ジャン=ポール・マラー

ジャン=ポール・マラーフランス語: Jean-Paul Marat1743年5月24日 - 1793年7月13日)は、フランスの革命指導者、医師。

ジャン=ポール・マラー
ジャン=ポール・マラー
生年 1743年5月24日
生地 スイスの旗 スイス, ヌーシャテル
没年 (1793-07-13) 1793年7月13日(50歳没)
没地 フランス共和国, パリ
活動 フランス革命
所属 山岳派
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生涯

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革命まで

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1743年スイスヌーシャテルの中流家庭に6人兄弟の長男として生まれる。脆弱で勉強好きな少年だった。ヨーロッパ各地を遊学した後、ロンドンで開業医となる。1777年フランス王国に招聘され1783年まで王弟アルトワ伯(後のシャルル10世)のもとで働いた。その頃から反体制運動を始めている。

革命指導者としての活躍

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1789年フランス革命勃発後は、新聞『人民の友』を発行し過激な政府攻撃をして下層民から支持された。そのことがもとで1790年1月にグレートブリテン王国に亡命。4月に戻ってからコルドリエ・クラブ(Club des Cordeliers)に入り、8月10日のテュイルリー王宮襲撃事件や反革命派への九月虐殺を引き起こしたといわれている。1792年国民公会の議員に選出されて山岳派ジャコバン派)に所属した。議会を主導するジロンド派を攻撃し、一時、逮捕されたがすぐに釈放されパリ民衆を蜂起させて最終的に国民公会から追放した。

暗殺と死後

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マラーの死』(ジャック=ルイ・ダヴィッド画 )

この頃、持病の皮膚病が悪化。活動不能となり、自宅(現在のパリ6区エコール=ド=メドゥシーヌ通り (fr) 20番地)にこもって1日中入浴して療養していた。1793年7月13日午後6時、面会に来たジロンド派支持者のシャルロット・コルデーに左胸を短刀で一突きされて、暗殺された。遺体は防腐処置が施された後、15日にコルドリエ教会に運ばれた。そして高台に上半身を晒した状態で安置されて同日の午後6時まで一般公開され、見学者は暗殺の傷痕を間近で眺めることができた。その後、パリを一巡する葬列に運び出され、最後にコルドリエ教会の庭園の木立の中に埋葬された。墓穴は周囲を石で囲い、鉛の棺に遺体は収容され、3個の敷石と1つの圧し石で棺を挟む形で安置された。棺の脇には同じく防腐処理された心臓以外のマラーの臓物を納めたバター壺が置かれ、最期に土がかけられた。同年7月17日に暗殺実行犯のシャルロット・コルデーが処刑され、同月28日にはコルドリエ・クラブによって盛大な追悼式典が葬儀として改めて執り行われた。マラーの心臓は櫃の上に置かれ、籠に入れられたマラーの著作本全集と併せて行進させられた。リュクサンブール公園の広い並木道の中央には円柱形の祭壇が設けられ、マラーの胸像が乗せられた。午後10時に式典が終了すると、心臓はドーフィーヌ通りにあったコルドリエ・クラブに運ばれた[1]

暗殺後、現場で画家ジャック=ルイ・ダヴィッドが有名な『マラーの死』を描いている。ジャコバン派の盟友マクシミリアン・ロベスピエールによって神格化され、ジロンド派への弾圧強化の口実となった。遺体はコルドリエ教会の庭園から棺ごと掘り出され、1794年9月20日にチュイルリー宮の一室に安置され、「革命の殉教者」として翌日の9月21日に旋回橋、ロワイヤル通り、サン・トレノ通り、モネー通り、ポン・ヌフ、ドーフィーヌ通り、フォセ通り、サン・ミシェル通り、サン・チヤサント通りサン・ジャック通りを行列を成しながらパンテオンへ到着し、歌と音楽を流しながら埋葬室へ安置された。改葬の式典は、三色飾帯をつけた議員やサブロン練兵所の騎兵や歩兵の生徒など総勢3500人が参加する大規模なものだった[2]。しかしテルミドールのクーデター後の1795年2月8日、国民公会は市民に対するパンテオン納骨の特典を剝奪し、死後10年を経過しない人物の胸像を、公会内部や公的な場所へ設置することを認めない法令を布告した。これによりマラーの胸像は全て撤去された上で破壊され、遺体も法令布告の翌日にパンテオンから取り除かれて別の墓地へ埋葬された。またカルーゼル広場やシャンゼリゼの芝地にあった霊廟も取り壊され、マラーの名を冠したコルドリエ派の地区も「テアトル フランセ区」と改名された[3]

その他

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暴力的主張をする新聞を発行していたことで、フランス第二帝政期には非道な人物といわれ、現在でも革命家か血に飢えた狼かというように評価が分かれている。

また、化学者アントワーヌ・ラヴォアジエの処刑は、マラーの私怨[4]によるものだとも言われている。しかし、ラヴォアジェの処刑はマラー暗殺の翌年の5月8日に行われており、マラ―の私怨によるラヴォアジェの死刑執行をロベスピエールに提言したとするなら史実と矛盾している為、真相は定かではない。

脚注

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  1. ^ セレスタン・ギタール著レイモン・オベール編 河盛好蔵監訳『フランス革命下の一市民の日記』中央公論社、昭和55年2月15日、pp.154-155
  2. ^ セレスタン・ギタール著レイモン・オベール編 河盛好蔵監訳『フランス革命下の一市民の日記』中央公論社、昭和55年2月15日、pp.258-259
  3. ^ セレスタン・ギタール著レイモン・オベール編 河盛好蔵監訳『フランス革命下の一市民の日記』中央公論社、昭和55年2月15日、p.278.
  4. ^ 革命前に、ラヴォアジエは当時、化学者であったマラーの論文審査を学会から依頼され行ったが、その論文が実験もせず臆測の内容であったため、承認しなかった。その逆恨みで処刑を行ったとされている。[要出典]

関連項目

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外部リンク

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