トゥリオ・ピネリTullio Pinelli, 1908年6月24日 - 2009年3月7日)は、イタリア脚本家小説家である[1][2]トゥリオ・ピネッリとも表記される[3]

Tullio Pinelli
トゥリオ・ピネリ
トゥリオ・ピネリ
生年月日 (1908-06-24) 1908年6月24日
没年月日 (2009-03-07) 2009年3月7日(100歳没)
出生地 イタリア王国の旗 イタリア王国 トリノ
死没地 イタリアの旗 イタリア ローマ
国籍 イタリアの旗 イタリア
職業 脚本家小説家
ジャンル イタリア式コメディ
活動期間 1943年 - 2009年
配偶者 マドレーヌ・ルボー
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人物・来歴 編集

イタリア王国(現在のイタリア共和国トリノに生まれる[1][2]。貴族の出身で、騎兵将校、法律家といった職を経て、舞台の戯曲を書き始める[1]。戯曲が注目され、映画界に入り、1943年に脚本家としてデビューする[1]

1952年、ピエトロ・ジェルミ監督の『越境者』の脚本で、同作を共同執筆したジェルミ、フェデリコ・フェリーニとともにドイツ映画賞敢闘賞を受賞する[1]。1957年、フェデリコ・フェリーニ監督の『』の脚本で、同作を共同執筆したフェリーニとともに第29回アカデミー賞脚本賞にノミネートされる[1]。1958年、フェデリコ・フェリーニ監督の『青春群像』の脚本で、同作を共同執筆したフェリーニ、エンニオ・フライアーノとともに第30回アカデミー賞脚本賞にノミネートされる[1]。1959年、フェデリコ・フェリーニ監督の『カビリアの夜』の脚本で、同作を共同執筆したピエル・パオロ・パゾリーニ、エンニオ・フライアーノとともに、スペインバルセロナでのサン・ジョルディ賞最優秀外国脚本賞を受賞する[1]

フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』の脚本で、同作を共同執筆したフェリーニ、ブルネッロ・ロンディ、エンニオ・フライアーノとともに1961年にはナストロ・ダルジェント賞最優秀脚本賞を受賞、1962年には第34回アカデミー賞脚本賞にノミネートされる[1]。1964年、フェデリコ・フェリーニ監督の『8 1/2』の脚本で、同作を共同執筆したフェリーニ、ブルネッロ・ロンディ、エンニオ・フライアーノとともに、ナストロ・ダルジェント賞最優秀脚本賞を受賞、同年の第36回アカデミー賞脚本賞にノミネートされる[1]

1976年、マリオ・モニチェリ監督の『私の友だち』の脚本で、同作を共同執筆したレオ・ベンヴェヌーティピエロ・デ・ベルナルディ、ピエトロ・ジェルミとともに、ナストロ・ダルジェント賞最優秀脚本賞ならびに同最優秀原作賞を受賞する[1]

1982年、マリオ・モニチェリ監督の『グリッロ侯爵』の脚本で、同作を共同執筆したモニチェリ、ピエロ・デ・ベルナルディ、レオ・ベンヴェヌーティ、ベルナルディーノ・ザッポーニとともにナストロ・ダルジェント賞最優秀脚本賞を受賞する[1]。1986年、マリオ・モニチェリ監督の『女たちのテーブル』の脚本で、同作を共同執筆したモニチェリ、ピエロ・デ・ベルナルディ、レオ・ベンヴェヌーティ、スーゾ・チェッキ・ダミーコとともにナストロ・ダルジェント賞最優秀脚本賞、ならびに同年のダヴィド・ディ・ドナテッロ賞最優秀脚本賞を受賞する[1]。1988年、フランスの女優マドレーヌ・ルボーと結婚する[1]

満90歳を迎える1998年、マクシミリアン・ロベスピエールに題材をとった小説『ロベスピエールの家』 La casa di Robespierre を執筆し、出版される[1]

2009年3月7日、老衰により死去した[1][2]。満100歳没。

おもなフィルモグラフィ 編集

83作の脚本作がある[1]

1940年代 編集

1950年代 編集

1960年代 編集

1970年代 編集

1980年代 編集

1990年代 - 2000年代 編集

ビブリオグラフィ 編集

参考文献 編集

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q Tullio Pinelli, インターネット・ムービー・データベース (英語), 2010年12月10日閲覧。
  2. ^ a b c Tullio Pinelli, allmovie (英語), 2010年12月10日閲覧。
  3. ^ トゥリオ・ピネッリ、allcinema ONLINE, 2010年12月10日閲覧。

関連項目 編集

外部リンク 編集