ウォルター・モンデール
ウォルター・フレデリック・モンデール(英語:Walter Frederick Mondale、1928年1月5日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。同国第42代副大統領(在任: 1977年1月20日 - 1981年1月20日)。
ウォルター・モンデール Walter Mondale | |
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![]() 副大統領時代 | |
生年月日 | 1928年1月5日(93歳) |
出生地 |
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出身校 |
マカレスター大学 ミネソタ大学 ミネソタ大学ロースクール |
前職 | 弁護士 |
所属政党 |
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配偶者 | ジョーン・モンデール(1955‐2014) |
子女 |
テッド・モンデール エレノア・モンデール ウィリアム・H・モンデール |
サイン |
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在任期間 | 1977年1月20日 - 1981年1月20日 |
大統領 | ジミー・カーター |
選挙区 |
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在任期間 | 1964年12月30日 - 1976年12月30日 |
在任期間 | 1993年9月21日 - 1996年12月15日 |
大統領 | ビル・クリントン |
在任期間 | 1960年5月4日 - 1964年12月30日 |
州知事 |
オーヴィル・ロスロップ・フリーマン エルマー・リー・アンダーセン カール・ロルヴァーグ |
第23代ミネソタ州検事総長、連邦上院議員、第24代駐日アメリカ合衆国大使を歴任した。1984年アメリカ合衆国大統領選挙での民主党の大統領候補であった。
経歴編集
生い立ちと軍歴編集
1928年1月5日にミネソタ州セイロンに誕生する。父親のセオドア・ジーグヴァード・モンデールはノルウェー系[1]でメソジスト派の牧師を務めており、母親のクラリベル・ホープ(旧姓カウァン)は音楽教師であった[2][3][4]。モンデールは幼少時をミネソタ南部の小さな町で過ごし、その中にはヘロンレイクやエルモアが含まれた。後の1980年アメリカ合衆国大統領選挙で彼はそれらの町を故郷だとした。彼の異母兄のレスター・モンデールはユニテリアン派の牧師であった。
モンデールはセントポールのマカレスター大学に入学したがパブリック・アイビーの一つであるミネソタ大学に編入し、1950年にミネソタ大学を卒業した。ロー・スクールに通うための経済的余裕が無かったため、アメリカ陸軍に入隊。朝鮮戦争時の2年間をフォート・ノックスで過ごし、伍長まで昇進した。除隊後に復員兵援護法による奨学金を利用してミネソタ大学ロースクールに入学し、1956年に卒業した。
政歴編集
マカレスター大学在学中にミネアポリス市長ヒューバート・H・ハンフリーの選挙運動を手伝ったのがきっかけで政界入り。弁護士、ミネソタ州司法長官を経て1964年、リンドン・ジョンソン政権の副大統領に就任したヒューバート・H・ハンフリーの後継者としてアメリカ合衆国上院議員に当選。上院の民主党内では急進派と保守派の中間的な立場であった。
1976年アメリカ合衆国大統領選挙で民主党の大統領候補であるジミー・カーターから副大統領候補に選ばれて当選した。1977年1月20日から1981年1月20日まで副大統領を務めた。副大統領としては国内外を精力的に廻り、また政権の政策決定にも積極的に関与している。しかし1980年アメリカ合衆国大統領選挙では共和党のロナルド・レーガンとジョージ・H・W・ブッシュに敗れ下野した。
1984年アメリカ合衆国大統領選挙では共和党の現職であるロナルド・レーガン大統領に対する民主党の指名大統領候補者となり、雪辱に挑む。副大統領候補には女性として史上初の2大政党指名候補となるジェラルディン・フェラーロ下院議員を立てた。選挙戦ではリベラル寄りの主張を展開し、レーガノミクスや軍拡路線を批判したが、選挙人投票において525票対13票という圧倒的大差を付けられ、歴史的大敗を喫する。
ビル・クリントンによって民主党が政権奪取に成功すると、当初は駐イギリス大使・駐フランス大使への起用が検討されたが、これを固辞。結局1993年に駐日大使に任命され日米構造協議以降の貿易不均衡の是正や非関税障壁の排除に力を振るうものの、「(中華人民共和国との)尖閣諸島の帰属に関する実力行使を伴う国際紛争の場合、日米安保は発動しない」と発言して石原慎太郎などから批判を受けた。1996年の帰国後に退任した。
2002年の中間選挙ではミネソタ州選出のポール・ウェルストーン上院議員が再選を目指して選挙戦で共和党候補としのぎを削っていたが、投票日11日前になって州内を遊説中の同議員がチャーターしていた小型機が墜落し、同議員をはじめ、ウェルストーン選対幹部全員が死亡という事件が起った。そのピンチヒッターとしてモンデールは周囲から推されて出馬するが、残された10日間で「モンデールは既に過去の人」という印象は拭いきれず、共和党候補に50パーセント対47パーセントの小差で敗れている。
2008年8月20日に2008年アメリカ合衆国大統領選挙の民主党候補であるバラク・オバマの対日政策顧問グループに名誉会長として参加した。
エピソード編集
落語家の初代林家三平には「大統領の肩を副大統領が揉んでいるということで、これをカーター・モンデール…」と小咄にされたことがある(1977年に放送されたNHKの「金曜招待席」より)。
駐日大使時代に長女のエレノアと俳優の堤大二郎の交際が報道され、本人もその事実を認めたことから話題となった。
受章歴編集
参照編集
外部リンク編集
- Congressional biography
- Senate Leaders Lecture Series Address
- Minnesota Public Radio: Coleman, Mondale debate on eve of election (November 4, 2002) - featuring audio of the 2002 debate
- Hubert H. Humphrey Institute of Public Affairs: The Mondale Lectures on Public Service
- Great Norwegians
- Two Views from Pennsylvania Avenue
- List of New York Times articles on Mondale
- Senator Mondale transfers money from NASA to social programs using political maneuvers
- AmericanHeritage.com / Lost in Space What Went Wrong with NASA?
- Walter F. Mondale: An Inventory of His Papers, including his Vice Presidential Papers, at the Minnesota Historical Society
公職 | ||
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先代: ネルソン・ロックフェラー |
アメリカ合衆国副大統領 第42代:1977年1月20日 - 1981年1月20日 |
次代: ジョージ・H・W・ブッシュ |
司法職 | ||
先代: マイルズ・ロード |
ミネソタ州司法長官 第23代:1960年5月4日 - 1964年12月30日 |
次代: ロバート・W・マットソン・シニア |
アメリカ合衆国上院 | ||
先代: ヒューバート・ハンフリー |
ミネソタ州選出上院議員(第2部) 1964年12月30日 - 1976年12月30日 同職:ユージーン・マッカーシー, ヒューバート・ハンフリー |
次代: ウェンデル・アンダーソン |
党職 | ||
先代: ポール・ウェルストーン (死去) |
ミネソタ州選出上院議員(第2部) ミネソタ民主農民労働党候補 2002 |
次代: エイミー・クロブシャー |
先代: ジミー・カーター |
民主党大統領候補 1984年11月 |
次代: マイケル・デュカキス |
先代: サージェント・シュライバー |
民主党副大統領候補 1976年11月・1980年11月 |
次代: ジェラルディン・フェラーロ |
先代: ヒューバート・ハンフリー |
ミネソタ州選出上院議員(第2部) ミネソタ民主農民労働党候補 1966・1972 |
次代: ウェンデル・アンダーソン |
儀礼席次 | ||
先代: リンダ・リングル ハワイ州知事 |
アメリカ合衆国の儀礼席次 元副大統領 |
次代: ダン・クエール 元副大統領 |