アンナ・コムネナ

アンナ・コムネナギリシア語: Άννα Κομνηνή Anna Komnena, 1083年12月2日 - 1154年から1155年)は、東ローマ帝国コムネノス王朝の皇族、歴史家。コムネノス王朝の初代皇帝アレクシオス1世コムネノスと、有力貴族ドゥーカス家出身の皇后エイレーネー・ドゥーカイナ英語版の長女。中世ギリシャ語読みでは「アンナ・コムニニ」。

アンナ・コムネナ
Άννα Κομνηνή

全名 アンナ・コムネナ
称号 ケサリッサ(カイサル夫人)
出生 1083年12月2日
東ローマ帝国コンスタンティノープル
死去 1154年(?)
東ローマ帝国コンスタンティノープル
埋葬 コンスタンティノープル・ケカリトメネ修道院[1]
配偶者 ニケフォロス・ブリュエンニオス
父親 アレクシオス1世コムネノス
母親 エイレーネー・ドゥーカイナ
宗教 正教会
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生涯編集

アンナは1083年12月2日、宮殿にある皇后専用の「緋色の産室」で生まれた[2]。生まれて間もなくドゥーカス王朝の皇帝ミカエル7世の息子でアレクシオスの共同皇帝とされていたコンスタンティノス・ドゥーカス英語版と婚約した[3]。コンスタンティノスは当初アレクシオスの後継候補とされていたため、そのままコンスタンティノスが即位すればアンナは皇后になれるはずであった[4]。しかし、1087年に嫡男である弟のヨハネスが生まれ、さらに1095年にはコンスタンティノスは急死してしまった[5]

アンナは高度の教育を受け、宗教の書物の他、ホメロスヘロドトストゥキディデスアリストパネスらのギリシャ古典文学を愛読、神話地理学歴史学修辞学弁証学プラトン及びアリストテレス哲学に深い知識をもった。アンナは『アレクシアス』(後述)の序文で自らについて、

緋色の産室で生まれ育てられ、読み書きは言うまでもなく、完璧なギリシア語を書けるよう精進し、修辞学をなおざりにせず、アリストテレスの諸学とプラトンの対話作品を精読し、学問の四学科で知性を磨いたものである[6]

と記している。

1097年、アンナはマケドニア地方の名門軍事貴族出身のニケフォロス・ブリュエンニオス英語版と結婚した。1118年に父アレクシオス1世が死去する際には、母エイレーネーと共に夫のニケフォロスを後継者に据えようとしたが、アレクシオスがこれを認めず、ニケフォロスも動かなかったために失敗し、弟のヨハネスが皇帝ヨハネス2世として即位した[7]

それでもなお、夫を帝位に就けて皇后になることを諦めていなかったアンナは、弟ヨハネス2世を暗殺するクーデターを計画するが、これも失敗してしまう[8]。この際弟ヨハネスは姉に対して寛大な処置を取ったため、「カロヨハネス(善良なるヨハネス)」と呼ばれるようになった[9]

クーデターに失敗したアンナは母エイレーネーとともに母が建立した修道院(ケカリトメネ修道院)に隠棲し、夫ニケフォロスがエイレーネーに命じられて書いていた伝記『アレクシアス(アレクシオス1世伝)英語版ギリシア語版』(ギリシア語: Ἀλεξιάς)を夫の没後引き継ぎ、完成させ、世界史上でも数少ない女性歴史家となった[10]

『アレクシアス』を著した後、アンナはケカリトメネ修道院で没した。没年は1148年よりものち、1154-1155年と推測されているが詳しいことは分かっておらず、孤独のうちに人知れず世を去ったとみられている[11]。没後、隠棲先のケカリトメネ修道院に埋葬されたと思われるが(母エイレーネーが定めた修道院の規約には、娘たちの埋葬の場所を修道院の外玄関廊に与えると書かれていた)、ケカリトメネ修道院がコンスタンティノープルのどこにあったのかは、確定できていない[1]

脚注編集

参考文献編集

  • アンナ・コムニニ(アンナ・コムネナ)『アレクシアス』井上浩一(解説)、相野洋三訳、悠書館、2019年。ISBN 978-4-86582-040-9
  • 井上浩一『ビザンツ皇妃列伝 憧れの都に咲いた花』白水社、2009年(原著1996年)。ISBN 978-4-560-72109-4
  • 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』東海大学出版会、1999年。ISBN 4-486-01431-6

関連書籍編集

  • 「緋色の皇女アンナ」 トレーシー・バレット著、山内智恵子訳 - アンナの半生を描く歴史小説。徳間書店、2001年刊行。