三浦為時

日本の江戸時代の家老

三浦 為時(みうら ためとき)は、江戸時代前期から中期にかけての紀州藩家老。三浦長門守家第2代当主。官位従五位下長門守。叔母は徳川頼宣の生母・養珠院

 
三浦為時
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 慶長14年5月20日1609年6月21日
死没 延宝4年11月11日1676年12月15日
改名 満之助(幼名)→為時
別名 左近将監(通称)
戒名 寿量院永岳環林
墓所 了法寺和歌山県和歌山市
官位 従五位下長門守
主君 徳川頼宣光貞
紀州藩家老
氏族 三浦氏
父母 父:三浦為春、母:良円院(篠子主計の娘)
兄弟 為次為連為時正木為永正木為休日性為利正木為貞正木為清春澄為廉
正室:養珠院の養女(小笠原清政の娘)
為衛為隆為雄中川元宜垣屋豊照、光耀院(松平三郎兵衛室)、理性院(安藤直清室)、松林院(伊丹直之室)、妙成院(菅沼定格室)、法心院(岡野一明室)、梅岳院(山中俊清室)
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生涯

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慶長14年(1609年)5月20日[1]三浦為春の三男として常陸国茨城郡水戸(現在の茨城県水戸市)で生まれる。幼名満之助。慶長16年(1611年)に駿河国に移り、慶長20年(1615年)に叔母の養珠院の面前で従兄の徳川頼宣に拝謁。元和5年(1619年)の頼宣の紀州転封に父と共に同行し、左近将監を称する。元和7年(1621年)に13歳で頼宣に仕える。

元和9年(1623年)には頼宣の供をして上洛し、翌寛永元年(1624年)1月に大御所徳川秀忠、第3代将軍家光に拝謁する。同年、父の隠居により家督相続し、自身の2,000石と合わせて知行1万石となる。寛永3年(1626年)に頼宣の供をして上洛し、後水尾天皇二条城行幸に供奉する。同年7月30日に頼宣の面前で元服[1]。寛永9年(1632年)、養珠院の養女(小笠原清政の娘)と婚姻[1]。寛永12年(1635年)に附家老安藤直治が死去すると、遺児の千福丸(のちの義門)は幼少であったため、頼宣の命により為時は附家老・水野重良と共に大老として藩政を任されることとなった[1]。寛永14年(1637年)1月5日、従五位下長門守に任官し、同年1月21日に江戸城で将軍・家光に拝謁した後、和歌山に帰国。

承応元年(1652年)に父・為春が死去すると、頼宣は為春の隠居料5,000石を為時に与えるとした直状を出したが、為時がこれを固持したため、翌承応2年(1653年)に頼宣の使者として彦坂八郎右衛門が和歌山に下向し、「古の五千石は東照神君(家康)の命ずるところなり。後の五千石は台徳院殿(秀忠)の命ずるところなり。今の五千石は二品(頼宣)初めて賜うところなり。辞すべからず。」と命じたところ、為時は遂にこれを拝受して知行1万5,000石となった[1]。同年、附家老・安藤義門が元服したため、為時は大老の辞任を願い出たが、寛文7年(1667年)に再度辞任を願い出るまで頼宣の許しは得られなかった[1]

延宝4年(1676年)11月11日、死去。享年68(満67歳没)。墓所は和歌山県和歌山市了法寺。家督は嫡男・為隆が継いだ。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b c d e f 『三浦系図伝 完』

参考文献

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