サンティアーゴ・デ・クーバ

キューバの都市

サンティアーゴ・デ・クーバ (スペイン語: Santiago de Cuba) は、キューバ南東部の都市である。サンティアーゴ・デ・クーバ州州都人口は40万4100人。

サンティアーゴ・デ・クーバ
Santiago de Cuba
キューバの旗
位置
サンティアーゴ・デ・クーバの位置(キューバ内)
サンティアーゴ・デ・クーバ
サンティアーゴ・デ・クーバ
サンティアーゴ・デ・クーバ (キューバ)
サンティアーゴ・デ・クーバの位置(大アンティル諸島内)
サンティアーゴ・デ・クーバ
サンティアーゴ・デ・クーバ
サンティアーゴ・デ・クーバ (大アンティル諸島)
座標 : 北緯20度01分 西経75度50分 / 北緯20.017度 西経75.833度 / 20.017; -75.833
歴史
建設 1515年
行政
キューバ共和国
  サンティアーゴ・デ・クーバ州
 市 サンティアーゴ・デ・クーバ
人口
人口 2006年現在)
  市域 42万6199[1]
    人口密度   77.9人/km2
その他
等時帯 東部標準時 (UTC-5)
夏時間 東部夏時間 (UTC-4)
公式ウェブサイト : santiago.cu
モーロ要塞

カリブ海に面したマエストラ湾岸にある港湾都市かつ工業都市である。

歴史

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1514年6月28日にスペイン人コンキスタドールディエゴ・ベラスケスによって創設された。1516年居住区は火災で焼失したが、すぐに再建された。1617世紀には海賊による密貿易の拠点であった。1518年、この町からフアン・デ・グリハルバエルナン・コルテスメキシコ海岸の探検に出ている。1538年にはエルナンド・デ・ソトフロリダに向けて旅立った。1528年に最初の大聖堂が建てられた。1522年から1589年まで、サンティアーゴ・デ・クーバは、スペイン植民地キューバの首都であった。1553年にはフランス軍が、1662年にはイギリス軍が町を占拠した。

18世紀末や19世紀初頭に、1791年に起きたハイチ革命によりハイチから亡命したフランス人が流入し、サトウキビの栽培地域が拡大された。その影響で、市内の通りにはスペインフランスの様式で建てられた建物が今なお現存している。

1898年、この地でキューバにおける米西戦争の戦火が発生し、サンチャゴ・デ・キューバ海戦が起きた。戦争は終わったが後のキューバ独立に寄与する結果となった。

また、1953年にはフィデル・カストロ率いる160名の青年兵士が、キューバ革命の端緒となるキューバ陸軍モンカダ兵営の襲撃を行なった。現在、サンティアーゴ・デ・クーバは、マンガンなどの鉱物砂糖タバコの船積みが行なわれる港があることで知られ、パナマ国際航路の中継港になっている。また、キューバ縦断道路の東側の基点でもある。市内にオリエンテ大学がある。

史跡

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市内には1997年世界遺産に登録されたサン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城がある。

交通

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鉄道

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港の近くに、キューバ鉄道サンティアーゴ・デ・クーバ駅がある。

出身人物

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出典

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外部リンク

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