ハイチ

中央アメリカにある共和国
ハイチ共和国
Repiblik d Ayiti(ハイチ語)
République d'Haïti(フランス語)
ハイチの国旗 ハイチの国章
国旗 国章
国の標語:L'union fait la force
フランス語: 団結は力なり)
国歌La Dessalinienne (フランス語)
デサリーヌの歌
ハイチの位置
公用語 ハイチ語標準フランス語
首都 ポルトープランス
最大の都市 ポルトープランス
政府
大統領フランス語版英語版 アリエル・アンリ英語版(暫定)
首相フランス語版英語版 アリエル・アンリ英語版
面積
総計 27,750km2143位
水面積率 0.7%
人口
総計(2008年 10,033,000人(91位
人口密度 362人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2013年 3,648億[1]グールド
GDP(MER
合計(2013年85億[1]ドル(138位
1人あたり xxxドル
GDP(PPP
合計(2013年176億[1]ドル(137位
1人あたり 1,703[1]ドル
独立フランスより
1804年1月1日
通貨 グールドHTG
時間帯 UTC-5 (DST:-4)
ISO 3166-1 HT / HTI
ccTLD .ht
国際電話番号 509

ハイチハイチ語: Ayiti [ajiti]; フランス語: Haïti [a.iti]; 英語: Haiti [ˈhti] ( 音声ファイル))公式には ハイチ共和国(ハイチきょうわこく、ハイチ語: Repiblik d Ayitiフランス語: République d'Haïti英語: Republic of Haiti[2]は、中央アメリカ西インド諸島に含まれるカリブ海大アンティル諸島イスパニョーラ島に位置し、キューバジャマイカの東、バハマタークス・カイコス諸島の南に位置する国である。島の西部8分の3を占め、ドミニカ共和国と共有している[3] [4]。南西部には、ハイチが領有権を主張する小島ナヴァッサ島があるが、米国連邦政府の管理下にあるテリトリーであることが争いとなっている[5] [6]

ハイチの面積は27,750平方キロメートルで、カリブ海で3番目に大きな国であり、推定人口は1,140万人で、カリブ海で最も人口の多い国である。

概要編集

ハイチは、国連米州機構(OAS)[7]カリブ諸国連合[8]、及びフランコフォニー国際機関の創設メンバーである。カリブ共同体に加え、国際通貨基金[9]世界貿易機関[10]およびラテンアメリカ・カリブ諸国共同体にも加盟している。歴史的に貧しく、政治的にも不安定なハイチは、人間開発指数がアメリカ大陸で最も低い国である。21世紀に入ってからは、国連の介入を招いたクーデターや、25万人以上の死者を出した大地震などに見舞われた。

国名編集

正式名称は、ハイチ語Repiblik d Ayiti(レピブリク・ダイチ)、標準フランス語République d'Haïti (レピュブリク・ダイティ)。通称、Haïtiアイティ)。

公式の英語表記はRepublic of Haiti(リパブリク オヴ ヘイティ)。通称、Haiti(ヘイティ)。

日本語の表記は、ハイチ共和国[11]。通称はハイチ漢字表記海地。なお、「ハイチ」とは“Haiti”の訓令式ローマ字読みであり、現地では通用しない。

「ハイチ(アイティ)」とは、先住民族の一部族であるアラワク系タイノ人の言葉で「山ばかりの土地」を意味する言葉に由来し、独立に際してそれまでのフランス語名「サン=ドマング」から改名された。

歴史編集

この島にはもともと、南米を起源とする先住民族タイノ族が住んでいた[12]。最初のヨーロッパ人は、1492年12月5日、クリストファー・コロンブスの第一回目の航海中に到着した。コロンブスは当初、インド中国を発見したと考えていた。コロンブスはその後、現在のハイチ北東部沿岸に、アメリカ大陸におけるヨーロッパ人初の入植地「ラ・ナビダッド」を建設した[13] [14] [15] [16]。この島はスペインが領有権を主張し、ラ・エスパニョーラと名付けられ、17世紀初頭までスペイン帝国の一部となった。しかし、フランスの主張と入植が相次ぎ、1697年に島の西部がフランスに割譲され、その後、サン=ドマングと呼ばれるようになった。フランス人は、アフリカから連れてきた大量の奴隷を使ってサトウキビ農園を作り、世界で最も豊かな植民地の一つとなった。

フランス革命(1789〜99年)のさなか、元奴隷でフランス軍初の黒人将軍であるトゥーサン・ルーヴェルチュールを中心に、奴隷と有色人種がハイチ革命(1791〜1804年)を起こした。12年にわたる戦いの末、ナポレオン・ボナパルト軍はルーヴェルチュールの後継者であるジャン=ジャック・デサリーヌ(後のジャック1世皇帝)に敗れ、1804年1月1日にハイチの主権を宣言した。これは、ラテンアメリカとカリブ海地域で最初の独立国家であり、アメリカ大陸で2番目の共和国であり、奴隷制度を廃止した最初の国であり、奴隷の反乱が成功して成立した歴史上唯一の国家である[17] [18]。初代大統領のアレクサンドル・ペション以外、ハイチの初代指導者はすべて元奴隷であった[19]。国が2つに分裂していた時期もあったが、ジャン・ピエール・ボワイエ大統領が国を統一した後、エスパニョール島全体をハイチの支配下に置こうとしたため、一連の長い戦争が起こり、1870年代にハイチがドミニカ共和国の独立を正式に認めたことで終結した。

ハイチの独立後の1世紀は、政治的に不安定で、国際社会から追放され、フランスに多額の借金をしていた。政治的な不安定さと外国の経済的な影響を受けて、1915年から1934年までアメリカがハイチを占領した。1957年、フランソワ・デュヴァリエが大統領に就任し、1986年までフランソワ及びその息子のジャン=クロード・デュヴァリエによる独裁的な支配が続いた。1986年以降、ハイチはより民主的な政治体制の確立を目指した。しかし、選挙の争奪戦や情勢不安から、2021年にジョブネル・モイーズ大統領が暗殺された[20]

政治編集

 
ポルトープランスにあった大統領宮殿(2010年の地震で倒壊)。

大統領は、全国民の選挙によって選ばれ、任期は5年。前々回の大統領選挙は、2000年11月26日に行われ、元大統領のジャン=ベルトラン・アリスティドが92%の票を獲得して、2001年2月7日から再度就任した。2004年4月のアリスティド追放後、再三延期された後に実施された2006年2月の大統領選挙で63歳の元大統領ルネ・ガルシア・プレヴァルが再び大統領に選ばれた。2015年10月に大統領選挙が行われるも、不正選挙に対する抗議デモにより2度延期されるなか、2016年2月7日にプレヴァルの後任のミシェル・マテリが任期終了で退任。エヴァンス・ポール首相の大統領代行、2月14日就任のジョスレルム・プリベール上院議長の暫定大統領を経て2017年2月に48歳のジョブネル・モイーズが大統領に就任したが、2021年7月7日に暗殺された

首相は、大統領の指名によるが、議会の承認が必要である。内閣の閣僚は、首相が大統領と協議して指名する。

議会は、両院制(二院制)であり、上院も下院も議員は、国民の選挙によって選出される。上院は、27議席、任期6年で、2年ごとに3分の1ずつ改選。下院は、83議席で、任期は4年。

ハイチの政治は1804年の独立以来混乱が続いている。FFP(平和基金会)による2020年時点の『失敗国家ランキング(脆弱状態グローバルデータ)』ではワースト13位であり、これは北朝鮮(ワースト30位)より上位である[21]ハイチ地震 (2010年)で大統領府、財務省、外務省が倒壊したため、政府機能は麻痺状態にある。

国際関係・外交編集

歴史的に関りが深いアメリカ合衆国やフランスのほかカナダとの関係を重視している。キューバとも1996年に国交を回復させた[11]キューバ革命で米国や親米諸国と対立関係にあった)。カリブ海世界や中南米の一国としてカリブ共同体(CARICOM)やラテンアメリカ・カリブ共同体(CELAC)に参加している。政情不安や災害による打撃が大きく、国際連合や米州機構(OAS)の支援を受けている[11]

日本との外交関係は、太平洋戦争後の1956年に再開された。在ドミニカ日本大使館による兼轄を経て[11]、2020年1月1日に在ハイチ日本大使館が開設される予定である[22]

ハイチは中華民国台湾)を承認している[11]

軍事編集

かつて7000人以上の兵力を要したハイチ軍は1995年のアリスティッド大統領復帰後に一度解体され、2015年末に規模を縮小して復活した(陸軍500人と予備兵50人)[11]。他に小規模な国家警察沿岸警備隊がある。

地理編集

 
ハイチの地図。

ハイチの地勢は、主として岩の多い山々からなっており、沿岸部にはわずかながら平野や谷間を流れる川がある。中央部から東部は、大きく隆起した台地になっている。最高峰はラ・セル山(2680m)で、ゴナーブ島トルチュ島ヴァシュ島グランド・チェミット島などの島々も含む。最も大きな都市は、200万人が住む首都のポルトープランスで、2番目は60万人のカパイシャンである。長年にわたる乱伐で山は禿山だらけになっており、衛星写真でイスパニョーラ島を見ると、東側のドミニカ共和国と比べて、西側のハイチの緑が少ない事が分かるほどである。そのために土地の保水力がなく、ハリケーンが通過すると洪水となって大きな被害をもたらす。

北部地域はマッシフ・デュ・ノール(北部山地)とプレイヌ・デュ・ノール(北部平野)から成る。マッシフ・デュ・ノールはドミニカ共和国の中央山脈の延伸である。ハイチの東部国境の始まりとなり、ギュヤムー川の北と、北部半島を通して北東に延長している。プレイヌ・デュ・ノールの低地はマッシフ・デュ・ノールと北大西洋の間のドミニカ共和国との北部国境に横たわる。中央地域は二つの平野と二つの山脈からなる。プラトー・セントラル(中央高原)はマッシフ・デュ・ノールの南のギュヤムー川の両側に沿って南東から北西に延伸している。プラトー・セントラルの南東はノワール山地となり、北西部はマッシフ・デュ・ノールに溶け込んでいる。

南部はプレイヌ・デュ・クル=ド=サク(南東部)と南部半島(チビュロン半島として知られる)の山々からなる。プレイヌ・デュ・クル=ド=サクは自然沈下によりトルー・カイマンやハイチ最大の湖であるラク・アズエイといった塩湖を抱えている。南部山脈はドミニカ共和国最南端のシエラ・デ・バオルコに始まり、ハイチのセル山地とオット山地になりハイチ南部の細長い半島を形成する。この山地にあるラ・セル山がハイチの最高峰(2,680m)になる。

地方行政区分編集

 
ハイチの県。

ハイチの地方行政区分の最上位にあるのは、10の県 (depatmen) である。ハイチでは地方自治権は与えられておらず、県は中央政策の執行機関としての役割を果たす。2003年以降の県名と県庁所在地は、以下の通り。

  1. アルティボニット県 - ゴナイーヴ
  2. 中央県 - アンシュ
  3. グランダンス県 - ジェレミー
  4. ニップ県 - ミラゴアーヌ
  5. 北県 - カパイシャン
  6. 北東県 - フォールリベルテ
  7. 北西県 - ポールドペ
  8. 西県 - ポルトープランス
  9. 南東県 - ジャクメル
  10. 南県 - レカイ(オカイ)

主要都市編集

主要な都市はポルトープランス(首都)、カルフールがある。

経済編集

国際通貨基金(IMF)の推計によると、2013年のハイチの国内総生産(GDP)は84億ドルである。一人当たりのGDPは820ドルであり、これは世界平均の10%未満、アメリカ州の全国家の中で最も低い数値である[1]

植民地時代は世界で最も豊かで生産的な地域とも呼ばれていたが[23]、現在では西半球でも最も貧しい国と言われており、国民の80%は劣悪な貧困状態に置かれている。また国民の70%近くが、自給のための小規模な農場に依存しており、経済活動人口の3分の2が農業に従事しているが、規模が零細である上に灌漑設備等の農業インフラが不十分で天水に依存した伝統的農法に頼っており、過耕作による土地の荒廃なども影響して、生産性は極めて低く、食料自給率は45%、の自給率は30%未満である。そのため、恒常的に食糧不足で、食料需要の大半を海外からの輸入と援助に大きく依存しているが、人口の約半数に相当する380万人は慢性的に栄養失調状態にある。

フランソワ・デュヴァリエによる独裁時代は、国際的にも孤立していたため、食糧の自給は最重要課題であり、政府の手厚い保護政策によって、食糧自給率は80%、米の自給率は100%を誇ったが、民主化後はアメリカの米が多量にハイチにも入るようになり、米価は暴落。安価で安定的な食事が得られるようになった一方で、量でも質でも太刀打ち出来ないハイチの農家は次々耕作を放棄し、都市へ仕事を求めるようになり、食料自給率は急落した。仕事にあぶれた農民が都市部へと流れたことで失業率は急増し、皮肉にもさらなる貧富の格差を生み出すことになった。

こうした中、2007年3月、9月の豪雨、8月、10月、12月の熱帯性暴風雨等の自然災害により、全国で約4万世帯が被災し、同国穀倉地帯も甚大な被害を受けたため、国連による緊急アピールが複数回出された。自然災害による食糧不足のため国内生産物の価格が上昇したが、ほぼ同時期に穀物の国際価格も高騰した。こうした食糧価格の高騰による影響は市民の抗議行動、暴動へとエスカレートし、首相が解任される事態までに発展した。加えて、2010年1月に発生した大地震も、ただでさえ貧弱な経済に大きな打撃を与えることになった。

1996年に就任したプレヴァル大統領以来、若干の雇用が創出されたが、効果は上がっていない。国際的な支援を十分に得られないでいるため、必要とする開発支援を確保できない状態にある。主な外貨収入はコーヒー豆の輸出と在外ハイチ人からの送金、さらに国際援助ぐらいである。

交通編集

国民編集

 
FAOによる1961年から2003年までのハイチの人口増加グラフ。

ハイチの平均人口密度は362人/km2であるが、実際は都市部、沿岸の平野部、山間部に極度に集中している。

民族編集

ハイチ人の約95%がアフリカ系であり、残りのほとんどはムラート(白人とアフリカ人の混血)である。エリートであるムラートとその他の黒人との間の経済的、文化的、社会的格差が著しい。その他に、数は少ないが独立後に中東から移民したアラブ系ハイチ人が存在する。

植民地時代にアフリカからハイチに連行された人々のルーツは、セネガンビア(現在のセネガルガンビア)のウォロフ人バンバラ人フルベ人マンディンゴ人などイスラーム教を奉ずる人々や、黄金海岸(現在のガーナ)のファンティ人英語版奴隷海岸(現在のナイジェリアベナン)のフォン人イボ人ヨルバ人、さらにはコンゴアンゴラの人々など非常に多岐に渡るものであったが、ハイチの黒人文化の主流となったのは、ダホメ王国(現ベナン)出身のフォン人の文化であり、ヴードゥー教祖先信仰などダホメの文化がハイチでヘゲモニーを握ることとなった。アフリカの各地にルーツを持ち、対立していた奴隷たちは、ダホメのヴードゥーによって結束を達成した[24]

また、貧困から抜け出すために海外への移民・難民も少なくなく、アメリカ合衆国のマイアミニューヨークハイチ系アメリカ人)、カナダモントリオールハイチ系カナダ人)、フランスの首都パリバハマ、ドミニカ共和国には大きなハイチ人の移民コミュニティがある。

言語編集

公用語ハイチ語クレオール言語)とフランス語。フランス語系のクレオール言語であるハイチ語は1987年に公用語として認められた。ほとんどのハイチ人はハイチ語を日常的に使うが、公的機関やビジネス、教育では標準フランス語が使用される。

婚姻編集

宗教編集

国民の約95%がキリスト教徒であり、宗教の主流は国教ともなっているカトリックで、国民の約80%が信仰している。カトリックの他にはペンテコステ派バプティストなどのプロテスタントや、少数ながら正教も信仰されている。多くのハイチ人はカトリックの信仰と並行して、アフリカ系のベナンにルーツを持つ宗教であるブードゥー教の慣習も行っている。ブードゥー教にはブラジルカンドンブレ、キューバのサンテリアなどとの近似が認められる。

教育編集

6歳から11歳までの初等教育が無償の義務教育とされているが、2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率はアメリカ大陸で最も低い52.9%である[25]

主な高等教育機関としてはハイチ大学(1920年)が挙げられる。

保健編集

治安編集

同国の治安は現在、悪化の一途を辿っている。2010年1月の震災後、ハイチ国家警察(PNH)は治安維持の強化に重点を置き、スラム街を中心としたギャング等に対する掃討作戦や取締りを行なっているものの、ギャング等の反抗により警察官だけでなく一般市民も巻き添えになる事案が頻発している。発生する凶悪犯罪の中で特に注意を要する種別は強盗殺人誘拐であり、強盗については拳銃の使用率が極めて高く、外国人富裕層ばかりでなく一般のハイチ人もターゲットとなっていて最も危険性が高い。殺人は「貧富の差」による嫉妬、物を「盗った」「盗られた」といった諍いを端緒とする極めて短絡的な動機によるケースが多い。誘拐については、2010年1月の震災以降、PNHの取組等により発生件数自体は減少傾向にあったが、2020年は前年と比べ約2倍の発生件数となっており、また外国人を対象とした誘拐事件や、制服を着用して警察官を装う者による誘拐事件も発生していることから、引き続き注意が必要とされている[26]

人権編集

文化編集

独立後のハイチでは、フランスの文化に一体化しようとする都市のムラート層と、アフリカやインディオのクレオール的な文化を持った農村の黒人層の文化が相対立しており、エリートのムラート層は農村のアフリカ的文化に価値を見出さなかった。しかし、1920年代のアメリカ軍政期に、占領に対する抵抗のためにナショナリズムが称揚される動きの中で、特に詩人ジャン・プライス=マルスによってアフリカ的な民衆文化の再評価がなされ、やがてこの運動はアフリカ的文化を見直すノワリズム(黒人主義)に繋がり、1930年代から1940年代のマルチニークエメ・セゼールセネガルレオポルド・セダール・サンゴールらによるネグリチュード運動の源流の一つともなった。

食文化編集

 
ポール・アン・ソス(Poul an sòs)
ハイチの伝統料理の一つで、鶏肉を使った料理である。

ハイチ料理はアフリカ料理を基盤にフランスとタイノ人の影響を受けており、スペイン料理の影響も受けている。そのためキャッサバヤムイモトウモロコシを多用する。また、カリブ海諸国の例に漏れずラム酒も広く飲まれている。

文学編集

19世紀末から20世紀初頭にかけて一群の知識人達が国民小説と呼ばれる文学を創始した。「国民小説」は、フランス文化を身に付けたハイチ知識人によって担われたため、フランス文化的な背景を持たない農村部の住民の文化とは隔絶していたが、人種主義が猛威を奮っていた時代において、黒人知識人によって担われる文学はそれだけで人種主義への抵抗や、国威発揚を果たした[27]。その後アメリカ軍占領期に『おじさんはこう語った』(1929年)を著したジャン・プライス=マルスフランス語版によってアフリカ的なハイチ農村文化とヴードゥー教の価値の再評価がなされた。『おじさんはこう語った』はフランス文化を自らの文化としていたハイチの知識人に深刻な衝撃を与え[27]、まもなく『朝露の統治者たち』(1940年)のジャック・ルーマンや、『奏でる木々』(1957年)のジャック=ステファン・アレクシスによって、アンディジェニスム(原住民主義)に基づいた「農民小説」と呼ばれる潮流が生まれた[27]

その後、デュヴァリエ政権がノワリスム(黒人主義)を黒人至上主義の人種主義に換骨奪胎してしまい、独裁政権のイデオロギー的背景としてしまったことはハイチの知識人に大きな挫折をもたらした[27]。以降ハイチ文学は亡命者や国外居住者によって担われるものが主流となり、現代ハイチ文学の特に著名な作家としてはフランケチエンヌエミール・オリヴィエエドウィージ・ダンティカなどの名が特に挙げられる。

音楽編集

 
フージーズワイクリフ・ジョン。フージーズがアメリカ合衆国と世界市場で成功を収めた後、ハイチの移動大使として混乱が続く母国の発展に努めている。

ハイチは国民所得や識字率が低いこともあり、音楽が重要な娯楽とメディアの役割を果たしている。主な音楽のジャンルとしては、メレング、ヴードゥー音楽、ララコンパヒップ・ホップミジック・ラシーンなどの名が挙げられる。

19世紀の半ばごろにフランス人のコントレダンスとアフリカのコンゴ地方の黒人の舞踊が発達し、メレングと呼ばれるダンス音楽となった。メレングではバンジョーマリンブラなどの楽器が使用される。

ハイチ特有の音楽ジャンルの中で最も有名なものはドミニカ共和国のメレンゲの影響を受け、ハイチ風に解釈したコンパen:Compas music)であり[28]、隣のキューバ音楽と同様に華やかな音楽とダンスのジャンルだが、これもまたアメリカ合衆国のジャズと関係を持っている。コンパは1957年にヌムール・ジャン=バティストウェベール・シコによって始められ、1970年代から1980年代に最盛期を迎えた。コンパはしばしばアフリカの太鼓モダンギターシンセサウンドサクソフォーンハイチ語で歌われる歌詞を使う。ハイチのコンパのバンドには合衆国とヨーロッパのハイチ人コミュニティを通して世界的に有名なものも存在し、ミニ・オールスターズタブー・コンボT-Viceカリミマス・コンパなどがその例である。

1980年代後半からヴードゥー教やララといった伝統音楽を基盤に、ジャズやアフリカ音楽を取り入れて現代的なポピュラー音楽に再生したミジック・ラシーンen:Rasin,ハイチ語で「根源の音楽」の意)運動が盛んになり、ブックマン・エクスペリアンスen:Boukman Eksperyans)やブッカン・ギネなどがアメリカ合衆国市場でも一定の成功を収めた。

ハイチで生まれ、9歳でアメリカ合衆国のニューヨークに渡ったワイクリフ・ジョンが主体となって結成されたフージーズは同国市場で大成功を収め、2007年にジーンはハイチの移動大使に任命された。ワイクリフ・ジョンの他にも、アメリカ合衆国やカナダやフランスに移住して創作活動を続けるミュージシャンも多く、カナダ在住のエメリーヌ・ミッシェルメリッサ・ラヴォーなどの名を挙げることができる。

芸術編集

 
ヴードゥーのドラポー(フランス語で旗の意味)。ジョージ・ヴァルリスによるもの。

ハイチの芸術絵画に特化した面を持ち合わせている。アンドレ・マルローがハイチ絵画を絶賛したように、20世紀においてハイチの絵画は、第一次世界大戦でヨーロッパが没落した後の、新たに創造的な美術であるとみなされてきた。絵画のジャンルにはハイチの日常生活を描くもの(生活描写派)、ヴードゥー教の儀式を描くもの(ヴードゥー派)、ハイチの歴史を描くもの(歴史画派)などが存在し、独特の色遣いと表現形式により、ハイチ絵画は世界的に高い評価を受けている。

1943年にハイチを訪れたアメリカ合衆国出身のデウィット・ピータースは、英語教育の傍らハイチ美術の支援に努め、ハイチにサントル・ダール(アート・センター)を設立した。ピータースとサントル・ダールの活動により、それまで注意を払われなかったハイチの美術に焦点が当たり、ペティオン・サヴァンエクトール・イッポリトフィロメ・オバンリゴー・ブノワカステラ・バジルなど、ハイチの名だたる画家たちの個展が国外で開かれるようになり、ハイチ美術全体の活性化に大きく寄与することとなった。サントル・ダール周辺で活躍した人々はヘイシャン・アートの第一世代を築いた。

世界遺産編集

同国の世界遺産には、ユネスコ文化遺産に登録された、シタデル、サン=スーシ城、ラミエール国立歴史公園の1件が存在する。

祝祭日編集

日付 日本語表記 フランス語表記 備考
1月1日 独立記念日 Jour de l'indépendance
1月2日 Jour des Aïeux
2月7日 Investiture du Président élu
5月1日 メーデー Jour de l'Agriculture et du Travail
5月18日 Fête du Drapeau et de l'Université
6月27日 Notre Dame du Perpétuel Secours, patronne d'Haïti
8月15日 聖母被昇天祭 Notre Dame de l'Assomption
10月17日 ジャン=ジャック・デサリーヌ記念日 Mémoire de Jean-Jacques Dessalines, père de la Nation
11月1日 諸聖人の日 Tous les Saints
11月2日 死者の日 Commémoration des Fidèles défunts
12月25日 クリスマス Nativité de Jésus-Christ

スポーツ編集

ハイチで最も盛んなスポーツは球技であり、特に一番となるものはバスケットボールで今もその人気が高い。

それに次ぐ形でサッカーが有名となっており、何百もの小規模サッカークラブが地元で競い合っている。

オリンピックでは、1900年夏季五輪で初参加を果たしており、同開催地での1924年夏季五輪には射撃競技で3位を獲得している。また、1928年から数回オリンピックに参加しているが、1928年夏季五輪でのシルヴィオ・カトールによる銀メダル獲得以降、他のメダルは獲得に至っていない。なお、同国は冬季オリンピック未出場国となっている。

20世紀初頭には闘鶏も人気のあるスポーツであるとの報告がされていたが、報告後から衰退の一途を辿っている[29]

著名な出身者編集

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). 2014年10月26日閲覧。
  2. ^ Konstitisyon Repiblik Ayiti 1987”. Ufdc.ufl.edu. 2013年7月24日閲覧。
  3. ^ Dardik, Alan, ed (2016). Vascular Surgery: A Global Perspective. Springer. p. 341. ISBN 978-3-319-33745-6. https://books.google.com/books?id=de9NDQAAQBAJ 2017年5月8日閲覧。 
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  5. ^ CIA World Factbook – Haiti”. 2019年9月3日閲覧。
  6. ^ "Haiti", Encyclopædia Britannica.
  7. ^ OAS (2009年8月1日). “OAS – Member State: Haiti”. www.oas.org. OAS – Organization of American States: Democracy for peace, security, and development. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  8. ^ Press: “Association of Caribbean States (1994–2014)”. p. 46 (2014年). 2016年4月25日閲覧。
  9. ^ International Monetary Fund: List of Members”. www.imf.org. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
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  11. ^ a b c d e f ハイチ共和国(Republic of Haiti)基礎データ 日本国外務省(2020年12月29日閲覧)
  12. ^ Lawler, Andrew (2020年12月23日). “Invaders nearly wiped out Caribbean's first people long before Spanish came, DNA reveals”. National Geographic. https://www.nationalgeographic.com/history/2020/12/invaders-nearly-wiped-out-caribbeans-first-people-long-before-spanish-came-dna-reveals/ 
  13. ^ Davies, Arthur (1953). “The Loss of the Santa Maria Christmas Day, 1492”. The American Historical Review: 854–865. doi:10.1086/ahr/58.4.854. 
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  18. ^ Matthewson, Tim (1996). “Jefferson and the Nonrecognition of Haiti”. Proceedings of the American Philosophical Society 140 (1): 22–48. ISSN 0003-049X. JSTOR 987274. 
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  20. ^ “ハイチ大統領暗殺 首相代行発表、私邸で襲撃”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2021年7月8日). https://www.asahi.com/articles/DA3S14966061.html 2021年9月15日閲覧。 
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  22. ^ 我が国在外公館等の新規開設 日本国外務省(2020年12月28日)2020年12月29日閲覧
  23. ^ McLellan, James May (2010). Colonialism and Science: Saint Domingue and the Old Regime (reprint ed.). University of Chicago Press. p. 63. ISBN 978-0-226-51467-3. Retrieved 2010-11-22. [...] French Saint Domingue at its height in the 1780s had become the single richest and most productive colony in the world.
  24. ^ ジョアン・マノエル・リマ・ミラ「ラテンアメリカにおけるアフリカ系文化」子安昭子/高木綾子訳『ラテンアメリカ人と社会』中川文雄/三田千代子編、新評論、1995年10月
  25. ^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ha.html 2009年3月30日閲覧
  26. ^ ハイチ安全対策基礎データ 海外安全ホームページ
  27. ^ a b c d 立花英裕「ハイチ文学の歴史的背景」『月光浴—ハイチ短篇集』国書刊行会 2003年
  28. ^ 佐藤文則『慟哭のハイチ 現代史と庶民の生活』凱風社 2007年 p.314
  29. ^ Kelsey, p. 120。

参考文献編集

学術書編集

文学・ジャーナリズム編集

関連項目編集

外部リンク編集