スポメニック

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ユーゴスラビア人民解放戦争記念碑セルビア・クロアチア語: Spomenici Narodnooslobodilačke borbe、Споменици Народноослободилачке борбе)は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国によって1950年代から1980年代初頭までに当時のユーゴスラビア全土の様々な場所に建設された第二次世界大戦モニュメント戦争記念施設)もしくは慰霊碑の総称である。国外では通称のスポメニックセルビア・クロアチア語: Spomenik、「記念碑」の意)の名で知られる。

クロアチアポドガリッチ(Podgarić)にあるスポメニック

1980年代初頭までににユーゴスラビア全土に数万ものスポメニックが建設されたが、その多くが1990年代のユーゴスラビア紛争やその後のヴァンダリズムなどで悉く破壊され、建設時の形状を保ったまま現存しているものは全体の1%未満と考えられている。

概要

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スポメニック建設の目的は、第二次世界大戦時に発生したナチス・ドイツや傀儡政権のウスタシャによって引き起こされた大量虐殺民族浄化の犠牲となった市民を弔い、ファシズムに対し勇敢に戦い勝利したパルチザンの兵士を讃え、革命の成就と恒久的なユーゴスラビアの平和と団結を祈念する愛国的シンボルを創ることであった[1]。他国の戦争記念碑や慰霊碑とは一線を画した、シュルレアリズムを彷彿とさせる極めて抽象的かつ未来的なフォルムを持つものが多く見られ、スポメニック最大の特徴となっている。

一口にスポメニックと言ってもそのデザインや大きさは様々であり、戦士の銅像のような伝統的な姿のものもあれば、戦闘を表す衝撃波や突撃する兵士たちの残像の形に可視化した斬新なものもある。大きさも冷蔵庫程度のものから15階建ての高層ビル並みに巨大なものまであり、そうした巨大なスポメニックは展望台や戦争博物館無名戦士の墓としての機能を持たせている例も存在する[1]

スポメニックの材質は主に鉄筋コンクリートだが、アルミニウムステンレス鋼などの金属で出来たものも存在する。金属製のスポメニックは経年劣化による損傷が早い傾向にあり、ペドロヴァ・ゴーラゲヴゲリヤのようにほとんどの骨組みだけが残っているスポメニックもある。

歴史

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計画と建設

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スロベニア, Dražgošeのスポメニックを視察するヨシップ・ブロズ・チトー大統領(1977年)

ユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトー大統領は、第二次世界大戦中のナチス・ドイツ占領下で発生した残忍な大量虐殺の犠牲者を記憶し、尚且つチトー率いるパルチザンの活躍とファシストに対する正義の勝利を讃える記念碑を全国に建設するよう指示を出した。これは社会主義の原則によって統治される階級や民族主義による差別の無い、まさにユーゴスラビアのスローガンである『兄弟愛と統一』を体現したユートピア的統一国家の建設という大統領の野心的な計画の一部であった。

記念碑のデザインは当初はソ連社会主義リアリズムに基づいた伝統的なデザインのものが中心だったが、ユーゴスラビアのコミンフォルムからの追放などでソ連との対立が鮮明になると方向転換し、アメリカを始めとした西側諸国の芸術運動を積極的に取り入れ始め、ここから抽象表現主義ミニマリズムに基づいた造形スタイルが中心になっていった。

これは表現に厳格な制限のある、芸術というより政治的プロパガンダとしての側面が強かった社会主義リアリズムよりも、今までに無い斬新かつ自由な表現方法を持つ抽象表現主義の方が民族間の融和によるユートピア的未来の実現を掲げるチトー主義のコンセプトとの親和性が高かった為でもあった[2]

デザイナーもドゥシャン・ジャモニャヴォイン・バキッチ(Vojin Bakić)、ミオドラグ・ジヴコヴィッチ(Miodrag Živković)などの彫刻家ボグダン・ボグダノヴィッチ(Bogdan Bogdanović)などの建築家が多数参加し、戦争記念碑としては極めて独特な形状をした記念碑が次々と建てられていった。

その数は1960年代までに小型のものから巨大なものまで約14,000ほど建てられたとされ[3]、ユーゴスラビア崩壊の1990年頃までには40,000を超えていたとする文献もある[1]。これは他のヨーロッパ諸国の中でも際立って多く、スポメニックがいかに大規模な国家プロジェクトだったのかが垣間見える。中でも数十あるとされる巨大なスポメニックの周りには自然公園や戦争の悲惨さを伝える博物館や資料館、戦没者の墓地などが整備され、1970年代には多くの観光客が訪れる人気スポットとなっていった。

紛争による破壊

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ボスニア・ヘルツェゴビナMakljenにあるスポメニックの残骸。2000年に何者かが内部に仕掛けた爆発物が炸裂、原型を留めないほど損壊した。

しかし1980年のチトー死去後、厳しく抑圧されてきた民族主義が再び台頭し始め、国内政情が不安定になるなどして(民族融和と団結の象徴になっている)スポメニックの存在意義が段々と薄れていき、1985年を最後に新規の建設は行われなくなった。

1980年代後半のユーゴスラビアはハイパーインフレーションによる経済の著しい悪化や、戦時中にパルチザンが起こした虐殺の数々ゴリ・オトク刑務所に代表される政府による残忍な民族主義者への粛清が公になるなどして、国民の愛国心が薄れるばかりかユーゴスラビアへの不満や反発があちこちで噴出する事態に陥っていた。それに伴い国民のスポメニックに対する意識も「民族のアイデンティティを抑圧してきた社会主義がもたらした負の遺産」というものに変化していった。特にセルビア人の民族主義者はスポメニックの抽象的な形状に昔から異議を唱え続けており、ヤセノヴァツの花を模ったスポメニックに対しては「ファシストやウスタシャがセルビア人に対して起こした収容所での蛮行を直接的に表現せず、現実を暈し、犠牲者を侮辱している」と批判する声もあった[4]

そして1990年代にユーゴスラビア紛争が勃発すると、戦闘による攻撃の標的にされる、住民の移動や都市の荒廃によって廃墟と化す、資材捻出のために解体されるなどして多くのスポメニックが著しく損傷するか完全に破壊され、戦後も急進的な民族主義者や反共主義者らによる破壊・落書きなどのヴァンダリズムが立て続けに発生した。これらの破壊活動によってかつて数万とも言われたスポメニックの数はおよそ数百程度にまで数を減らし、一部では建設時の記録すら散逸してしまったものも存在する。

現在

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建設されたスポメニックの多くは(山奥などの)都市から離れた場所に建設されていることが多く、そもそものアクセスの悪さや紛争に伴う人口減、スポメニックに関する情報の散逸、前述のような政治的事情などから現在でもほとんどが荒廃したままで保存に向けた動きも目処が立っていないのが実情である。

だが近年に入り、スポメニックの特徴的な形状がインターネットで話題に上るなどして国内外からの関心を集めるようになった。知名度の向上に合わせてスポメニックに対する研究が諸外国から行われるようになり、スポメニック巡りを目的とした観光客も増えてきている。国内でもユーゴノスタルギヤなどからスポメニックが持つ本来の意味の再評価が行われており、スポメニックやその跡地でかつて祀られた戦没者を弔うセレモニーや様々な催し物を開催したり、地域再興の目玉として比較的損傷の少ないスポメニックやその観光ルートを整備する動きも少しづつだが広がっている。

また、ユーゴスラビア紛争の犠牲者を弔う新たなスポメニックの建設も行われており、有名なものとしては1991年8月9日にフルヴァツカ・コスタイニツァ近郊でセルビア人スナイパーに殺害された写真家ゴーダン・レデラー英語版氏を追悼する為に2015年に彼の殺害現場に建設された割れたカメラのレンズを模ったスポメニックがある[5]

スポメニックの研究で著名なものとしてドナルド・ニービルが数年間にわたるスポメニックの研究をまとめて2018年8月に出版した書籍「Spomenik Monument Database」がある。

ギャラリー

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ボスニア・ヘルツェゴビナ

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クロアチア

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北マケドニア

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セルビア・コソボ

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脚注

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  1. ^ a b c What Are Spomeniks?” (英語). spomenikdatabase. 2024年6月24日閲覧。
  2. ^ Spomenik Database | The Bizarre Shapes of the Spomenik” (英語). spomenikdatabase. 2024年6月25日閲覧。
  3. ^ Stevanovic, Nina (2017-01-01). “Architectural heritage of Yugoslav-socialist character: ideology, memory and identity”. PhD Dissertation. https://www.academia.edu/38298497/Architectural_Heritage_of_Yugoslav_Socialist_Character_Ideology_Memory_and_Identity. 
  4. ^ Spomenik Database | Why Many Spomenik are Destroyed and Abandoned” (英語). spomenikdatabase. 2024年6月25日閲覧。
  5. ^ Edittio. “Broken Landscape - Gordan Lederer Memorial” (英語). EUmies Awards. 2024年7月26日閲覧。

外部リンク

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Spomenik Database (英語)