アレクサンドル・アクショーノフ
アレクサンドル・ニキフォロヴィチ・アクショーノフ(ロシア語: Александр Никифорович Аксёнов、1924年10月9日 – 2009年9月8日)、民族名アリャクサンドル(アリャクサンダル)・ニチュイパラヴィチ・アクショーナウ(ベラルーシ語: Аляксандр (Аляксандар) Нічыпаравіч Аксёнаў)は、ソビエト連邦の政治家・外交官。
アレクサンドル・ニキフォロヴィチ・アクショーノフ Александр Никифорович Аксёнов Аляксандр Нічыпаравіч Аксёнаў | |
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ミンスク、ヴォストーチノエ墓地のアクショーノフの墓碑 | |
生年月日 | 1924年10月9日 |
出生地 |
ソビエト連邦 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国ゴメリ県ゴメリ郡クントロフカ |
没年月日 | 2009年9月8日(84歳没) |
死没地 | ベラルーシ、ミンスク |
出身校 |
ソビエト連邦共産党中央委員会附属高等党学校卒業 赤軍チカロフ歩兵学校卒業 ゴメリ教育学校卒業 |
所属政党 |
(全連邦共産党(ボリシェヴィキ)→) ソビエト連邦共産党 |
称号 | #褒章節参照 |
在任期間 | 1971年7月16日 - 1978年12月4日 |
在任期間 | 1978年12月11日 - 1983年7月8日 |
最高会議幹部会議長 | イヴァン・ポリャコフ[1] |
在任期間 | 1960年4月 - 1965年12月 |
在ポーランド・ソビエト連邦特命全権大使 | |
在任期間 | 1983年7月11日 - 1986年1月3日 |
在任期間 | 1985年12月16日 - 1989年5月16日 |
その他の職歴 | |
白ロシア・レーニン共産主義青年同盟 中央委員会第一書記 (1954年 - 1957年) | |
白ロシア共産党ヴィテプスク州委員会 第一書記 (1965年12月 - 1971年7月21日) |
生涯
編集1924年10月9日、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国ゴメリ県クントロフカ (ru) で生まれたベラルーシ人[2]。1939年からゴメリ教育学校に通い[3]1941年に卒業[2]。同年にチカロフ州へ疎開し、翌1942年8月までガヴリーロフ地区のコルホーズ「プロレタルスカヤ・シーラ」でトラクター部門会計士をしていたが[2]、同月から赤軍チカロフ歩兵学校で学び[3]、1943年1月に卒業[2]。その後スターリングラード戦線と南部戦線の第49防衛狙撃師団 (en) 小隊司令官として戦った[2]。1943年3月に負傷・入院し、8月に除隊した[3]。
同月から翌1944年2月までガヴリーロフ地区のイズャク・ニキーチノ小学校校長を務め、1944年から翌1945年5月まで全連邦コムソモール・ガヴリーロフ地区委員会第一書記、白ロシア・コムソモール (be)・バラーノヴィチ州委学校部副部長、バラーノヴィチ市委第一書記を歴任[3]。同年から全連邦共産党に入党し、5月から1950年2月までコムソモール・バラーノヴィチ州委書記、同月から1953年まで同委第一書記、同年から翌1954年まで中央委書記および第二書記、1954年から1957年まで第一書記を務めた[3]。1956年12月27日から1959年10月22日までは全連邦コムソモール中央委 (ru) 書記でもあった[3]。1957年には連邦共産党中央委附属高等党学校 (ru) を通信で卒業している[3]。
1956年1月27日に白ロシア共産党中央委員 (be) となり、1986年1月30日までこれを務めた[3]。1959年7月から翌1960年4月まで白ロシア共和国KGB (ru) 副議長、同月から1965年12月まで内務相および公共秩序維持相 (be)、3等内務将校 (ru)、同月から1971年7月21日まで党ヴィテプスク州委第一書記、同月16日から1978年12月4日まで中央委第二書記を歴任し、1971年7月16日から1983年6月29日までは中央委局員 (be)、1976年3月5日から1990年7月2日までは連邦共産党中央委メンバーでもあった[3]。第23回から第27回までの連邦共産党大会にも出席し[2]、白ロシア共和国最高会議 (ru) 代議員に第4期から第10期まで、連邦最高会議代議員にも第7期から第11期まで選出されている[4]。1975年から1983年までは白ロシア共和国最高会議幹部会メンバーでもあった[4]。
1978年12月11日から1983年7月8日までは白ロシア共和国閣僚会議議長、同月11日から1986年1月3日までは連邦駐ポーランド大使、同年から1989年まではソビエト・ポーランド友好協会理事会議長を務め、1985年12月16日から1989年5月16日までは連邦テレビ・ラジオ放送国家委員会議長として[3]、テレビ業界の民主化に関わった[4]。同年5月から年金生活に入り[3]、政界からは退いて[4]故郷ベラルーシのミンスクで暮らした[2]。
2009年9月8日にミンスクで死去[3]。同地のヴォストーチノエ墓地 (ru) に葬られた[2]。その死に際しては、アレクサンドル・ルカシェンコ大統領が弔意を示した[5]。
褒章
編集脚注
編集- ^ “Высшие органы государственной власти Белорусской ССР”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2018年4月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q “Аксёнов Александр Никифорович. Председатель Гостелерадио СССР в 1985-1989 гг.”. Независимый сайт исторического района Замоскворечье. 2018年4月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l “Аксёнов Александр Никифорович”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2018年4月5日閲覧。
- ^ a b c d “Аксенов Александр”. Электронная Энцыкляпэдыя. 2018年4月5日閲覧。
- ^ Сидорский С. С. и другие (2009年9月9日). “АКСЕНОВ Александр Никифорович”. Народная газета. Стартовая страница Беларуси. 21.by 2018年4月5日閲覧。
党職 | ||
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先代 フョードル・スルガノフ |
白ロシア共産党中央委員会第二書記 1971年7月16日 - 1978年12月4日 |
次代 ウラジーミル・ブロヴィコフ |
先代 スタニスラフ・ピロトヴィチ |
白ロシア共産党ヴィテプスク州委員会第一書記 1965年12月 - 1971年7月21日 |
次代 セルゲイ・シャバショフ |
先代 ピョートル・マシェロフ |
白ロシア・レーニン共産主義青年同盟中央委員会第一書記 1954年 - 1957年 |
次代 グレプ・クリウリン |
公職 | ||
先代 チホン・キセリョフ |
白ロシア・ソビエト社会主義共和国閣僚会議議長 1978年12月11日 - 1983年7月8日 |
次代 ウラジーミル・ブロヴィコフ |
先代 セルゲイ・シコルスキー |
白ロシア・ソビエト社会主義共和国内務大臣 1962年9月5日から公共秩序維持大臣 1960年4月 - 1965年12月 |
次代 ボリス・シュミーリン |
先代 セルゲイ・ラーピン |
ソビエト連邦テレビ・ラジオ放送国家委員会議長 1985年12月16日 - 1989年5月16日 |
次代 ミハイル・ネナシェフ |
外交職 | ||
先代 ボリス・アリストフ |
在ポーランド・ソビエト連邦特命全権大使 1983年7月11日 - 1986年1月3日 |
次代 ウラジーミル・ブロヴィコフ |