オロフ・パルメ
スヴェン・オロフ・ヨアキム・パルメ( Sven Olof Joachim Palme[1]、1927年1月30日 - 1986年2月28日)は、スウェーデンの政治家。2期にわたって同国の首相を務めたが、在任中に暗殺された。
オロフ・パルメ Olof Palme | |
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![]() オロフ・パルメ(1984年) | |
生年月日 | 1927年1月30日 |
出生地 |
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没年月日 | 1986年2月28日(59歳没) |
死没地 |
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出身校 | ストックホルム大学 |
所属政党 | 社会民主労働党 |
サイン |
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在任期間 | 1969年10月14日 - 1976年10月8日 |
国王 | グスタフ6世アドルフ、カール16世グスタフ |
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在任期間 | 1982年10月8日 - 1986年2月28日 |
国王 | カール16世グスタフ |
生涯編集
ストックホルムに生まれる[2]。ストックホルム大学を卒業した後、アメリカに渡ってケニオン大学で法学を専攻した[2]。スウェーデン全学連委員長時代にはベトナムの平和回復運動の先頭に立った。1949年にスウェーデン社会民主労働党に入党[2]し、当時の首相であったターゲ・エルランデルの個人秘書を務めた[2]。1957年に上院議員に初当選[2]。1963年、エルランデルの元で無任所相に就任[2]し、その後1965年に運輸通信相[2]、1967年に教育相を歴任する[2]。1969年、エルランデルが高齢を理由に引退し、その後を受けて42歳で社会民主労働党議長および首相に就任した[2]。1976年の総選挙では核エネルギーの導入が争点となったが、反対を掲げる中央党・穏健党・自由党の3党から成るブルジョワ・ブロックに大敗[2]し、44年ぶりに社会民主労働党が下野した。続く1979年の総選挙では善戦したものの政権奪還に失敗した。1982年の総選挙ではブルジョワ・ブロックの失政を突いて快勝、政権復帰を果たして首相に再就任した[2]。
暗殺編集
首相在任中の1986年2月28日深夜[2]、ストックホルムの路上で黒いオーバーの男によって拳銃で2発を撃たれて射殺された(オロフ・パルメ暗殺事件)。
パルメの妻の目撃証言によって、事件後に容疑者としてスウェーデン生まれのクリステル・ペターションが逮捕された。地方裁判所で終身刑となったが、控訴審では妻の証言の信憑性が疑われるとして無罪となった。ペターションは2004年に頭部の怪我により死亡した[3]。
また、ソ連国家保安委員会(KGB)が暗殺の情報を事前に掴んでいた可能性があるとスウェーデンの新聞等で報じられたが、KGBはこれを否定した。2006年には暗殺に使用されたと見られる拳銃がダーラナ県にある湖底で発見された。
2012年にイギリス在住のスウェーデン人ハンス・クリスチャン・ラウジング(テトラパック創業者であるルーベン・ラウジングの孫)の妻、エヴァ・ラウジングが変死した事件があり、エヴァが亡くなる直前にパルメの暗殺に関する情報をスウェーデン当局に通報していたことが報じられた[4]。
2020年6月10日、検察は暗殺の最重要容疑者として、パルメの左派政策に強く反対していた広告コンサルタントスティグ・エングストロムの名前を公表したものの、エングストロムは既に死亡しているとして、捜査を打ち切ったと発表した[5]。
政策編集
パルメはカリスマ・リーダーとして登場したものの、内政では大企業の国営化プログラムなど当時から物議を醸した政策を推進しようとしたためあまり評価は芳しくない。しかし、外交政策においては、第三世界問題や1981年に組織された国連軍縮委員会(パルメ委員会)で委員長[2]として主体性を発揮するなどしたため高く評価されている。
また、ベトナム戦争に対するアメリカの介入を強硬に批判し、大量の兵役忌避者や脱走兵を受け入れた。1968年にプラハの春に対するソ連の武力弾圧や南アフリカのアパルトヘイト政策、スペインのフランコ政権による独裁政治を辛辣に批判し続け、反核運動にも尽力した。
脚注編集
- ^ スウェーデン語での標準的な発音を日本語表記すると「ウーロフ・パルメ」、フルネームでは「スヴェン・ウーロフ・ヨアキム・パルメ」に近いが、「オロフ」の表記が一般的。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『パルメ』 - コトバンク
- ^ “Man tried for Olof Palme murder dies” The Guardian
- ^ “Eva Rausing ‘had information’ on murder of Swedish PM” The Guardian
- ^ “スウェーデン元首相暗殺、容疑者名公表も捜査打ち切り 30年来の謎残し”. AFP. (2016年6月6日)
関連項目編集
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