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ヨシップ・ブロズ・チトー

ヨシップ・ブロズ・チトー、またはヨシップ・ブロズ・ティトーセルビア・クロアチア語: Sr-JosipBrozTito.ogg Josip Broz Tito / Јосип Броз Тито[ヘルプ/ファイル]1892年5月7日 - 1980年5月4日)は、第二次世界大戦からその死まで、最もユーゴスラビアに影響を与えた政治家であり、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国大統領ユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者である。「ティトー元帥」という呼び名でも知られている。

ヨシップ・ブロズ・チトー
Josip Broz Tito
Јосип Броз Тито
Josip Broz Tito uniform portrait.jpg
軍服を着たチトー(1961年)
生年月日 1892年5月7日
出生地 Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国
クロアチア=スラヴォニア王国の国旗 クロアチア=スラヴォニア王国
ザゴリェ地方 クムロヴェツ
没年月日 (1980-05-04) 1980年5月4日(87歳没)
死没地 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア
スロベニア社会主義共和国の旗 スロベニア社会主義共和国
リュブリャナ
出身校 小学校卒業
前職 軍人
所属政党 ユーゴスラビア共産党ユーゴスラビア共産主義者同盟
称号 ユーゴスラビア元帥
レーニン勲章
朝鮮民主主義人民共和国英雄
配偶者 ヨワンカ・ブローズen:Jovanka Broz
サイン Tito signature.svg

在任期間 1953年1月13日 - 1980年5月4日

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
初代首相
内閣 チトー内閣
在任期間 1943年11月9日 - 1963年6月29日
国民議会幹部会議長英語版
大統領
イヴァン・リヴァル (1945-1953)
チトーが兼任 (1953-1963)

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
初代国防相
内閣 チトー内閣
在任期間 1945年11月29日 - 1953年1月13日
首相 チトーが兼任

パルチザンの旗 人民解放軍総司令官
在任期間 1941年 - 1945年
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本名はヨシップ・ブロズ。「チトーTito)」という名前は、「お前(Ti)があれ(to)をしろ」という横柄な文章から取られたもので、冗談のネタになることもあった。

略歴編集

生涯編集

生い立ち編集

チトーは、オーストリア=ハンガリー帝国の構成国・クロアチア=スラヴォニア王国の領内、今のクロアチアの北西部、ザゴリェ地方(Hrvatsko Zagorje)のクムロヴェツで生まれた。父親のフラニョはクロアチア人で、母親のマリヤはスロベニア人で、彼らの7番目の子供であった。少年時代を、ポドスレダにいる母方の曽祖父の所で過ごしたのち、クムロヴェツの小学校に入学し、1905年卒業している。

1907年、のどかな田舎から一転して、シサクの錠前屋の見習として働き出した。そこでチトーは労働運動に関心をもつようになり、初めてメーデー(5月1日、労働者の日)を祝った。1910年冶金工の労働組合に加入すると同時に、クロアチアとスラヴォニア社会民主党にも加わっている。1911年から1913年にかけて、オーストリア=ハンガリー帝国内を転々としながら働く。

従軍~ロシア革命との出会い編集

1913年から、徴兵により兵役に就いており、1914年5月には、軍の主催するブダペストフェンシング大会で準優勝し、銀メダルをもらっている。第一次世界大戦の勃発により、ヴォイヴォディナにあるルマ(現在はセルビア領)に送られた。チトーは、そこで反戦争的な宣伝を流布したことで逮捕され、ペトロヴァラディン要塞に収監された。1915年、再びロシアを攻撃するために、中央ヨーロッパのガリシア地方に送られた。ブコヴィナでは榴弾砲により重傷を負った。同年4月には、部隊全員がロシアの捕虜となった。

病院で数ヶ月療養したのち、1916年の秋、ウラル山脈にある労働収容所に送られた。1917年4月、チトーは戦争捕虜たちのデモを組織したとして逮捕された。後に脱走して、1917年7月16日から17日にかけて起きたサンクトペテルブルクでの反政府デモ(七月蜂起)に参加している。警察から逃れるため、フィンランドまで逃げたが、結局捕まり、ペトロパブロフスクの要塞に3週間閉じ込められた。クングールの労働収容所に入れられたのち、列車に乗った際に逃亡した。1917年11月、シベリアオムスク赤軍に参加した。1918年春には、ロシア共産党へ参加した。

党活動~第二次世界大戦編集

 
第二次世界大戦中のチトー(右)

1920年に帰国してユーゴスラビア共産党に参加。1928年に逮捕され、5年間投獄された。1934年以降コミンテルンで働き、1936年発生したスペイン内戦では、国際旅団の「ディミトロフ」大隊の指揮官の一人として従軍した。チトーの最初の妻はヘルタ・ハースで、第1子が1941年の5月に生まれている。

第二次世界大戦中の1943年12月、ドイツ軍によるユーゴスラビア占領下で、抵抗運動の指導者となったチトーは、民主的な臨時政府の設立を宣言した。この間、チトーの活動は連合国によって直接的に支援されており、1944年6月には、チトーのパルチザンを支援するために、バルカン半島で活動するイギリス空軍部隊が編成されている。しかし、チトーがスターリンに接近しようとすることに対して、司令部にいるイギリス軍アメリカ軍将校とたびたび険悪になった。戦争が終結すると、これらの軍隊は撤収し、パルチザンたちはユーゴスラビア全域の支配権を確立した。1946年1月31日、新しい憲法によって、6つの構成共和国が定められた。ユーゴスラビア連邦の初代首相にはチトーが選ばれ、国民議会幹部会議長国家元首に相当)にはイヴァン・リヴァル(Ivan Ribar)が選出された。

第二次世界大戦後編集

第二次世界大戦後はモスクワからの自立を意図し、それを恐れたスターリンは1948年ユーゴスラビア共産主義者同盟コミンフォルムから除名する。翌年にはソ連との友好相互援助条約も破棄された。

その後、ソ連からチトーを狙う暗殺団が度々送り込まれるもチトーは秘密警察暗殺団を全て検挙させた。逆にモスクワのスターリン宛に電報を送り「刺客を送る用意がある」と揺さぶり、ソ連による衛星国化を諦めさせた。

内政編集

チトーは1950年に「工場を労働者に」という演説を行い、「労働者にとってただ一つの(資本主義国との)違いは、ソ連では失業が無い、ただそれだけである」と発言する。その後、ソ連型社会主義と対峙して企業に対する労働者自主管理(経営概念はあるが、資本は労働者所有であり、経営者は労働者が求人する)と、各共和国の大幅な自治権を特徴とするユーゴ独自の自主管理社会主義を建設していった。そのカリスマによって各共和国・民族のバランスを取るべく独裁者というより仲裁者とも呼ぶべき調停者として振る舞い、憲法改正を繰り返すごとに各共和国や自治州の自治権を拡大するなどして連邦の維持に腐心した[1]。特に、純然社会主義体制でありながら与党の中に制限野党を作り、複数政党政治とは言えないものの、それに準じた制度を取り入れたことや、新聞などによる体制批判、即ち言論の自由をある程度許したことは特筆に値する。また、民族主義による排外思想家は、秘密警察による監視・摘発の対象になった。

チトー政権下のユーゴスラビアは国内の工業化や兄弟愛と統一道路などのインフラ整備を推し進めて年率6.1%の経済成長を達成し、識字率は91%まで向上して医療費はすべて無料であり、ソ連や他の東欧諸国と比べて自由な生活をおくれた[2][3][4]

1978年には日本札幌スウェーデンイェーテボリを押さえて社会主義国初の冬季オリンピックであるサラエボ五輪の誘致に成功した。

外交編集

共産圏でありながらソ連に追放されたことから第三世界に接近し、チトーは非同盟運動の初代議長となって、東側でも西側でもない非同盟陣営を確立した。さらにチトーは東西両陣営問わず様々な国と良好な関係を構築したため、日本を含む多数の国から勲章を受勲するなどの表彰を受けた(チトーの勲章一覧英語版)。政治学上、ユーゴスラビアは東側諸国とも西側諸国とも見なされておらず、東西冷戦で起きた朝鮮戦争の際も中立的であり、中国国連代表権問題で抗議するソ連の不在のなかアメリカ合衆国の主導した国際連合安全保障理事会決議82英語版国連軍の編成を要請した国際連合安全保障理事会決議84英語版国際連合安全保障理事会決議85英語版に反対せず、棄権した[5][6][7]

チトーはアメリカからマーシャル・プランも受け入れ[8]1953年にはギリシャトルコとの間で集団防衛を明記した軍事協定バルカン三国同盟英語版を結んで北大西洋条約機構(NATO)と事実上間接的な同盟国となる。社会主義国でありながら1950年代はアメリカの相互防衛援助法英語版の対象となってM47パットンM4中戦車M36ジャクソンM18駆逐戦車M3軽戦車M8装甲車M3装甲車M7自走砲M32 戦車回収車M25戦車運搬車GMC CCKWM3ハーフトラックM4トラクターデ・ハビランド モスキートP-47F-86F-84T-33など大量の西側の兵器を米英から供与され[9][10]、1960年代にはスターリン批判ニキータ・フルシチョフが指導者になったソ連と和解して東側の軍事支援も得た。その中立的な立場から国際連合緊急軍のような国際連合平和維持活動にも参加した[11]。こうしたチトーの政治思想はスターリン主義者によってチトー主義と呼ばれ、他の社会主義国においては反体制派粛清の口実にもされた。

1960年代には独自の宇宙ロケット開発も計画し、アメリカはNASAの公式な視察団を送るなど支援したが、国家財政がひっ迫したことから開発プログラム自体をアメリカに売却した。

死去編集

1980年1月20日、循環障害により壊疽を起こした左足を切断する手術を受けるも、その後も体調は思わしくなく、腎機能障害肺炎、胃腸内出血、肝機能障害などを起こし、5月4日にスロベニアのリュブリャナの病院で没した。

5月8日に行われたチトーの葬儀英語版には日本を含む多数の国からかつてない規模で東西陣営や非同盟陣営の世界各国の政府代表団が集まり(弔問外交)1989年の昭和天皇大喪の礼まで当時史上最大の国葬だった[12][13]。日本からは大平正芳首相も出席した。

死後編集

 
生家近くに建てられたチトーの銅像(2007年5月撮影)

このいびつに配置された多民族による社会主義連邦国家において、チトーの作り上げた体制は絶えず分裂の引き金となりながらも、チトー個人のカリスマと少数民族に配慮した政策によって、国内の民族主義者の活動が抑えられていた。それがユーゴスラビアを一つの統一国家に収斂させて秩序を安定させ、またアメリカともソ連とも距離を置いた独自の立場を確立していたが、チトーの死後、カリスマを失った体制は崩壊へ向かうことになる。

チトー死去後、後継者達はチトーのようなカリスマ性を発揮できず、インフレ失業率の上昇で経済も低迷し始め[14][15]、抑圧されていた民族主義、分裂主義、宗派主義が息を吹き返すことになる。冷戦崩壊後の1990年代には民族・宗教間の対立や混乱が激化し、一連のユーゴスラビア紛争が勃発。各共和国は独立し、2006年にはモンテネグロの独立により、連邦は完全に瓦解した。

2013年には、セルビア国立銀行の金庫よりチトーが緊急時に使えるようにしていた可能性がある、金貨約2700枚(金塊30キロ分に相当)や貴金属製品約250個、現金約2万6000USドルなどが発見されている[16]

脚注・注釈編集

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脚注編集

  1. ^ ユーゴスラビア憲法1946年の制定以来、1953年1963年1974年に改正された。
  2. ^ Lampe, John R.; Yugoslavia as History: Twice There Was a Country; Cambridge University Press, 2000 ISBN 0-521-77401-2
  3. ^ Ramet, Sabrina P.; The Three Yugoslavias: State-building and Legitimation, 1918–2005; Indiana University Press, 2006 ISBN 0-253-34656-8
  4. ^ Michel Chossudovsky, International Monetary Fund, World Bank; The Globalisation of Poverty: Impacts of IMF and World Bank Reforms; Zed Books, 2006; (University of California) ISBN 1-85649-401-2
  5. ^ Millett, Allan R. (2000), The Korean War, Volume 1, Lincoln, Nebraska: University of Nebraska Press, ISBN 978-0-8032-7794-6 p. 249
  6. ^ "Strength on Double Seven". Time Magazine. July 17, 1950.
  7. ^ Stueck, William (2008), "The United Nations, the Security Council, and the Korean War", in Lowe, Vaughan; Roberts, Adam; Welsh, Jennifer; Zaum, Dominik, The United Nations Security Council and War: The Evolution of Thought and Practice since 1945, Oxford University Press, p. 266, ISBN 978-0-19-953343-5
  8. ^ W. A. Brown & R. Opie, American Foreign Assistance, 1953
  9. ^ Sherman Register - Yugoslavia
  10. ^ Yugoslav Air Force Combat Aircraft: 1953 to 1979 – The Jet Age I (US & Soviet Aircraft)
  11. ^ United Nations Photo: Yugoslav General Visits UN Emergency Force
  12. ^ 平成2年 警察白書 第7章 公安の維持 1. 総力を挙げて取り組んだ大喪の礼警備 (5)過去最大の警備 日本国警察庁
  13. ^ Vidmar, Josip; Rajko Bobot; Miodrag Vartabedijan; Branibor Debeljaković; Živojin Janković; Ksenija Dolinar (1981). Josip Broz Tito – Ilustrirani življenjepis. Jugoslovenska revija. p. 166.
  14. ^ Labor Force 1992. CIA Factbook. 1992.
  15. ^ Inflation Rate % 1992. CIA Factbook. 1992.
  16. ^ 旧ユーゴ「チトー金庫」から金塊30キロ、宝石149個! 死後30年眠ったまま - MSN産経ニュース”. 2013年4月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年4月17日閲覧。

注釈編集

参考文献編集

  • ウラジーミル・デディエ(en)(高橋正雄訳)『チトーは語る』河出書房、1953年(新時代社、1970年)。
  • V.ヴィンテルハルテル(田中 一生訳)『チトー伝 ユーゴスラヴィア社会主義の道』 徳間書店、1972年。
  • (島田 浩訳)『ヨシプ・ブロズ・チトー 非同盟社会主義の歩み』恒文社、1974年。
  • 恒文社編『チトー 英雄の生涯 1892-1980』恒文社、1980年。
  • ズボンコ・シタウブリンゲル( 岡崎 慶興訳)『チトー・独自の道 スターリン主義との闘い』サイマル出版会、1980年。
  • 高橋正雄『チトーと語る』恒文社、1982年。

関連項目編集

外部リンク編集