チャド・ワッカーマン(Chad Wackerman、1960年3月25日 - )は、アメリカ合衆国ジャズフュージョンロック・ドラマー。

チャド・ワッカーマン
Chad Wackerman
チャド・ワッカーマン(2007年)
基本情報
生誕 (1960-03-25) 1960年3月25日(64歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロングビーチ
ジャンル フュージョン
ジャズ
ロック
職業 ミュージシャン、作曲家
担当楽器 ドラム、パーカッション
活動期間 1978年 -
共同作業者 ビル・ワトラスフランク・ザッパスティーヴ・ヴァイアンディ・サマーズエド・マンアルバート・リーメン・アット・ワークコリン・ヘイドゥイージル・ザッパトム・グラントアラン・ホールズワーススティーヴン・ウィルソン
公式サイト chadwackerman.com
アラン・ホールズワース、ジミー・ジョンソンと演奏するワッカーマン(中央)(2006年)

フランク・ザッパ[1]アラン・ホールズワースと共演している。彼はバンド・メンバー、セッション・ミュージシャン、サイドマン、そして彼自身のバンドのリーダーとして働いてきた。共にドラマーであるジョン・ワッカーマンとブルックス・ワッカーマンの兄である。

音楽キャリア 編集

チャド・ワッカーマンは、カリフォルニア州シールビーチで、音楽漬けの家族に育った。父親であるドラマーのチャック・ワッカーマンは、高校と中学校の両方でジャズを専門に教えてきた、受賞歴のある音楽教師である。チャドと彼の兄弟、ジョン・ワッカーマン、ブルックス・ワッカーマンは皆、熟達したドラマーでありマルチ奏者である。ジョンは『Drum Duets Vol.1』というタイトルのアルバムを録音した[2]

チャドは1978年にビル・ワトラス・バンドに参加し、1981年から1988年まではフランク・ザッパと共に仕事をしている。ザッパのバンドに加わることは容易なことではなかった。ザッパは高い音楽水準を要求し、リハーサルやツアーにおいて厳しい規律を課した。スティーブ・ヴァイとチャド自身によれば、彼のバンドのオーディションは大変なものだったという[2]。とりわけ「Mo 'n Herb's Vacation」と「The Black Page」の2曲は、難曲とみなされていた。ザッパのキャリア全体の中でも、ワッカーマン、テリー・ボジオヴィニー・カリウタという3人のドラマー[注釈 1]は、要求に応える見事な演奏をすることができたといえよう。

ザッパのロック・アルバム[注釈 2]やツアー[注釈 3]に参加したほか、チャドは、1983年にロンドン交響楽団と共同でザッパ作曲作品のコンサート[注釈 4]とレコーディング・セッション[注釈 5]を行った。

サイドマンとセッション・ミュージシャン 編集

1985年、チャドはオーストラリアのロック・バンド「メン・アット・ワーク」でツアーを行ったが、レコーディングには加わらなかった。バーブラ・ストライサンドのアルバム『One Voice』で演奏し、サポートするビデオに出演した。また、アラン・ホールズワーススティーヴ・ヴァイ[注釈 6]アンディ・サマーズ[3]エド・マン[注釈 7][4][5][6]アルバート・リーコリン・ヘイドゥイージル・ザッパ[注釈 8]トム・グラントなどの多様なアーティストとアルバムをレコーディングし、ツアーを行っている。チャドはさらに、最初のデニス・ミラーによる深夜のトークショー番組でハウスバンドのドラマーも務めた。

チャドはまた、ジェームス・テイラー、マーク・リン=ベイカー、ラリー・スウィーニー、ジョン・パティトゥッチジェフ・ローバージョー・サンプルに伴ってのツアーを行い、ザッパ仲間であるテリー・ボジオ[注釈 9]と一連のオール・パーカッション・コンサートにおいてもツアーを行った。チャドは1995年から2005年までの10年間、オーストラリアに住んでいたが、2005年7月にカリフォルニアへと戻った。

ドラマーのマルコ・ミンネマンに代わって、チャドはスティーヴン・ウィルソンのアルバム『レイヴンは歌わない』をサポートするため、2013年までウィルソンのバンドとツアーを行った[1]

チャド・ワッカーマン・トリオ 編集

現在のチャド・ワッカーマン・トリオは、チャド・ワッカーマン(ドラム)、ダグ・ラン(1954年-2017年)(ベース)、マイク・ミラー(ギター)で構成されている。チャドのソロ・アルバムには、アラン・ホールズワースからのギター演奏の提供が含まれている。

ディスコグラフィ 編集

ソロ・アルバム 編集

  • 『40の言い訳』 - Forty Reasons (1991年) ※旧邦題『フォーティ・リーズンズ』
  • 『ザ・ヴュー』 - The View (1993年)
  • 『スクリーム』 - Scream (2000年)
  • Legs Eleven (2004年)
  • 『ドリームス、ナイトメアーズ&インプロヴィゼイションズ』 - Dreams Nightmares and Improvisations (2012年)

脚注 編集

出典 編集

  1. ^ a b Chad Wackerman will replace Marco Minnemann on North/South American Tour –”. Stevenwilsonhq.com (2013年2月5日). 2013年2月26日閲覧。
  2. ^ a b Wackerman, Chad (2001–2006). “Chad Wackerman Website”. Official Website Faqs. Evolutionweb.com. 2009年5月12日閲覧。
  3. ^ Discogs”. 2023年2月9日閲覧。
  4. ^ Ulrich (2018), pp. 332–333.
  5. ^ Discogs”. 2023年2月9日閲覧。
  6. ^ Miles (2004), pp. 310–311.

注釈 編集

  1. ^ ボジオは1975年から1978年まで、カリウタは1978年から1980年まで、ザッパのライブ活動に参加した。
  2. ^ たどり着くのが遅すぎて溺れる魔女を救えなかった船』(1982年)、『ザ・マン・フロム・ユートピア』(1983年)、『ゼム・オア・アス』(1984年)、『シング・フィッシュ』(1984年)、『ミーツ・ザ・マザーズ・オブ・プリヴェンション』(1985年)、『ダズ・ヒューモア・ビロング・イン・ミュージック?』(1986年)、『ギター』(1988年)、『ブロードウェイ・ザ・ハード・ウェイ』(1988年)、『ザ・ベスト・バンド』(1991年)、『メイク・ア・ジャズ・ノイズ』(1991年)。
  3. ^ 1981年、1982年、1984年、1988年のツアーに参加した。
  4. ^ スタジオでの録音が始まる数日前の1983年1月11日に、ロンドンのバービカン・センターにあるバービカン・ホールにて行なわれた。このホールはロンドン交響楽団の本拠地であった。
  5. ^ 『ロンドン・シンフォニー・オーケストラ Vol. I』(1983年)と『ロンドン・シンフォニー・オーケストラ Vol. II』(1987年)。
  6. ^ ザッパの1981年9月から12月までの北アメリカ・ツアーと、1982年5月から7月までのヨーロッパ・ツアーで共演した。
  7. ^ 打楽器奏者。1977年3月に前年暮れにライブ録音された『ザッパ・イン・ニューヨーク』(1978年)のスタジオ作業に参加したのをきっかけに、同年秋から1988年9月までに行なわれたザッパのツアーや様々なライブ活動に参加。またチャドと共に『ロンドン・シンフォニー・オーケストラ』の録音や、それに先立った1983年1月11日のコンサートに参加した。
  8. ^ ザッパの長男である。
  9. ^ ザッパのバンドに在籍した期間が異なるので、共演の機会はなかった。

参考文献 編集

  • Miles, Barry (2004), Zappa, Grove Press, ISBN 0-8021-4215-X 
  • Ulrich, Charles (2018), The Big Note: A Guide To The Recordings Of Frank Zappa, New Star, ISBN 978-1-55420-146-4 

外部リンク 編集