くず 哲也( - てつや、本名:野村 哲也1947年昭和22年〉6月10日 - 2021年令和3年〉1月31日)は、日本タレントフリーライターラジオパーソナリティ

人物 編集

東京都出身。東京都立広尾高等学校武蔵野美術大学産業デザイン科卒業[1]。大学卒業後、広告会社に入社するが3か月で退社[1]。その後は特に定職に就く訳でもなく音楽グループの「日暮し」の結成に関わったり、平凡出版(現・マガジンハウス)で「平凡パンチ」のライターをしたり気ままな活動をし、せんだみつお鈴木ヒロミツ高橋基子黒田征太郎浅井慎平野末陳平らと出会い親交を温めて来た[2]。ある時ニッポン放送のプロデューサー・上野修にマイクテストを受けるようにと半ば強引にニッポン放送に呼ばれる。その時はラジオのパーソナリティーになる気は更々無くマイクの前で好き勝手な事を言って帰ったが、上野に気に入られて平凡出版が提供していた「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」のメインパーソナリティーに抜擢される[2]。「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」にパーソナリティとして出演する際、本名では公務員みたいで堅苦しいとして芸名を付けることになり、上野が名付けた。当時東京都杉並区清掃工場建設を巡っての『杉並ゴミ戦争』と言われた騒動があり、これに便乗するような形で『ゴミ哲也』と言う名前も候補に挙がったが「ゴミよりクズテツの方がいくらか利用価値が上がるのでは」と考え、くず哲也となった(上野は「いい加減な理由」と話していた)[2]。その後ニッポン放送を中心にラジオパーソナリティーとライター、タレント活動を行う。豊島区南長崎にて「半分亭」というダイニングバーのマスターとしての顔も持っていた[3]2014年9月以降はラジオ、テレビからは遠ざかり、バーの経営の他、映画評の執筆などで活動していた[1]

自らのトークスタイルについて「カッコいいことを言おうとかそういうことは思ってなく、遊んだり飲みに行っている時と同じ様な雰囲気で、出来るだけ普段に近い形でと言うのがモットー。言葉の一つ一つというのは放送禁止用語以外はあまり意識してないので、言葉のそれは間違いだらけではないかという気もする。大事にしているのは、いかに生き生きした言葉を相手に伝えていくかということで、そうでないと今の若い人には伝わらないと考えている」といったことを話していたことがある[4]

2021年1月31日、急性骨髄性白血病で死去[5][6]。73歳没。

過去の主な出演番組 編集

ラジオ 編集

昭和50年代にはニッポン放送を中心に活躍していた。

テレビ 編集

執筆 編集

  • 平凡パンチ「くず哲也のペーパーラジオ」等
  • 平凡パンチOh!(平凡パンチの手帳サイズ版別冊)
  • 初体験レポート(1979年4月、廣済堂出版
  • くず哲のヤンヤン大学(1979年4月、立風書房
  • くず哲也の日曜はダメよ―ダメでもともと笑殺ドジ爆弾(1981年6月、サンケイ出版

脚注 編集

  1. ^ a b c ラジオパーソナリティーとして活躍、くず哲也さん死去 急性骨髄性白血病で”. スポーツニッポン (2021年2月3日). 2021年2月12日閲覧。
  2. ^ a b c くず哲也の日曜はダメよ』番組本『くず哲也の日曜はダメよ ダメでもともと笑殺ドジ爆弾』(ニッポン放送編、サンケイ出版刊 1981年)2 - 4ページ「まえがき」より。
  3. ^ 山本かおるの今日もいい天気「12月14日 半分亭」”. ニッポン放送. 2015年4月14日閲覧。
  4. ^ NHK文研月報(NHK総合放送文化研究所・放送世論研究所 発行)1980年2月 p.26 - 39「研究座談会 若者とDJ番組」
  5. ^ "ラジオパーソナリティーくず哲也さん、死去". スポーツ報知. 報知新聞社. 2 February 2021. 2021年2月2日閲覧
  6. ^ くず哲也さん死去 急性骨髄性白血病、73歳”. 日刊スポーツ (2021年2月2日). 2021年2月4日閲覧。

外部リンク 編集