マルチン・ゲルリッツエン・フリース

マルチン・ゲルリッツエン・フリース(マールテン・ヘリッツゾーン・デ・フリース、Maerten Gerritsz. de Vries1589年 2月18日 - 1647年)は、オランダハルリンゲン出身の地理学者航海士探検家オランダ東インド会社所属。

人物・事績 

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1682年にイタリアで作成された日本付近の地図。フリースの報告に基づいている。
地図上でIsola di Statiとあるのは択捉島。フリースは海霧のため根室海峡を確認できず国後島蝦夷地と繋がっている。また宗谷海峡および間宮海峡も発見できなかったため、蝦夷地と樺太アジア大陸の一部として記載されている。

1643年、東インド総督アントニオ・ヴァン・ディーメンの命を受け、中国北方にあると信じられていた「カタイヤ王国[注釈 1]、及び、日本の東方沖にあるとされた金銀島捜索のために結成された第2回太平洋探検隊の司令官としてカストリクム号に乗船[2]、僚船ブレスケンス号(指揮官:ヘンドリック・コルネリスゾーン・スハープオランダ語版)とともに同年2月、バタビアを出航。5月に房総半島沖で暴風雨に遭遇し、ブレスケンス号を見失しなったが、単独で太平洋を北上し、樺太東方沖の北緯48度54分まで達した。その後、千島列島ではアイヌと交流し、択捉島得撫島を発見、それぞれスターテン・ラント(オランダ国の土地)とコンパニース・ラント(オランダ東インド会社の土地)と命名して領土宣言をしている。

1643年8月15日、蝦夷地(現在の北海道)の厚岸に寄港し、9月2日までの18日間の滞在記録がオランダ国立総合公文書館に保管されている[注釈 2]。記録にはノイアサックというエカシ(アイヌの長老)の元で暮らすアイヌの生活とカキに代表される豊かな山海の幸に恵まれた厚岸の自然が記され、湾内などを測量。和人の交易船に遭遇、藩主手舟、上乗役小山五兵衛に出会っている。 

ブレスケンス号は,盛岡藩領(現在の岩手県山田町)に上陸し、捕縛された。乗組員らは、しばらく後に釈放されたが、オランダの対応に対して幕府が満足せず、完全に解決を見たのは1650年(慶安3年)になってからであった。

日本近海における金銀島探索は、1612年スペインビスカイノ1639年オランダクワスト英語版アベル・タスマン以来3度目であるが、ヨーロッパ人による日本北方の航海はフリースが最初の例となる。また、奥州から蝦夷地、千島列島、樺太にかけての沿岸の実測地図を制作しているが、濃霧のために宗谷半島方面についての探索を断念したために宗谷海峡を発見できず、蝦夷地と樺太を同一の島と見誤っている。

脚注

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注釈

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  1. ^ マルコ・ポーロが『東方見聞録』で伝えた「カタイ」のこと。本来は中国北部を指す呼称だが、15-16世紀のヨーロッパにおいては、中国(シナ China)の北方に、それとは別に「カタイ」が存在する、と信じられていた[1]。「キタイ」の項も参照。
  2. ^ アイヌのチャシに関する最古の文献記録が、フリースの厚岸来航の際の記録である[3]

出典

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参考文献

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  • コルネリス・スハープ 著、永積洋子 訳「韃靼の東海岸、カタイヤ王国、アメリカの西海岸及び日本の東方にある金銀の豊かな島の探険に向う、フライト船カストリクム号、ヤハト船ブレスケンス号の船長、司令官マールティン・ヘリッツゾーン・ド・フリース及び会議員一同に与える訓令」『南部漂着記――南部山田浦漂着のオランダ船長コルネリス・スハープの日記』キリシタン文化研究会〈キリシタン文化研究シリーズ 9〉、1974年9月25日。 
  • 宮崎市定「マルコ・ポーロが残した亡霊」『宮崎市定全集 19 東西交渉』岩波書店、1992年8月。ISBN 978-4000916899 
  • 平山裕人『地図でみるアイヌの歴史』明石書店、2018年11月。ISBN 978-4-7503-4756-1 
  • 藤島高志「フリース」(『日本史大事典 第5巻』1993年、平凡社、ISBN 4582131050
  • 小葉田淳「金銀島探検」(『国史大辞典 第4巻』1984年、吉川弘文館、ISBN 4642005048