石原二郎
日本の海軍軍人
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石原 二郎(いしわら じろう、生年不明 - 1940年〈昭和15年〉6月29日[1])は、日本の海軍軍人。海軍大佐正五位勲三等。大東亜戦争時に航空機事故で死去した。石原莞爾陸軍中将の弟。海軍兵学校のほか陸軍士官学校(28期)を受験し陸士も合格している。
石原 二郎 いしわら じろう | |
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生誕 | ? |
死没 |
1940年6月29日 北海道 恵山岬付近 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1916年 – 1940年 |
最終階級 | 海軍大佐 |
経歴
編集- 石原啓介の四男として誕生。
- 1913年(大正2年)8月 - 海軍兵学校 第44期生徒採用・山形県平民[2]。
- 1916年(大正5年)11月22日 - 海軍兵学校第44期卒業。海軍少尉候補生を命ず八雲乗組みを命ず[3]
- 1917年(大正6年)
- 1918年(大正7年)12月5日 - 金剛乗組み被免、三笠乗組み被仰付[7]
- 1919年(大正8年)12月1日 - 任 海軍中尉[8]、三笠乗組み被免[9]、海軍水雷学校普通科学生被仰付[10]
- 1920年(大正9年)
- 1922年(大正11年)12月1日 - 任 海軍大尉[14]、海軍砲術学校高等科学生被仰付[15]
- 1923年(大正12年)12月1日 - 海軍水雷学校高等科学生教程卒業に付き学生被免、海軍水雷学校専攻科学生被仰付[16]
- 1924年(大正13年)12月29日 - 補 第十五号駆逐艦砲術長兼分隊長[17]
- 1925年(大正14年)12月1日 - 補 日進副砲長兼分隊長[18]
- 1927年(大正16年)2月5日 - 補 第一遣外艦隊司令部付[19]
- 1928年(昭和3年)12月10日 - 任 海軍少佐[20]
- 1929年(昭和4年)4月23日 - 補 日向副砲長兼分隊長[21]
- 1932年(昭和7年)2月1日 - 補 扶桑副砲長兼分隊長[22]
- 1933年(昭和8年)5月20日 - 補 足柄砲術長[23]
- 1934年(昭和9年)11月15日 - 任 海軍中佐[24]
- 1940年(昭和15年)6月29日 - 任 海軍大佐[25]、卒去[26]。
1940年6月28日に北海道亀田郡椴法華村で濃霧が原因で墜落した航空機事故に遭遇し、死去した。石原は美幌航空隊建設委員長として航空機で会議へ向かう途上であった。
栄典
編集- 位階
- 1918年(大正7年)1月30日 - 正八位[27]
- 1920年(大正9年)1月20日 - 従七位[28]
- 1922年(大正11年)12月28日 - 正七位[29]
- 1928年(昭和3年)3月1日 - 従六位[30]
- 1933年(昭和8年)4月1日 - 正六位[31]
- 1938年(昭和13年)4月15日 - 従五位[32]
- 1940年(昭和15年)6月29日 - 正五位[33]
- 勲章
家族・親族
編集出典
編集- ^ 『官報』第4060号「彙報-官吏卒去及び死去」1940年7月19日。
- ^ 『官報』第317号「彙報-陸海軍-生徒採用」1913年8月19日。
- ^ 『官報』第1294号「叙任及辞令」1916年11月24日。
- ^ 『官報』第1515号「叙任及辞令」1917年8月18日。
- ^ 『官報』第1601号「叙任及辞令」p45下段 1917年12月3日。
- ^ 『官報』第1601号「叙任及辞令」p80下段 1917年12月3日。
- ^ 『官報』第1903号「叙任及辞令」1918年12月6日。
- ^ 『官報』第2199号「叙任及辞令」p42上段 1919年12月2日。
- ^ 『官報』第2199号「叙任及辞令」p66下段 1919年12月2日。
- ^ 『官報』第2199号「叙任及辞令」p67下段 1919年12月2日。
- ^ 『官報』第2348号「叙任及辞令」p22下段 1920年6月1日。
- ^ 『官報』第2501号「叙任及辞令」p74下段 1920年12月2日。
- ^ 『官報』第2501号「叙任及辞令」p75上段 1920年12月2日。
- ^ 『官報』第3102号「叙任及辞令」p57上段 1922年12月2日。
- ^ 『官報』第3102号「叙任及辞令」p77中段 1922年12月2日。
- ^ 『官報』第3387号「叙任及辞令」p87下段 1923年12月6日。
- ^ 『官報』第3710号「叙任及辞令」1925年1月7日。
- ^ 『官報』第3982号「叙任及辞令」p51三段目 1925年12月2日。
- ^ 『官報』第33号「叙任及辞令」1927年2月10日。
- ^ 『官報』第587号「叙任及辞令」p257三段目 1928年12月11日。
- ^ 『官報』第693号「叙任及辞令」1929年4月24日。
- ^ 『官報』第1525号「叙任及辞令」p40最上段 1932年2月2日。
- ^ 『官報』第1914号「叙任及辞令」p625最上段 1933年5月22日。
- ^ 『官報』第2364号「叙任及辞令」p420三段目 1934年11月16日。
- ^ 『官報』第4045号「叙任及辞令」1940年7月2日。
- ^ 『官報』第4060号「彙報-官吏卒去及び死去」1940年7月19日。
- ^ 『官報』第1647号「叙任及辞令」1918年1月31日。
- ^ 『官報』第2237号「叙任及辞令」1920年1月21日。
- ^ 『官報』第3127号「叙任及辞令」1923年1月6日。
- ^ 『官報』第405号「叙任及辞令」1928年5月7日。
- ^ 『官報』第1881号「叙任及辞令」1933年4月11日。
- ^ 『官報』第3413号「叙任及辞令」1938年5月23日。
- ^ 『官報』第4050号「叙任及辞令」1940年7月8日。
- ^ 『官報』第3684号「叙任及辞令」1924年12月2日。
- ^ 『官報』第2456号・付録「叙任及辞令二」p5、一段目 1935年03月13日。
- ^ 『官報』第3511号「叙任及辞令」1938年9月14日。