史秉直
史 秉直(し へいちょく、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた漢人軍閥の一人である。析津府永清県の出身。モンゴル帝国の金朝侵攻時、最初期に投降した漢人の一人であり、漢人の四大諸侯と呼ばれた真定史氏の基礎を築いたことで知られる。祖父は史倫。父は史成珪。息子には史天倪・史天安・史天沢らがおり、いずれもモンゴル軍に属する有力な将軍として活躍している。
概要
編集史秉直の祖先はかつて唐朝に仕え大官を輩出していたが、唐の滅亡後衰退して中央政界から離れ、農村の名家となった家系であった[1]。史秉直の祖父の史倫は末子でありながら偶然金塊を発見したことで裕福になり、史倫の家系が史家の総領的地位についた[2]。史倫の息子史成珪の息子こそが史秉直であった[3]。
1211年(辛未)に金朝への侵攻を開始したモンゴル軍は野狐嶺の戦いで金軍主力を粉砕し、1213年(癸酉)秋には華北平原に入って金朝領華北の各地を蹂躙した[4]。モンゴル軍の接近を知った史秉直は当初一族を数か所に分散させて一族全滅を免れようとしたが、やがてモンゴル軍が投降した者に対しては寛容な事を知り、一族を挙げて降ることを決意した[5]。そこで史秉直は一族のみならず里中の住民数千人を率いて興隆里を出立し、10月18日に陥落したばかりの涿州に駐屯するムカリに投降を申し出た[6]。この頃、モンゴルに仕える漢人は戦闘中の捕虜か追い詰められて投降した軍人がほとんどであり、自発的に遠方から投降に訪れた史一族は大いに歓迎された[5]。
ムカリは当初史秉直を配下の軍団に加えようとしたが、史秉直は老母の世話を見なければならないことを理由にこれを辞退し、代わりに史天倪ら自らの息子たちを推薦した。ムカリは史秉直の申し出を受け入れ、降伏した漢人の管理を委ねて覇州に駐屯させた。史秉直はモンゴルに投降した漢人を手厚く保護したため、遠方から多くの者が訪れ数か月で10万を数えたという[7]。
1214年(甲戌)秋、史秉直はムカリによる北京包囲に参加し、1215年(乙亥)3月にこれを陥落させた。ムカリは配下のウヤルを北京路都元帥に任じ、史秉直は北京尚書行六部事としこれを補佐させた[8]。これによって史秉直は北京の実質的な支配者としての地位を確立し、後に真定に移住するまで史氏一族は北京を根拠地にするようになった[9]。北京を治める史秉直はモンゴル軍の兵站も担い、決してモンゴル兵の糧食を途絶えさせることはなかったという[10]。その後、老齢を理由に郷里に帰り、71歳にして亡くなった[11]。
真定史氏
編集高祖某 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史倫 (季) | 佚名 (叔) | 佚名 (仲) | 佚名 (伯) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史成珪 | 佚名 | 佚名 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史進道 | 史秉直 | 史懐徳 | 佚名 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史天沢 | 史天安 | 史天倪 | 史天祥 | 史天瑞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史格 | 史枢 | 史楫 | 史権 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史燿 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
編集- ^ 池内1980, p. 484-485.
- ^ 池内1980, p. 486-487.
- ^ 『元史』巻147列伝34史天倪伝,「史天倪、字和甫、燕之永清人。曾祖倫、少好侠、因築室発土得金、始饒於財。金末、中原塗炭、乃建家塾、招徠学者、所蔵活豪士甚衆、以侠称於河朔。士族陥為奴虜者、輒出金贖之。甲子、歳大侵、発粟八万石賑饑者、士皆争附之。祖成珪、倜儻有父風。遭乱、盗賊四起、乃悉散其家財、唯存廩粟而已。父秉直、読書尚気義」
- ^ 池内1980, p. 487.
- ^ a b 池内1980, p. 488.
- ^ 『元史』巻147列伝34史天倪伝,「父秉直、読書尚気義。癸酉、太師・国王木華黎統兵南伐、所向残破、秉直聚族謀曰『方今国家喪乱、吾家百口、何以自保』。既而知降者皆得免、乃率里中老稚数千人、詣涿州軍門降」
- ^ 『元史』巻147列伝34史天倪伝,「木華黎欲用秉直、秉直辞而薦其子、乃以天倪為万戸、而命秉直管領降人家属、屯覇州。秉直拊循有方、遠近聞而附者、十餘万家」
- ^ 池内1980, p. 494.
- ^ 池内1980, p. 503-504.
- ^ 池内1980, p. 498.
- ^ 『元史』巻147列伝34史天倪伝,「尋遷之漠北、降人道饑、秉直得所賜牛羊、悉分食之、多所全活。甲戌、従木華黎攻北京、乙亥、北京降、木華黎承制、以烏野児為北京路都元帥、秉直行尚書六部事、主餽餉、軍中未嘗乏絶。庚寅、以老謝事、帰郷里。卒、年七十一。三子。長天倪・次天安・次天沢」