ジャン・ド・モンフォール

ジャン・ド・モンフォール (Jean (II) de Montfort[1]1294年頃 - 1345年9月26日)は、ブルターニュ公国の貴族。ブルターニュ公アルテュール2世と2度目の妃ヨランドの間に生まれ、母からモンフォール=ラモーリー伯爵位を継承した。ドルー家出身で、彼の子孫はモンフォール家として続いた。

ジャン・ド・モンフォール
Jean de Montfort
モンフォール=ラモーリー
Jean de Montfort (1294-1345) Philip VI of France.jpg
フィリップ6世に面会するジャン・ド・モンフォール

出生 1294年
Drapeau de la province de Bretagne (1532).svg ブルターニュ公国エンヌボン
死去 1345年9月26日
Drapeau de la province de Bretagne (1532).svg ブルターニュ公国エンヌボン
埋葬 Drapeau de la province de Bretagne (1532).svg ブルターニュ公国カンペルレ、ドミニコ会修道院
配偶者 ジャンヌ・ド・フランドル
子女 ジャン4世
ジャンヌ
家名 ドルー家
父親 ブルターニュ公アルテュール2世
母親 ヨランド・ド・ドルー
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生涯編集

1341年、異母兄であるジャン3世が男子をもうけないまま死去した。後継に名乗りをあげたのは異母弟であるジャン・ド・モンフォール、そしてジャン3世の同母弟の娘ジャンヌ・ド・パンティエーヴルとその夫シャルル・ド・ブロワであった。シャルル・ド・ブロワはフランス王フィリップ6世の甥であり、王はもちろん甥を支持し、シャルルもフィリップ6世に臣従の誓いをしていた。

2派に分かれて争う戦争は、ブルターニュ継承戦争と呼ばれ20年続いた。この衝突はまた、「2人のジャンヌの戦争」(guerre des deux Jeanne)とも呼ばれていた。ジャンヌ・ド・パンティエーヴルと、ジャン・ド・モンフォールの妻ジャンヌ・ド・フランドルの対立が表面化したからである。

リモージュに隠されていたジャン3世の宝物を首尾よく手中にしたジャン・ド・モンフォールは、支持者とともにナントを押さえ、1341年には少数のブルターニュ貴族たちから「公爵」であると認識されていた。公爵家の金庫を開け、彼はレンヌブレストオーレーカンペールサン=ブリユーディナンヴァンヌを攻略するために傭兵たちを雇った。シャルル・ド・ブロワはその後、1341年9月にコンフラン(現在のコンフラン=サントノリーヌ)での貴族裁判採決前に、王にモンフォールの召喚を訴えた。コンフランの決定で、ブルターニュ公は理論上はシャルル・ド・ブロワということになった。フィリップ6世は、リモージュ子爵領、フランス領内にあったモンフォール=ラモリー伯領を没収した。

1341年10月、シャルル・ド・ブロワとノルマンディー公ジャン2世(後のフランス王ジャン2世)は軍を集結させブルターニュへ侵攻した。その後、3週間におよぶ包囲戦の末彼らは1341年11月21日のナントを含む多数のを落とした。ジャン・ド・モンフォールは身柄を拘束され、パリルーヴル宮殿の獄につながれた。彼が不在の間、妻のジャンヌ・ド・フランドルが指揮をとって戦いを続行した。

1343年1月、教皇クレメンス6世を通じての休戦条約が平和をもたらし、ジャン・ド・モンフォールは自由になった。これは釈放ではなく、1345年3月に彼は逃亡したのである。イングランドエドワード3世が提供した増強部隊と戦うこととなり、カンペールの包囲戦のさなか病を得、エンヌボンにて1345年9月に死んだ。ジャン・ド・モンフォールはブルターニュ公になれなかったが、同名の息子が1365年にブルターニュ継承戦争を終結させ、ブルターニュ公ジャン4世となった。

子女編集

1329年、シャルトルにてジャンヌ・ド・フランドル(ヌヴェール伯ルイ1世の娘、フランドル伯ルイ1世の姉)と結婚。2子をもうけた。

  • ジャン4世(1339年 - 1399年)
  • ジャンヌ(1341年 - 1402年) - ドライトンのラルフ・バセットの妻

脚注編集

  1. ^ 一部の歴史家は彼をジャン4世の名で呼ぶ。
先代:
ジャン3世
ブルターニュ公
 
ジャンヌ・ド・パンティエーヴルシャルル・ド・ブロワと競合
1341年 - 1345年
次代:
ジャン4世