ゾフィー・シャルロッテ・イン・バイエルン

バイエルン女公 (Herzogin in Bayern)

ゾフィー・シャルロッテ・イン・バイエルンドイツ語: Sophie Charlotte in Bayern, 1847年2月22日 - 1897年5月4日)はバイエルン女公で、オルレアン家のアランソン公爵フェルディナン・ドルレアンの妻。

ゾフィー・シャルロッテ
Sophie Charlotte
ヴィッテルスバッハ家
Sophie de Wittelsbach duchesse d'Alençon (1847-1897) - (A05).jpg
1886年

全名
称号 バイエルン女公
アランソン公爵夫人
出生 (1847-02-22) 1847年2月22日
バイエルン王国の旗 バイエルン王国ミュンヘン
死去 (1897-05-04) 1897年5月4日(50歳没)
フランスの旗 フランス共和国パリ
埋葬 フランスの旗 フランス共和国ドルー、サン=ルイ王室礼拝堂
配偶者 フェルディナン
子女 ルイーズ
エマニュエル
父親 マクシミリアン・ヨーゼフ
母親 ルドヴィカ
宗教 キリスト教カトリック
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フランス語名はソフィー=シャルロット・アン・バヴィエールSophie-Charlotte en Bavière)。

生涯編集

1847年2月22日、バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系のバイエルン公マクシミリアン・ヨーゼフとその妻である王女ルドヴィカの第9子五女としてミュンヘンで生まれた。洗礼名は、ゾフィー・シャルロッテ・アウグステ(Sophie Charlotte Auguste)。姉にオーストリア皇后エリーザベト両シチリア王妃マリーア・ソフィアがいる。

1867年1月に母方の従兄の息子であるバイエルン王ルートヴィヒ2世と婚約したが、王は結婚の日取りを何度も延期した後、結局10月に婚約は破棄された。

1868年9月、ゾフィーはフランス王ルイ・フィリップの次男ヌムール公ルイの息子アランソン公フェルディナンポッセンホーフェン城で結婚した。夫妻は1男1女をもうけた。

1897年5月4日、バザール・ド・ラ・シャリテで発生した火災に巻き込まれた。火災の発生後、自身が救助されることを拒んでバザーの手伝いをしていた少女たちを先に助けるように求めたという。その結果、彼女は136人の犠牲者の一人となった[1]。遺体は黒焦げになっていたが歯科医によって特定され[2]ドルーサン=ルイ王室礼拝堂フランス語版に埋葬された[2]。なお、義理の姪の死を知った2日後、オマール公爵アンリは心臓発作を起こして帰らぬ人となった[1]

子女編集

 
アランソン公爵一家、手前左がゾフィー・シャルロッテ。

出典編集

外部リンク編集

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