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クラ地峡横断鉄道(クラちきょうおうだんてつどう)は、太平洋戦争中にタイマレー半島東岸チュムポーン県と西岸ラノーン県を結んでいた鉄道。英語名称は「Kra Isthmus Railway」。泰緬鉄道とほぼ同時期に建設され、第二の泰緬鉄道と呼ばれる場合もある[1]

クラ地峡横断鉄道
基本情報
通称 クラ地峡鉄道
現況 廃止
タイ王国
起点 シャム国鉄南本線チュムポーン駅
終点 ラノーン県カオファーチー
開業 1943年12月25日
廃止 1945年6月15日
路線諸元
路線距離 90.82 km
軌間 1,000 mm
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概要編集

マレー半島の付け根に位置するクラ地峡は、最も狭い場所での幅、約44kmというわずかな陸地で太平洋海域とインド洋海域を分断しており、両海域を横断しようとする船舶は南方1000kmの難所、マラッカ海峡経由を強いられる。

クラ地峡西側に位置するラノーン県はクラブリー川を挟みビルマ(現・ミャンマー)に面する国境地帯で、アンダマン海をのぞむ港湾拠点として有望とした旧日本陸軍は、鉄道と船舶の連携によってビルマ方面作戦に必要な軍需物資の輸送を企図した。マラヤ(現・マレーシアクランタン州にて接収した資材を元に旧日本陸軍鉄道第9連隊第4大隊によって建設・運行された。

路線編集

およそ現・国道4号線に沿う形で敷設されていた。シャム国鉄(現・タイ国鉄)チュムポーン駅を起点に西進し、ビルマ国境でもあるクラブリー川に沿って南に向きを変え、カオファーチーに至る。

歴史編集

  • 1859年 - イギリス、クラ地峡横断鉄道計画をラーマ4世に具申。後に計画破棄[注釈 1][3]
  • 1941年
    • 12月8日 - 日本軍、タイ領内に侵入。チュムポーンでも義勇軍との戦闘が発生し犠牲者が出る
    • 12月21日 - 日泰攻守同盟条約公布[注釈 2]
  • 1942年 1月25日 - タイ、英米に対し宣戦布告
  • 1943年
    • 3月 - 日本軍、鉄道ルート調査実施[4]
    • 5月13日 - 日本、タイに対し鉄道建設を打診[4]
    • 5月31日 - タイ・日本政府代表により鉄道建設合意。[注釈 3]
    • 6月 - 建設開始
    • 12月25日 - 開通式[4]
  • 1944年10月 - 米軍の空襲により事実上放棄されたとされる
  • 1945年
    • 6月15日 - 日本軍により資材撤去が始まったとされる

現状編集

戦後、イギリスがマレーシア国内の鉄道復興のために資材転用したため、鉄道設備はほぼ現存しない。 跡地は道路整備に転用されたり、周辺の発展に伴い消滅していったが、一部の路盤跡は残存している模様。時を経て現在でも当時の犬釘レールが発掘されることがある[1]

  • カオファーチーには鉄道が存在したことを伝える記念公園があり、蒸気機関車が一両展示されている。しかしこれは賠償品として日本から持ち込まれた1950年製の新車であり、当路線には一切関わっていない。さらに、公園の位置はかつて存在した鉄路と無関係の場所であることが判明している。

前述の通り、マラヤから資材が供出された折に、多数の鉄道技師も動員され、当鉄道の拠点となるチュムポーンに技術者集団が出現した。これを契機に、チュムポーンは今に至るもタイ国有鉄道の車両整備工場が位置する重要拠点となっている。

労務者の問題編集

日本軍は周辺各国を通じて延べ2万人もの労務者を招集し鉄道建設に従事させているが、募集時の甘言に反した過酷な労働で少なからぬ労務者が逃亡、あるいは死亡したことが指摘されている。ただ泰緬鉄道と比べ残された情報が少なく、あまり知られていないのが実情である。

今後編集

当ルートを踏襲する物流の新動脈が構想されている。

  • クラ地峡ドライカナル計画 - 韓国鉄道技術研究院が提唱[3] [5]
-船舶を水揚げし、地上の複数軌道で船舶ごと輸送するという構想。同システムは急傾斜にも強いことをアピールしており、当鉄道のルートに依らない最短経路を選定するとみられる。ただし、同技術はまだ実用化段階にない。
  • タイ国鉄新線計画
-チュムポーン県からラノーン県まで、ほぼ同じルートを走る国道4号線を高速道路に昇格し、同時に並走する複線を建設するもの[6] 。ソムキット副首相が2018年8月の閣議にて公表されたが、南本線の高速化が優先との判断で後に保留されている[7]
  • クラ地峡運河計画
- 中国が提唱。幅400mの大規模な運河を造成するもの[3]。建設合意の噂が流れたが、タイ・中国ともに否定している[8]

参考文献編集


注釈編集

  1. ^ 実現しなかったものの、本計画はタイ史上初の鉄道敷設計画であった[2]
  2. ^ シャム王国を完全な支配下に置いたわけではないことに注意。つまり、鉄道のようなインフラを日本側は牛耳ることができず、戦略上必要であれば本鉄道のように日本が主体となって建設する他なかった。
  3. ^ 土木建設をタイ側が、鉄道施設を日本側が施工するという分担が取り決められたという証言が記録に残っているが、実際は日泰攻守同盟条約を盾に全ての工事を日本が担当したとの説もある。ただ、実務上マラヤおよびシンガポールでの動員に応じて多数の労務者が建設に従事していたことは確実である。

脚注編集

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  1. ^ a b 第2の泰緬鉄道跡 タイ・ラノン県で日本軍レールの残がい”. newsclip (2013年1月9日). 2019年7月30日閲覧。
  2. ^ 柿崎一郎『王国の鉄路』京都大学学術出版会、2010年、12頁。
  3. ^ a b c タイ南部、“幻の鉄道”再興計画”. Sankei Biz (2015年10月1日). 2019年7月31日閲覧。
  4. ^ a b c 柿崎一郎 (2014年). “第 2 次世界大戦中の日本軍のタイ国内での展開 通過地から駐屯地へ (下)”. 横浜市立大学. 2019年7月31日閲覧。
  5. ^ Solving the Thai canal riddle”. en:GlobalData (2016年1月13日). 2019年7月31日閲覧。
  6. ^ Southern Economic Corridor on agenda” (英語). バンコック・ポスト (2018年8月2日). 2019年7月31日閲覧。
  7. ^ Plans for Chumpon-Ranong double-track rail route stall” (英語). バンコック・ポスト (2019年6月11日). 2019年7月31日閲覧。
  8. ^ 「クラ地峡運河推進を」 タイ国王側近が公開状”. newsclip (2016年1月11日). 2019年7月31日閲覧。

関連項目編集

外部リンク編集