳われたが、昭和9年(1934年)に病没した。墓所は駒込吉祥寺

親族

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早稲田大学第3代総長高田早苗岳父にあたる。

脚注

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  1. ^ 川上七五三『長野県勢総覧 下巻』長野県勢総覧刊行会、1928年、p.609。

参考文献

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  • 「20世紀日本人名事典」 日外アソシエーツ 2004年

外部リンク

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