マイケル・パーク

イギリスのレーシングドライバー (1966-2005)

マイケル・スティーブン・パーク(Michael Steven Park, 1966年6月22日 - 2005年9月18日)は、イングランドグロスタシャー出身のコ・ドライバー

マイケル・パーク
Michael Park
基本情報
国籍 イギリスの旗 イギリス
生年月日 (1966-06-22) 1966年6月22日
出身地 イングランドの旗 イングランドグロスタシャー
死没日 2005年9月18日(2005-09-18)(39歳没)
死没地 ウェールズの旗 ウェールズニース・ポート・タルボット
WRCでの経歴
活動時期 1999–2005
所属チーム Lukoil EOS Rally Team
スバル英語版
フォード英語版
プジョー
出走回数 83
チャンピオン回数 0
優勝回数 5
表彰台回数 18
ステージ勝利数 101
初戦 1994 RACラリー
最終戦 2005 ウェールズ・ラリーGB
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経歴

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世界王者となったリチャード・バーンズコリン・マクレーなどとも一緒に競技した。しかし、彼が一気にブレークしたのはトヨタ・カローラWRCのメンバーとしてエストニア人ドライバーマルコ・マルティンと共に参戦した2000年の世界ラリー選手権である。

このシーズンで結果を残した両名は2001年シーズンSUBARUと契約し、その後フォード・モーターへと移籍した。その後2003年シーズンにはギリシャフィンランドで2勝をあげ、2004年シーズンにはメキシココルシカ島フランス)、カタルーニャスペイン)で3勝を挙げた。

しかし、その翌年の2005年シーズン第12戦、ウェールズ・ラリーGBのファイナル・レグ中に起きた不慮の事故によりパークは命を落とした[1][2]。走行中のプジョー307WRCがコースを外れ、道路脇の木にパークが座る助手席側から激突したのである。この時マルティン、パークペアはシーズンタイトル争いの4位に位置しており、また彼らが所属していたプジョーはマニュファクチャータイトルで同じフランス勢のシトロエンと6ポイント差の接戦だった。

トップレベルのラリー選手権で選手が死亡するのは1993年以来であり、その後の安全基準の見直しへと繋がった。

2006年6月20日にはエストニアの首都タリンに彼の慰霊碑が建立された。

脚注

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  1. ^ Co-driver Park dies in accident”. BBC Sport (2005年9月18日). 2022年12月6日閲覧。
  2. ^ WRCで事故、コ・ドライバーのマイケル・パーク死去”. plaza.rakuten.co.jp (2005年9月19日). 2022年12月6日閲覧。

外部リンク

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