ノート:キリスト教/過去ログ3

最新のコメント:10 年前 | トピック:壊れたリンク | 投稿者:Zerabat
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脚注のスタイルについて

利用者:黒の聖書さんの精力的な整理・編集、ありがとうございます。ただ、脚注・参考文献の書式については、このノートなどで合意いただけたらなと考えました。例えば、利用者:黒の聖書さんの編集では脚注の文献から著者名が削られています。参考文献をみれば著者名は書いてあるからという理由からだろうとは推察しますが、調べ物をする立場からみると少し不便になった感じがします。紙媒体の百科事典あるいは論文誌などでは軽量化を図る意味で簡略化された表記方法が工夫されてきたという歴史がありますが、こうした電子媒体の百科事典で利便性を損ねてまで記述を圧縮する必要は無いような気がするのですが、いかがでしょうか。--おーた 2008年4月15日 (火) 22:33 (UTC)

著者名・ISBN・出版社名、いずれも削る必要は聊かも無いと考えます…。特に「世界宗教史」など、どこにでもありそうな書名については、むしろ将来「出典情報不足」と突っ込まれる危険性すらあります。またその際、履歴を辿って復元する事に一定の困難が伴う以上、これらは早急に復元されるべきとすら思います。--Kliment A.K. 2008年4月17日 (木) 00:14 (UTC)

混乱を招いてしまったようで申し訳ありません。
脚註の書式ですが、おーた さんの考える「参考文献をみれば著者名は書いてあるからという理由から」というのはちょっと違います。正確には、「毎回毎回すべて書くと、これだけ脚註がある記事だと長くなりすぎるであろうから」です。だから初出の際には完全な書式で書き、2回目以降は書名と参照ページ数のみに省略、という形にしています。たとえば Kliment A.K. さんが挙げた『世界宗教史』ですと、脚註18. で「ミルチア・エリアーデ『世界宗教史 II』筑摩書房、1991年、370頁」と書いているので、19. 以降は「『世界宗教史 III』184-185頁」や「『世界宗教史 II』291-292頁」ですね。
ISBN に関しては おーた さんの推測どおり、「参考文献」の節にすべて書いてあるからです。こちらは、脚註欄にいちいち「ISBN XXXXXXXXXXXXX」と何度も青字が出てきては煩雑で見づらいのではないかとの思いから削りました。代わりに(と言っては変ですが)それまで載っていなかった ISBN もアマゾンや出版社サイトでほぼすべて調べて補完した上で13桁に直し、「参考文献」に記載したので、それで十分だろうと判断したのですが、配慮が足りなかったようですね……。--黒の聖書 2008年4月17日 (木) 11:13 (UTC)

ご回答ありがとうございます。で、黒の聖書さんの意図するところは十分理解できるのですが、Wikipediaでは必要ないと思いますし、むしろ問題を孕んだのではないかと考えます。すでに書いたように、紙資源の節約という観点からはWikipediaはフリーです。脚注や参考文献の書式を考える場合、字数の節約より可読性とメンテナンス性を考えなければいけないのではないでしょうか。
いろいろあって、現在のキリスト教の脚注は75個です。私は、エリアーデの『世界宗教史』を結構便利に使ってしまったので、引用番号は18から43まで散っています。しかも初出の18は書名が冒頭に出ていないので、43あたりで『世界宗教史』を拾った読者が、「はて、誰の『世界宗教史』だ?」と思ったとするとかなり苦労しそうです。43ならまだしも、76個目あたりに新たに『世界宗教史』を引用したりすると、かなり絶望的です。(いま、『MLA英語論文の手引き 第6版』で確認しましたが、「ibid.」「op.cit.」のような省略形は推奨しないと明記されていました。英語論文で、ibid.が出てきて戸惑った経験があるので、このガイドラインは個人的に納得です。省略しないで済むなら、むやみな省略はしないほうがよいのです。)
それからメンテナンス性のことも考えたいのです。将来、どなたかが別の誰かの『世界宗教史』を引用したとして、そのとき目にした脚注のフォーマットに従ってタイトルとページ数のみを記した場合を想定ください。あるいは、その編集者が新たな著者名付きで『世界宗教史』を引用した場合を考えていただいても良いのですが、その編集者が既出の著者名抜きの『世界宗教史』にどれだけ気を回すかははなはだ心もとないものがあります。そうなると、どちらの著者の『世界宗教史』だか分らない脚注が発生してしまいます。あるいは、ある編集者が脚注のことを一切考えずに参考文献の差し替えをやってしまうことも考えられます。つまり、黒の聖書さんが脚注と参考文献を連携させたような、きめこまやかな配慮を無視して、編集が進んでしまう可能性があります。そうなると、復旧は大変です。
この項目は履歴を見る限り膨大な人々が編集に関わっていますが、皆さんが永続的に関わってきたわけではありません。すっきりとしたスタイルに拘るよりも、不特定多数の後続編集者に分りやすい形で記事を残したほうが良い、と私は考えます。ご面倒ですが、脚注と参考文献のスタイルを復旧していただけませんでしょうか。--おーた 2008年4月17日 (木) 13:42 (UTC)
言葉が足りなかったように思いますので補足させて頂きます。利用者:黒の聖書さんの意図と作業につきましては意義無しとはしません。私の方針・感性(包摂主義的な立場)には合いませんが、一定の合理性はあると思われます。しかしながら黒の聖書さんや、他限られた数の編集者(少なくともこの議論の経緯に直接関っている、同時進行的に関っている編集者)だけが作成に関るのであれば問題は少ないのですが、おーたさんご指摘の通り、半永続的に編集作業が進行するウィキペディアにおいては黒の聖書さんの折角の配慮が裏目に出る局面が多くなると存じます。--Kliment A.K. 2008年4月17日 (木) 13:51 (UTC)

先ほど脚註のスタイルを復旧しました。却って煩雑になった気もしますが、それ以前の編集で現状での体裁を優先しすぎていたようですので、この方が良いのでしょうね。直してから気づいたのですが、ISBN に限っては記載は任意のようですので、重複する場合は書かなくてもよかったのかもしれません。
ところで「ご面倒ですが、脚注と参考文献のスタイルを復旧していただけませんでしょうか」とのことですが、この場合「参考文献のスタイル」とはいつの時点のものを指すのでしょうか。僕が最初に編集する前の版であれば、記載されている書籍数が大幅に減り、絶版・復刊などの情報も消えてしまいますが……。--黒の聖書 2008年4月17日 (木) 17:38 (UTC)

スタイルの復旧、ありがとうございます。無理して黒の聖書さん以前バージョンに戻す必要はありません。黒の聖書さんの綿密な作業ですごく充実した脚注と参考文献になっていますから。本当に感謝します。
キリスト教関連記事は、結構重要な項目でもまだまだ改良の余地がある記事がたくさん残っています。黒の聖書さんさえよろしければ、それらの記事にも力を貸していただければと、勝手なことを思っています。どうぞ、これからもよろしくお願いします。--おーた 2008年4月18日 (金) 14:21 (UTC)
黒の聖書さん、対処に感謝します、ありがとうございます。--Kliment A.K. 2008年4月18日 (金) 16:41 (UTC)

ミトラ教との関係について

9月17日および10月3日にTibetFreedom さんが加筆したミトラ教との関係についてです。 大変興味深い内容なのですが、全体記事の中でのバランスが悪いので「ユダヤ教・イスラム教との関係」の節と統合して「他宗教との関係」するべきじゃないかと思います。それから内容についてなのですが、問題がいくつかあると考えます。特に参考文献に挙げられた『ミトラの密儀』を読んだのですが、著者のキュモンはミトラ教からキリスト教への影響については、たいへんに慎重な書き方をしておられます。つまり、ミトラ教とキリスト教には類似点が多々認められるが、二つの宗教にどのような影響関係があったのかは解らないとしているのです。

以下は、フランツ・キュモン『ミトラの密儀』(原著は1913年の第3版)平凡社、小川英雄訳、ISBN44-582-70710-6によりますが、

pp.141-143「敵対する二つの集団の類似点は非常に多く、古代のすべての人々にさえ強い印象を与えるほどであった。二世紀以来、ギリシャの哲学者たちはペルシャの密儀とキリスト教の比較対照を行ったが、それはすべて明らかに前者にとって有利なものとなった。キリスト教の側では、護教論者たちが両宗派の類似点を強調し、それは自分たちの宗教の最も神聖な儀礼の悪魔的な模倣であると説明する。もしミトラ教徒たちの論争的な著作が伝存していれば、そこには疑いもなく彼らの敵に対する同様な論駁が見られることであろう。
現代の我々は当時の人々を二つに分け、疑いもなくいつまでも決着がつかなかった問題に明快な解答を与えることはできない。ローマ時代のマズダー教(引用者注:ほぼミトラ教のこと)の教義や典礼についても、原始キリスト教の発展についてもあまりにもわずかなことしかわかっていないので、どのような相互作用が両派の同時代的発展に働いていたのかを決定することはできない。しかし、類似は必ずしも模倣を意味しない。ミトラの教義とキリスト教信仰の間の多くの対応関係は、両者のオリエント起源という共通性によって説明される。しかし、幾つかの観念や幾つかの儀式は一方の宗派から他方へ伝えられたものに違いなく、こういう借用についてははっきり見分けられるというよりはむしろ、たいていの場合は推測するよりほかはない。(中略)毎日の夜明け、正午、夕方に三回太陽に祈願するという習慣はキリスト教の日々の祈祷の中で真似されたであろうし、キリスト生誕の記念祭は、不敗の太陽ミトラの再生である敗れざる神の生誕が冬至に祝われたので、一二月二五日設定されたということは確かであるように思われる」

です。TibetFreedomさんは「西方ミトラ教の儀式は、後から誕生したキリスト教に残存している」と本文記事に書かれていますが、キュモンがそうではないかと類推するのは朝課・昼課・夕課の祈りとクリスマスの日付だけで、あとはどちらからどちらへの影響かは推論するのは困難であり、多くの対応関係は同時代的な共通性を考えたほうが良いとしています。そうであるならば、TibetFreedomさんの記事はキュモンと別のことを書いているように読めます。

またTibetFreedomさんの「後から誕生したキリスト教」という書き方もキュモンの著作からは疑問があります。

p.39「この信仰圏(引用者注:ミトラ教)はアウグストゥスの時代にはまだ、ほとんどまったく帝国の境界線の外にあった」
p.40「それ(引用者注:ミトラ教)はフラティウス朝期(引用者注:69~96年)にローマ世界に広がり、アントニヌス朝とセウェルス朝期に発展した」
p.40「ようやく1世紀の終わり頃、ミトラはローマで話題にのぼるようになった」

つまり、西方ミトラ教がローマ帝国に広がるのはキリスト教とほぼ同時期です。「ミトラ教の方が歴史が古い」という理屈は解るのですが、それにしてもマズダー教やゾロアスター教から西方ミトラ教がその教義を確立した時期が不明です。加えてミトラ教は伝播先での土着宗教との混交が激しかったとされています。

p.28「不幸にして、どの地域で、どの時期にマズダー教(引用者注:ほぼミトラ教のこと)がイタリアで明瞭になったような特徴(引用者注:ミトラ教のこと)をとるに至ったのかを明瞭に決定することはできない」
p.130「宗門(引用者注:ミトラ教)はそれが生きていかなければならない環境に、至るところで柔軟に適応することができた」
p.131「ミトラの密儀は共にオリエントからヨーロッパへと移動したシリアの宗教とはやすやすと結びついた。カルデア人の理論にすっかり染まったミトラ教の教義はセム人の諸宗教の教義と大きな類似性を示した」(引用者注:ユダヤ教はセム人の宗教のひとつ)

ですから、TibetFreedomさんの記事の「ミトラ教はキリスト教に大きな影響を与えた」というストーリーは無理があると考えます。以下、個別の記述についてもコメントさせていただきます。

浸水による洗礼

キュモンの『ミトラの密儀』では浸水以外の形式もあったとされていますね。

p.115-116「それは道徳的な穢れを洗い流すための一種の洗礼であった。(中略)場合によっては聖水の単なる撒布のこともあり、イシス崇拝に見られるような本格的な沐浴のこともあった」

ここでは西方ミトラ教やキリスト教よりも古くに成立しているイシス崇拝での沐浴に言及しているところにも注目しておきたいです。水を使う洗礼という儀式は本当にミトラ教からキリスト教に入ったというのが通説なのでしょうか?文献引用が欲しいところです。

洗礼式は、キリスト教の母体となったユダヤ教徒にはみられない。

そうでしょうか?ヨハネ教団は洗礼をしていましたよね。エッセネ派も洗礼の儀式があったとされています(エリアーデ『世界宗教史Ⅱ』第223節、p.377)。ですから、この記述には無理があるんじゃないでしょうか。エリアーデの『世界宗教史』は1978年の著作で、当然キュモンの学説は大いに活用していますが、キリスト教の洗礼についてミトラ教からの影響は言及されていません。

やがて、本物の牛の代わりに肉の代替としてパンを、血の代替として葡萄酒(ワイン)が用いられるようになった。聖餐式は、キリスト教の母体となったユダヤ教徒にはみられない

キュモンの見解は少し違いますね。血の代替だったのではなくてハオマという幻覚飲料の代替だったのだと書いています。

pp.116-117「マズダー教の祭式では、司式する新刊は自ら調合したハオマという幻覚を起こす飲料を水で割り、それとパンとを神に捧げた。(中略)この古くからの風習はミトラ教の入信儀式でも守られていた。ただし、西洋では(中略)葡萄液が用いられた。信者の前にはパンと水を満たした杯が置かれ、神官はそれらに対して神聖な式文を唱えた。パンと水の奉献では、後に葡萄酒が水に混ぜ合わされたのであろうが、キリスト教護教論者たちはこれを彼らの聖餐式と比較している」

それから、聖餐式はユダヤ教徒の伝統に無かったというのは少し強引です。言うまでも無く、ユダヤ教には過越際という重要行事があり、そこでは家族が集まって無醗酵のパンとニガヨモギを食べたのですし、聖餐式が由来するイエスの「最後の晩餐」はその過越祭の晩餐だった訳です。加えて、聖餐式の「儀礼はユダヤ教の家庭内での儀式、とくにパンとぶどう酒を祝福する典礼を継承するものである」と前述のエリアーデなどは解説しています(『世界宗教史Ⅱ』第220節p.362)。

さらにエリアーデを引用すれば「形態論的には、聖餐は古代地中海世界、それも密儀宗教において実践されていた会食の祭儀の名残である」「聖餐をオリエントの救済宗教の影響によって説明しようとする者もあるが、この仮説には根拠が無い」(同p.363)のだそうで、オリエントのゾロアスター/ミトラ教に聖餐式の起源を求めるのは、問題かもしれません。

マタイ福音書に記載されているイエス誕生時に東方から訪れたマギ(日本語では「博士」と意訳)はユダヤ教とは全く無関係であり、ミトラ教(あるいはゾロアスター教)の聖職者を意味するマギと合致する。

新約聖書の一般的な解説書では、マギとはメディア王国のペルシャ系祭祀階級(マギの項参照)を指し、転じて天文学や占星術に通じた職能集団とされていますよね。 一方、ヘロドトスの『歴史』の記述から、彼らがゾロアスター教系の信仰体系を維持していただろうことははっきりしていますし、キュモンも「マゴス神官」(=マギ)がミトラ教の伝播に果たした役割を記述しています。ただ、新約聖書の記述からは「東方から古代宗教に関係があるらしい天文学・占星術の学者・祭司が来て生誕に箔をつけた」という以上の意味(新約聖書にミトラ教が影響している)が読み取れるかどうかは、解釈的にしんどいと思います。

最後の審判と救世主思想はゾロアスター教に由来しており、バビロン捕囚時代にユダヤ教にも導入された。

ユダヤ教に黙示文学が本格的に出てくるのは、第2イザヤ書からなので確かにバビロン捕囚期のことですし、Wikipediaの他項目でもこうした記述は見かけます。ただし、バビロン捕囚は新バビロニアによるもので、ペルシャ王朝によるものではないですよね。バビロニア捕囚期にペルシャのゾロアスター教がバビロンのユダヤ人コミュニティに影響を与えたというのは、やっぱり文献が必要だなと思います。

ミトラ教はゾロアスター教と相互に影響を与えた

「相互」というのはいくらなんでも無理です。ゾロアスターによるマズダー教の改革は意見が分かれます遅くともが紀元前7世紀のことです。その改革の中で、古来より崇拝されていたミトラは神様としての位階を大きく格下げされてしまうのですが、それを何世紀もの後に復活させたのがミトラ教ですから。

西方ミトラ教の教勢が衰退してキリスト教が隆盛し始めると、初期のキリスト教徒は西方ミトラ教の地下礼拝所を破壊せずに流用した。

これも時代が合いませんね。ミトラ教とキリスト教が競合したのは紀元3~4世紀で、コンスタンティヌス帝(306-337)のときにキリスト教が公認され、ミトラ教に入信していたユリアヌス帝(355-361)がそれを覆し、それが次代でもういちど覆り、グラティアヌス帝の382年の勅令でミトラ教はもとよりすべての密儀宗教は禁止され、キリスト教の国教化が進行します。つまり、キリスト教が公認されて地下礼拝所を必要としなくなったのと、ミトラ教が敗北したのはほぼ同時期です。それから、ローマ時代に地下礼拝堂で密儀をやっていたのはミトラ教とかキリスト教だけじゃありません。ローマ・ヘレニズム時代にはオシリス・イシス教、ディオニソス教、アッティス教など色々な密儀宗教の流行がありました。そういう宗派間で地下礼拝堂の流用はいくらでもあったかと思います。

以上、細々と書きましたが誤解していただきたくないのは、私はミトラ教とキリスト教との関係は記事にきちんと書いたほうが良いと考えているということです。キュモンの『ミトラの密儀』も参考文献としては申し分ありません。特に下記の記述などは、大いに本文記事に使うべきだと考えます。

p.138-139「ミトラの密儀とキリスト教の間の闘争は早くから始まっていた。両宗派の流布はほとんど時を同じくしたし、両者の拡張は類似の条件で引き起こされた。両者ともオリエント起源であり、帝国の政治的統一と精神的無秩序という同じ一般的原因のおかげで広がった」
pp.140-141「張り合う二宗派の抗争は、性格が相似しているだけに根強かった。信者たちは同じように秘密の集会を催し、堅く団結し、構成員は互いに「兄弟」と呼びあった。執り行われた儀式は多くの点で類似していた。例えば、ペルシアの神の信者(引用者注:ミトラ教信者)たちはキリスト教徒と同じように洗礼によって自らを浄めたし、一種の堅信礼によって悪霊と戦う力を授けられ、聖餐式によって心身の救済を期した。また両派とも日曜日を神聖視し、12月25日を祝日とした。その日はミトラ教では太陽の生誕の日であり、キリスト教では遅くとも4世紀以降はクリスマスであった。両派は同じく厳格な道徳律を説き、禁欲と純潔を功徳あるものとみなし、主要な徳目の中に無欲と自戒とを数えた。世界と人間の運命についての考え方にも似たところがあり、上空遥かに置かれた善人の住む天と地下深く埋もれた悪魔の住む地獄との存在をそれぞれが認めていたし、歴史の始まりに大洪水を設定した。また、伝統的教義の原泉として原初の啓示を認めていたし、最後に、霊魂の不滅、来世の報い、最後の審判、世界終末の大火災の中での死者の復活などを信じていた」
pp.141-143「敵対する二つの集団の類似点は非常に多く、古代のすべての人々にさえ強い印象を与えるほどであった。二世紀以来、ギリシャの哲学者たちはペルシャの密儀とキリスト教の比較対照を行ったが、それはすべて明らかに前者にとって有利なものとなった。キリスト教の側では、護教論者たちが両宗派の類似点を強調し、それは自分たちの宗教の最も神聖な儀礼の悪魔的な模倣であると説明する。もしミトラ教徒たちの論争的な著作が伝存していれば、そこには疑いもなく彼らの敵に対する同様な論駁が見られることであろう。
現代の我々は当時の人々を二つに分け、疑いもなくいつまでも決着がつかなかった問題に明快な解答を与えることはできない。ローマ時代のマズダー教(引用者注:ほぼミトラ教のこと)の教義や典礼についても、原始キリスト教の発展についてもあまりにもわずかなことしかわかっていないので、どのような相互作用が両派の同時代的発展に働いていたのかを決定することはできない。しかし、類似は必ずしも模倣を意味しない。ミトラの教義とキリスト教信仰の間の多くの対応関係は、両者のオリエント起源という共通性によって説明される。しかし、幾つかの観念や幾つかの儀式は一方の宗派から他方へ伝えられたものに違いなく、こういう借用についてははっきり見分けられるというよりはむしろ、たいていの場合は推測するよりほかはない。(中略)毎日の夜明け、正午、夕方に三回太陽に祈願するという習慣はキリスト教の日々の祈祷の中で真似されたであろうし、キリスト生誕の記念祭は、不敗の太陽ミトラの再生である敗れざる神の生誕が冬至に祝われたので、一二月二五日設定されたということは確かであるように思われる」

以上を鑑み、TibetFreedomさんのミトラ教に関する記述をいったんコメントアウトしたいと思います。よろしければ、代案を考えさせてください。--おーた 2008年10月27日 (月) 14:06 (UTC) 修正--おーた 2008年10月30日 (木) 15:07 (UTC)

コメントアウト以降、特にご意見は無かったので私なりに代案を考えてみました。(ついでといっては何ですが、マニ教の話も加わっています。) 「ユダヤ教・イスラム教との関係」の代わりに「他宗教との関係」という節を立て、現行の「ユダヤ教・イスラム教との関係」はサブセクションとし、下記の「ミトラ教との関係」「マニ教との関係」と並置するというのでいかがでしょうか?--おーた 2008年11月29日 (土) 03:52 (UTC)

(以下、代案)

<2008.12.13 本文へ移動>

(代案、以上)--おーた 2008年11月29日 (土) 03:52 (UTC)

異議が無かったので、代案を本文に移動しました。--おーた 2008年12月13日 (土) 04:10 (UTC)

リンクの削除について(お尋ね)

今晩は、Bethlehem4と申します。さて、Kinno Angel様、Wikisourceのs:聖書へのリンクを削除されましたが、理由はなんでしょうか?お教えください。一行目に言及がある、キリスト教で聖書がリンク先としてふさわしくないとすれば、何をリンクすればよいのでしょうか?--Bethlehem4 2009年11月24日 (火) 11:03 (UTC)

  • 聖書へのリンクは聖書および関連記事においてすれば良いものです。他の個別具体的な記事なら兎も角、キリスト教という、幅広い分野にかかる記事においては、外部リンクについて禁欲的に扱わなくてはなりません。さもなければあっさり肥大化します。--Kinno Angel 2009年11月24日 (火) 11:09 (UTC)

難しいところですね。 キリスト教関連のリンクを増やそうと思えばたくさんありますし、その分肥大化する。 --Nekgolsc会話2013年6月1日 (土) 03:40 (UTC)

「様々な分類」の削除の意図

節「様々な分類」を削除させて頂きました。理由は以下の通りです。包括的に扱っている記事で、「民衆キリスト教」や「土着キリスト教」が、教派と並び称されるほどの「分類」とは全く思えません。むしろ西方教会では「リベラル」「保守派」「福音派」といった分類(これらは勿論排他的概念ではなく、一部では重なり合っていますが)についての説明の方が必要性は高いでしょう。ただしこれについて書くのは多様な見解があることから非常に厄介な問題となりますので、私は加筆に基本的に反対ですが…。少なくとも記事冒頭に近いところに置くほどの術語とは全く思えません。--Kinno Angel 2010年2月10日 (水) 09:13 (UTC)

英語版のウィキペティアには「土着キリスト教」や「民衆キリスト教」に相当する"Folk Christianity"という項目があります。英語版ではヴードゥー教やサンテリアなどが"Folk Christianity"に分類されていますが、実際には、土着化したロシア正教の大地崇拝(白石治朗・著『ロシアの神々と民間信仰 ロシア宗教社会史序説』(彩流社 1997年)を参照)なども含まれると思います。
また通常日本で「民衆キリスト教」といわれているものは、ヴードゥーなどではなく、どちらかというと南欧や中南米での過度のマリア崇拝、事実上の多神教に他ならない諸聖人崇拝、聖遺物崇拝、聖人の遺体崇拝、一聖人をキリストより至高の存在とするロシアの「聖ニコラ信仰」など正統教義から逸脱した欧米圏での民間信仰を言い表す言葉だと思います(もしかしたら「独自解釈」かもしれませんが)。
「土着キリスト教」や「民衆キリスト教」は記事冒頭に近いところに置くほどの術語ではないと思いますが、「関連項目」に置いても差し支えないと思います。--Loadambala 2001 2010年5月5日 (水) 11:40 (UTC)

上記に関する追記です。「事実上の多神教に他ならない諸聖人崇拝」とは<天国の門の鍵を持つ聖ペテロを泥棒よけの守護神と見なす><聖クリストファーを交通安全の守護聖人とみなし、教会でキーホルダーを売る>といったものです。神へ祈りを捧げるのではなく、目的によって祈る聖人を使い分ける、あるいは願掛けのため特定の守護聖人を奉じた教会に詣でる、という風習はカトリック圏の民間信仰です。とくに「●●派」とカテゴライズされているわけではありませんが、正統教義からの派生信仰だと思います。これについて記述することはなんらおかしな事ではないと思います。
また関連項目のなかに「聖遺物」と「守護聖人」を追記することを提案します(「聖遺物」や「守護聖人」という項目自体はすでに存在しています)--Loadambala 2001 2010年5月5日 (水) 12:13 (UTC)

>一聖人をキリストより至高の存在とするロシアの「聖ニコラ信仰」
「そう見える」という感想を持つ人は居るのかもしれませんが、少なくとも正教はそんな事を主張していません。そもそも「ロシア正教会」というのは組織名であって教派名ではなく、独自の狭義・教理がある訳でもありません。「正教会」が教派名です。
>土着化したロシア正教の大地崇拝
一感想か神話の類です。「ロシア正教は亜流であってキリスト教とは言えない」「土着化し過ぎている」云々といった話は西方から東方への偏見表明としてよく言われる事ですが、「○○というロシア正教の独自性」とか巷間で言われる代物は、大概、東欧の正教会全般、およびギリシャ正教会にもあります。「ギリシャ正教会は土着化していて云々」とは言われないのは、ロシアへの偏見に便乗して東方教会を貶める意図によるものです。そのような西方の「研究」に毒された「研究書」が幾らでも日本にあります。「大地崇拝」という言葉はよく聞きますが、祈祷文や神学や、ザドンスクのティーホンを初めとした思想家の著作、スラヴ派を初めとするロシア思想・神学をまともに検証した上での「ロシア正教の大地崇拝」を実証した研究を、見た事がありません(またそのようなものはある筈も無い)。
そもそも「正統教義」なのか「派生信仰」なのか、正教が土着キリスト教なのか云々といった話はここでは何の関係もありません。肥大化し易い総合的な記事に何を盛り込むのかを技術的に話し合うだけです。
関連項目はただでさえ肥大化しています。これ以上盛り込む事は出来るだけ避けたいですし、「聖遺物」「守護聖人」についても要りません。正教、東方諸教会、特にローマカトリックに重要な概念ですが、プロテスタントでは全く関係の無い概念です。--Kinno Angel 2010年5月5日 (水) 06:14 (UTC)
「誰もが重要だと納得する項目」だけでもこれだけの数に上っているのです。「民間キリスト教」「土着キリスト教」は、まず「分類」として重要ではありません。定義・概念が人によって異なるものでもあり、そのようなものについて当記事で中立性に気をつけながら記述を始めたらあっさり肥大化します(「土着化したロシア正教の大地崇拝」などという神話の類まで載せるとなればキリがなくなります)。別項目で記事を立て、キリスト教用語一覧に載せれば十分です。--Kinno Angel 2010年5月5日 (水) 06:22 (UTC)
キリスト者の端くれとして議論に参加させていただきます。日本の土着キリスト教たる隠れキリシタンに関するドキュメンタリーを十数年前に見た事を懐かしく思い出しました。今でも、年末の『行く年来る年』でその風俗を垣間見ることがあります。興味津々の事柄なのですが・・・・。それはさて置き、件の件ですが、いちキリスト者としていえば、あれも入れてほしいこれも入れてほしいとなります。特にわたしの所属しているグループは、日本では最小の教派と言っても良いのでキリスト教の本稿に入れてもらいたいことがたくさんあります。しかし、常日頃思うことを書かせていただきます。
キリスト者の常識は一般の方々の常識ではなく、またキリスト者の知りたい知識は、一般の方々の知りたい知識ではない場合があるということです。その意味で一般的なキリスト教に縁遠い方たちが何を求めるかが、Wikipediaの本質的な百科事典のあり方だと思っています。Wikipediaはキリスト教事典ではありません
以上の事を踏まえて私の意見を書かせていただきます。本稿は、かなり煩雑に肥大化しています。もう少し整理すべきです。関連項目も然りです。。「民間キリスト教」「土着キリスト教」も面白い項目です。しかし、まず記事にもなっていないものを載せておく必要性もないでしょう。また記事になったとしても、本稿との関係はかなり希薄なものになるでしょう。「聖遺物」「守護聖人」などに関してもKinno Angelさんが言われるとおり、キリスト教全体の問題ではありません。プロテスタントの者たちにとっては、「あぁそうなんだ」くらいの価値しかありません。各教派にとってのみ関連する事柄は別項目の一覧に載せておくくらいで良いのではないでしょうか?キリスト教全体に関する項目にとどめ各教派に関しての項目や、「民間キリスト教」「土着キリスト教」などの項目は「○○○一覧」に押し込め関連項目に記載する程度で良いと思います。関連項目もできれば「○○○一覧」で統一して整理していくべきでしょう。まぁ、それをやるとしたらたいへんな労力になるかとも思いますが希望くらいで聞き流してください。
【結論】「民間キリスト教」「土着キリスト教」「聖遺物」「守護聖人」も関連項目に記載せず「○○一覧」に入れるべきだと思います。--パウロ2003 2010年5月5日 (水) 12:26 (UTC)
キリスト教辞典でないといっても、一般人の認識を優先する考えには異論があります。「一般人」が正教は「大地崇拝」、「聖ニコラ信仰」、「聖人崇拝」する混合宗教だと思っていたとしても、正教はキリスト教なのですから、正教については正教の理解が優先的に書かれるべきです。ただ西方の異端については日本語版wikiに詳細に記述があるにも関わらず、東方の異端分派については日本語版ウィキに、現状ほとんど記述が無いのは両論併記の原則から言って変かも知れません。私は他宗教との関係の節をキリスト教から分割してキリスト教と異教あるいは異教とキリスト教あるいは他宗教とキリスト教あるいはキリスト教と他宗教という項目を作り、「土着キリスト教」や「民衆キリスト教」もそこに記述することを提案します。--Evangelical 2010年5月5日 (水) 13:39 (UTC)
今のところ、「関連項目に『土着キリスト教』『民衆キリスト教』まで入れる必要は無い」という点について、パウロ2003さんから同意を頂き、Evangelicalさんからも同意頂けました(で、宜しいですよねEvangelicalさん?)。
で、(項目名の順序は兎も角)キリスト教と異教他宗教とキリスト教といった項目を作成してはというEvangelicalさんのご提案についてですが、私は反対です。
まず、キリスト教内で議論百出(教派、リベラルか福音派かカトリック保守派かカトリック内リベラルかetc. )、宗教学でも議論百出、他宗教の立場(イスラーム、仏教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、神道etc. )からの考察、さらにオカルト系研究本まで参入してくる可能性が極めて高い事を考えれば、中立的観点を達成するのが恐ろしく難しいです(というより順列組み合わせも膨大になり、半永久的に不可能かと)。
次に、独自研究が濃厚な記事になるかと思います。キリスト教内の議論、他宗教との議論、宗教学の議論、オカルト系の議論まで網羅した研究本はほぼ皆無な上に、総合的な書籍があったとしても、全ての人に権威として認められている書籍など有り得ない訳で、複数の書籍を使わなければならなくなります。そうするとその記述バランスなどにも大いにバイアスが掛かってきますし、各種情報の総合の段階で独自研究が含まれるでしょう。
ほぼ100%、事典として相応しくない記事になり、問題のある記事関連のタグだらけになる事は火を見るより明らかです(申し訳ありませんが多分私からもタグは大量に貼付させて頂く事になるでしょう)。私にも改善するのに費やすだけのリソースは御用意出来ない以上、問題だらけになる事が明らかな記事作成に対して賛成する無責任な事は出来ません。--Kinno Angel 2010年5月5日 (水) 15:11 (UTC)

「他宗教との関係」の節について

キリスト降誕暦2011年2月現在、カトリック教会から離れた元修道女でフェミニストのカレン・アームストロング、「聖書を破壊した」と豪語する批評的聖書学者の田川建三ら、キリスト教と異教、他宗教、異端との関係について、偏った文献のみで構成されています。この節は従来のキリスト教や伝統的神学の見解との両論併記にされるか、節そのものが項目として分割されるべきです。批判的見解が「史実」であると主張する向きがあるかも知れませんが、何が「史実」であるかに争いがあります。--イザヤ 2011年2月21日 (月) 03:07 (UTC)

  コメント 以前は私は、分割や、「キリスト教と他宗教の関係」といった記事作成に否定的だったのですが、意見を大幅に変更します。現在では分割が妥当と考えています。そもそも、たとえば仏教の記事で「ヘレニズム文化との関係」「バラモン教との関係」「ヴェーダとの関係」「ヒンドゥー教との関係」が上段に持って来られることは無いことを鑑みれば(そもそも現行の記事仏教にはそうした節は用意されていません)、「比較」の問題がこれほど前の方の節にある事自体が異様です。--Kinno Angel 2011年2月21日 (月) 03:16 (UTC)

  コメント 該当部分のかなりの部分の編集を行った者としてコメントしておきます。ユダヤ教、イスラム教関係は「アブラハムの宗教」云々で色々書かれていたものを、なるべく情報を保存しながら書き足した結果です。ミトラ教も色々書き込んだ方がいらっしゃったので、文献に当たって歪められた記述を正しながら書き足す方向で、ああなりました。ミトラ教をあそこまで書くとマニ教の話も書かなきゃいかんということで、現在の形に辿り着いたと認識しています。ただ、ご指摘の通り、分量が膨らんでバランスを逸していることは確かですし、場所の問題もありますから改善した方がよろしいでしょう。もう少し下位にもっていくなり、別記事にするのでよろしいかと思いますが、別記事にする場合はユダヤ教との関係はもう少し本記事の「歴史」の部分に書き足した方がよろしいかと思いますし、国教化までの過程でミトラ教やマニ教と激しく競合したことも短く書き足しておくべきだと考えます。文献については、キリスト教内外、そして宗派間のバランスを取ってどなたかが書いていただければそれで問題ないと思います。ただ、他宗教を邪教扱いしたキリスト教側の資料の取り扱いには十分注意するべきであることは言うまでもありません。なお、カレン・アームストロングの『神の歴史』は出版当時の英米でベストセラーになった本で、現時点での英米社会の標準的な見解として引く価値は十分にあります。--おーた 2011年2月21日 (月) 13:23 (UTC)

  報告 上記コメント三つは、ノート:キリスト教と他宗教との関係に転載しました。議論の続きはノート:キリスト教と他宗教との関係にてお願いします。--Kinno Angel 2011年2月28日 (月) 14:47 (UTC)

分割提案

  • 提案
    • 「3 他宗教との関係」節を、新項目「キリスト教と他宗教との関係」に分割することを提案します。
  • 提案理由
    • 記事キリスト教ではキリスト教についての説明のみで十分であり、それだけでも分量が膨大になります。
    • 「キリスト教と他宗教の関係」節は、イザヤさんも御指摘の通り出典文献に偏向があり、これらを改善しようとするとさらに節が肥大化するでしょう。現状でも節として相当に肥大化しています。
    • 仏教神道ヒンドゥー教イスラームでは、それぞれの宗教の説明のみが書かれ、「他宗教との比較」がこれほど大きな節として、しかもトップに近いところに配置されている構成はjawp全体からみても異様です。
    • といって、比較宗教学として研究されている領域ではあるのですから、文献も豊富ではあります。単独記事として分割した方が、中立的観点を維持しつつ、記事の発展も見込めます。--Kinno Angel 2011年2月21日 (月) 03:24 (UTC)
(賛成) キリスト教の子記事として、「キリスト教」の記事内に誘導リンクとその概要を残すのであれば、分割に賛成です。分割後の発展に期待したいと思います。--Rasalghul 2011年2月21日 (月) 07:45 (UTC)

  報告 分割しました。Rasalghulさん、おーたさん、イザヤさん、ありがとうございました。なお、イザヤさんの問題提起を、新記事のノートページにコピーペースト(転載)させて頂きます。--Kinno Angel 2011年2月28日 (月) 13:17 (UTC)

イザヤさんの提起だけでなく、その後の私およびおーたさんの書き込みも一緒にノート:キリスト教と他宗教との関係に転載しました。--Kinno Angel 2011年2月28日 (月) 13:24 (UTC)

私も賛成です。 --Nekgolsc会話2013年6月1日 (土) 03:41 (UTC)

冒頭定義文を修正します

現状、第一文に掲載されている定義文が、形式上はrefタグがつき、まるで『新カトリック大事典』が出典になっているかのように装われていますが、出典が言おうとしていることを正確に記述しておらず、出典の文章からかなりかけ離れた解釈になってしまっています。出典により忠実になるように文章を修正します。

履歴を調べてみますと、もともと『新カトリック大事典』を出典として挙げた方はかなり正しく理解していたようですが、その後に他のウィキペディアンが感情的に勝手な解釈で定義文を書き変えたようです。もともとおおむね正しく出典を用いていた文章を、原文を確認もせず感情的に自分の解釈で書き換える行為は独自の研究ですし、不正な手続きで、一種の出典の偽装でしょう。こうした出典の偽装は排除すべきでしょう。

なお、<ref>タグ内に「」カッコづけで記載されている定義文について、『新カトリック大事典』の現物を確認したところ、たしかに記載されていると検証できました。よって信頼に足る文章が確認できましたので、それに基づいた、緻密な定義文に修正します。

その作業と同時に『新カトリック大事典』だけを頼りにしていては、観点上の問題が取りざたされる可能性があると判断しましたので、定義文の他の適切な出典を探し、平凡社の『世界大百科事典』の【キリスト教】の【キリスト教の本質】の節も熟読・検証してみて、定義文として使える文を見つけ、複数の定義文を冒頭に掲載することにします。『新カトリック大事典』と『世界大百科事典』、どちらの定義文を最初に記述しようかといささか迷いましたが、今回仮に『世界大百科事典』のほうを第一文にして、『新カトリック大事典』の定義文はその直下に、(明らかに中立的だと分かるような表現を用いつつ)配置してみることにします。

なお、出典の原文では、『新カトリック大事典』でも『世界大百科』でも、キリスト教の定義文の中に、実践というキーワードが入っています。これはキリスト教を語る上で大切なものなので、どちらにも記述されているわけです。それなのに、現状のウィキペディアにの【キリスト教】の記事では実践というキーワードが記述されていません。

(ウィキペディアンの皆さんは、どちらかと言うと、知識偏重の方、いわゆる「頭でっかち」のが多いのかも知れませんね。引用されている定義文に「実践」とはっきり書かれているのに、無意識的・無自覚的なのか、そのキーワードが目にも入らず、記載漏れしてしまうし、その後、無数のウィキペディアンが定義文を読んでいるはずにもかかわらず、そのおかしさに気付きもしないのですから、なんだかウィキペディアンたちの傾向性が表れているのかもしれません。統計的に見て、ウィキペディアンにはウィキペディアンの、(若い学生が多いせいか)一般の人々とはちょっと異なった傾向、偏向がありますが(例えば、学生らしい子供っぽい <知識偏重>、<学歴崇拝>、<実際的なことが盲点になっていること> 等々です)。それはウィキペディアの外の世界、社会経験を重ねた大人の視点から見ればちょっとズレが目立つことはありますので、よくよく気を付けたほうがよいでしょう。出典に書かれているキーワードを、ウィキペディアンたちの子供っぽい性癖・習性・好みを根拠にして消去してしまい、別種の記述にしてしまうのも、一種の独自の研究であり、ルール違反です。ともかく、そういうことに陥らないように気をつけましょう。--222.146.154.231 2011年8月16日 (火) 08:48 (UTC)

  • まず、感謝申し上げます。出典内容に反している文章と言うのは勿論問題でして、そのことに今まで誰も気付かなかったというのは確かに事実であります。御指摘をありがとうございます。
  • ただ、一つの間違いを以て「ウィキペディアンの皆さんは」とまで批判対象を拡大するのは如何なものかとも思います。ただでさえ必要な批判でさえも気分は害するのに、必要の無い非難となれば尚更歓迎されませんし、良い結果も生みません。それはどこの世界でも同じでしょう。どうかお気を付け下さい。
  • さて、「実践」のキーワードについてですが、それは正教会カトリック教会聖公会メソジストなどにおいては比較的抵抗なく受け入れられると思いますが(それでも正教会からはウラジーミル・ロースキイあたりを出典にして別の観点の指摘が来そうです)、改革派教会にとってはどうでしょうか?随分色々と見識の深い方でいらっしゃるようなので(皮肉ではありません、ネットでは顔が見えませんので念のため申し上げます)、こう言えばすぐに「あ、」と気付かれるのではないでしょうか?
  • 私がこういう超教派の記事を書く時には、せめて正教会、カトリック教会、聖公会、プロテスタント(可能であれば改革派教会・メソジスト、リベラル・福音派)の文献は揃えて、出典を満遍なく用意出来るものにしか「キリスト教では」という表現を使わないようにしています。私は日本の一般の百科事典で、その辺の教派の違いに対する配慮まで行き届いているものは、残念ながら存じません(そもそも「キリスト教大事典」系ですら、執筆者個人の考え方への我田引水が目立つのです)。
  • もう少し冒頭文を、簡潔かつ「中立的観点」を満たすものに作り替えるつもりでおります。
  • 重ねて222.146.154.231さんには、良いきっかけを下さったことに感謝申し上げます。--Kinno Angel 2011年9月1日 (木) 16:36 (UTC)

再修正

222.146.154.231さんの御指摘を機会に、冒頭文を書き換える予定です。その際、予定説全的堕落の教理をとる教派の存在を鑑み、「実践」の語彙は避け、「教えを生きる」「教えに沿って生きる」といった、多くの教派で用いられる表現を志向しております。実際の修正は後日行います。妙案のある方は御教示下さいませ。--Kinno Angel 2011年9月2日 (金) 16:06 (UTC)

  報告
まず、冒頭文の規模そのものを大幅に縮小しました。また、申し訳ありませんがIPさんの作成した文章も殆ど削除させて頂きました。理由は以下の通りです。
  • 新カトリック辞典からの引用・引証が半分弱を占めている他、ラテン語表記がなぜか行われるなど(東方教会ではラテン語は殆ど使われませんし、現代のプロテスタントでもラテン語は殆ど重視されません)、IPさんのカトリック偏向が如実に出てしまっていました。中立的観点の確保が緊急の課題でした。
  • 特に「実践」を重視する文言を特徴として挙げてしまいますと、「実践」とは何ぞやという問題で教派間で議論百出の虞があり、またそもそも「実践重視とは何事だ、信仰重視だ」という教派の観点を考えれば、「実践」という語彙を(IPさんは重要視しておいでですが)安易に用いることは出来ません。
  • 多くの教派の辞典・WEBサイトなどを当たってみたのですが、簡潔かつ合理的な解決案は見当たりませんでした。各教派媒体の内容を折衷したり、比較したりするものとすることも検討しましたが、冒頭の定義文が肥大化すると、教派ごとの観点別に精緻なものとなるように志向したとしても、読者の理解の妨げになるであろうと考え、これを断念しました(将来的に再びやるかどうかは判りませんが、現時点で「断念」です)。
  • 三位一体論、キリスト論については、また別項に譲ることとして、出来るだけ定義文は簡潔なものが良いかと思います。
  • そこで、「イエスをキリストであると信じる宗教」「イエス・キリストの福音宣教・十字架・復活」の二点にまとめた冒頭文に簡潔化しました。おそらくこの二点は、(復活は錯覚であるとまで言う極端な古典的リベラル少数派を除けば)全ての教派が認めるところでありましょう。
以上、大幅な冒頭文縮小・修正の報告まで。--Kinno Angel 2011年9月3日 (土) 14:55 (UTC)

再々修正(複数教派の出典確保)

  報告 この編集につき説明申し上げます。IPさんによって出典なく三位一体について加筆がなされましたが、確かにキリスト教にとって三位一体論は外せない大事な概念ではあるものの、こうした重要な記事に加筆されるのであれば、超教派の水準を満たすだけの出典確保を、何とぞどうかお願い申し上げます(こうした重要な場面で出典が細かく必要ということについては、先月中旬にIPさんが「挙げられている出典に無い文章が加筆されている」と厳しく指摘されたばかりです)。取り敢えず、正教、カトリック、ルーテルからの出典のほか、ウェストミンスター信仰基準を出典として挙げておきました。--Kinno Angel 2011年9月4日 (日) 17:53 (UTC)

「異端」節の修正報告

  報告 この編集につき説明申し上げます。

  • そもそも「異端」というのが定義次第でどうとでもなるものであり、非常に厄介な概念であるということを、編集者の方には御承知いただきたく思います。「異端」という言葉を相対化すれば終了、というほど、コトは単純ではありません。
    • 蛇足:以前、ノート:領聖というページで、日本の正教会における「異端」という用語と、日本の西方教会における「異端」という用語の運用の違いについて、最初は話がかみ合わないということがありました。日本の正教会においては「洗礼を有効とするキリスト教ではあるが、異端である」というように西方教会を分類する術語運用をしていますが、西方教会における「異端」とは「キリスト教ではもはや無い」という場合にのみ使う術語となっており、むしろ侮蔑語の響きすらある言葉になっています。どちらが正しい術語運用だということはウィキペディアは論じる場ではありません。ただそういう違いがあるという事実を、この節の編集にかかわる皆さまに御承知おき頂きたく思います。
  • まず指摘しなければならないのですが、少々きつい物言いになってしまうかもしれませんが、無料で権威の無いウィキペディアであるとはいえ、いやしくも「事典執筆者」をアマチュアであってでも志すのであれば、今どき「カトリックとプロテスタント」という列挙にとどまるのは、うーん…如何なものかと思います。そういう私も非カルケドン派については知識も文献も不足しているのですが、せめてプロテスタント、聖公会、カトリック、正教、これら4本立ての視点は最低限持っておくべきだと思いますし、少なくとも正教、カトリック、プロテスタントについては教理関係の文献はネット上でも探索は容易です。
    • この点からまず、「カトリックとプロテスタント」となっている部分は直し、上記4本立てに改めました。また、出典を細かくつけましたのは、正教については3つの団体をまとめて異端視して記述する文献が現在見つからなかったため、プロテスタントについてはルーテル、改革派教会、バプテスト、日本キリスト教団といった、性格の異なる諸教派・団体からの出典が必要だからです。
  • 次に「カトリックからすればプロテスタントは異端であるという見方も根強くよく残っている」についてですが、プロテスタントどころか正教についても「異端である」という見方は根強く残っているとは思いますが、現状、少なくとも建前上はエキュメニズムに則った動きが主流ではあります。ベネディクト16世は正教に対して「まったき教会としては欠点がある」、プロテスタントに対しては「教会と呼ぶことはできない」と発言していますが、物議を醸した保守的な発言でさえ「異端」という用語は使っていません。
    • もちろん私も、そうした考えを持つ人々が大勢居ることは承知していますが、検証可能で信頼に足る出典が提示出来ない上に、そもそも「異端」の概論のみを述べる文章で、そこまで詳細に書く必要があるのかどうか、また詳細に書くと言ってもコンパクトに述べることが可能かどうか…私は不必要であり不可能であると考えます。
  • 以上、大幅編集の意図説明まで。--Kinno Angel 2011年9月7日 (水) 10:54 (UTC)

「職制」節の修正報告

  報告 この編集につき説明申し上げます。

  • 古代教会に直接連なる教会では、」と述べて、聖職者制を有する教会のみを「古代教会に直接連なる」という認識が示されていますが、言うまでもなくこれはプロテスタントの見解を無視したPOVでしょう。
  • なぜdeaconをbishopよりも先に持ってきたのかちょっとよく判りません。普通は「社長・部長・課長」の順に書くのであって「課長・部長・社長」とは書かない筈です。より上位のものを先に書くのが一般的であり理解もし易いでしょう。
  • 大司教枢機卿教皇等の区別は、教会の組織的発展の結果、教会行政的必要性から、主教職が細分されたものである。」についてですが、正教会やプロテスタントにおける見解からは殆ど首肯され得ましょうが、カトリック教会側からは枢機卿・大司教については兎も角、ローマ教皇についてまでこの文面に組み込まれるは到底受け入れられないでしょう(ペトロの後継者という彼らの見解が根底から崩されてしまいます)。修正しておきました。
  • 伝統的な教会においては、」という表現についてですが、「伝統的」というのは相対的なものであって、たとえば自由主義神学に対してはプロテスタント正統主義は「伝統的」と言い得ます。「正教会、カトリック教会においては、」に改めました。また「プロテスタントでは女性教職は珍しくない」を、「聖公会、プロテスタントでは女性教職は珍しくない」に改めました(聖公会を無視してはいけません)。

以上、修正報告まで。--Kinno Angel 2011年9月7日 (水) 12:01 (UTC)

父なる神とヤハウェ

この編集(差し戻し編集)につき説明申し上げます。

  • 「父」(ヤハウェ)と「子」(イエス・キリスト)と「聖霊」を神とする」が問題です。「父なる神=ヤハウェ」とは、そう言い切っているウェブページもあるにはあるのですが、そう言い切って居ない人も居るのです(寧ろ浅学な私の読み聞きしている範囲では、イコールだと言い切ったものは見た事がありません。[1])。削除しました。
  • 旧約聖書新約聖書の二つを正典とし」についてですが、聖伝との兼ね合いで、教派ごとの見解の差異を巡って非常に繊細な問題を孕む文言です。削除しました。
  • 基本的に8月中旬に上記IPさんが御指摘された通り、「出典に忠実に」文の編集をして頂くようお願いする次第です。--Kinno Angel 2011年9月19日 (月) 14:20 (UTC)

冒頭文差し戻し報告

この編集(差し戻し編集)につき説明申し上げます。

  • 前提となるお話
    • 三位一体(トリアダ)」は新約聖書に直接的な単語としては登場しません。
    • 「「父」と「子」(イエス・キリスト)と「聖霊」を神とする」については、紛れも無く所謂正統派による三位一体説の定式ですが、「子」が神かどうか、聖霊が神かどうかについては、4世紀まで議論に決着が着きませんでした。聖大ワシリイの「聖霊論」には優れた邦訳が御座いますが、この本のテーマの一つは「聖霊は神である」と明確に述べるところにあります。
      • もちろん正統派からは「新約聖書を正しく読めば聖霊は神であることは明白」ということになりますし、正統派が力を持ったのは決して帝国権力の都合というだけでなく、それなりの説得力があったからに他ならないのですが(そういう説得力がある可能性すらも認めないのなら、学問・知的営為の自殺行為でしょう)、「新約聖書の中で言及されている」と事典で言い切るのには、若干の躊躇いを禁じ得ません。
      • そもそも簡単に言い切れるほど明言されていたら、古代に命がけの論争にまでなっていません。
    • 加えてもう一つの問題として、所謂正統派のキリスト教においては、「旧約聖書にも【おぼろげにではあるが】三位一体が言及されている」もしくは「預言されている」、と捉えられていることが挙げられます。してみますと「新約聖書に言及されている」とのみ書くのは正しくありません。
  • 結論
    • 以上の諸前提から、取り消させて頂きました。
  • 蛇足:「キリスト教は聖書を読めば解る」とお考えの方が大勢いらっしゃるのが日本の現状ですが、そんな事は無いのです。本来は「歎異抄を読めば浄土真宗親鸞の本当が解る」「花伝書を読めば能楽が解る」「本を読めば茶道武道が解る」ワケではないことを深く理解していたのが日本人だった筈なのですが、どうも今の日本人は「正典(もしくは本一冊)を自己流に解釈すれば、容易に相手の言いたいことが解る」と勘違いする傾向があるようです。日本人の良識ある感性・理解力が回復して、キリスト教にも同じように理解する目を向けることが始まる事を、願わずには居られません…--Kinno Angel 2011年9月23日 (金) 14:37 (UTC)

冒頭文差し戻し報告2

この編集(2011年10月20日 (木) 03:55への戻し)につき説明申し上げます。

  • このノートページで既にIP氏からきつい指摘があったばかりなのですが、脚注欄文献に無い言葉を文献を確認せずに追加するようなことは、特にこれだけ重要な記事であれば繊細に避けなければなりません。
  • WP:NPOV#中立的な観点とは何か? 「偏りのない」「中立的な」というのはここでどのような意味で使われているのか?を参照下さい。現実的にキリスト教の大多数の教派(東方教会・西方教会いずれも)において三位一体を認めるのが殆どであり、それ以外は極少数派にとどまっている以上、極少数派については例外として記述してリンク先記事で詳細に説明すれば済む話です(既に記事中に説明がされており、冒頭文の肥大化は好ましくありません)。
  • 福音書新約聖書」だけでなく、旧約聖書にもイエス・キリストは預言されていると解釈するのが大多数の教会でして、「福音書新約聖書に記されたイエス・キリストの生涯や教えを信仰する。」は信仰内容の説明として不正確かつ不十分です。また聖伝を重視する教派の存在が捨象されてしまっています(上にも書きましたが「キリスト教=聖書」の固定観念からどうか離れて下さい)。--Kinno Angel 2011年10月31日 (月) 02:21 (UTC)
  コメント Kinno Angelさん、丁寧な説明ありがとうございます。私も「三位一体を認めるのが殆どであり、それ以外は極少数派」は同じ認識です。しかし、ご指摘のガイドでは「最も普及している見方を正しい見方として提示するものでもありません」と明記しています。またWikipedia:スタイルマニュアル (導入部)#定義文では「本文の第1文はその項目の主題についての定義を書きます」とあります。例えば「現在のキリスト教の大多数は三位一体」とは言えますが、現在の定義文キリスト教とは、父と子と聖霊(三位一体・至聖三者)を唯一の神と信じる宗教」との断定(制限)は、「キリスト教(主流派)」の定義としては正しいですが、「キリスト教(全体)」の定義としては間違いです。ウィキペディアは現状だけでなく歴史的な用途でも参照されます。現在の定義文は、多くの百科辞典での定義とも異なっています。例えば英語版の冒頭の出典でもあるBBC [2]の該当箇所では「イエス・キリストの教えをベースとした(宗教)」(It is based on the teachings of Jesus Christ)です。またfreedictionary[3]の1番目の定義では「イエスの生涯(生き方)と教えを基礎とする宗教」(The Christian religion, founded on the life and teachings of Jesus.)です。またmerriam-webster [4]の1番目の定義では「イエス・キリストから生まれた宗教で、聖書を神聖な書物とみなし、西方教会、ローマ・カトリック、プロテスタントなどの集団が名乗っている」(the religion derived from Jesus Christ, based on the Bible as sacred scripture, and professed by Eastern, Roman Catholic, and Protestant bodies )です。(別の話ですが共産主義の冒頭を、現在は主流と主張してマルクス主義特有の定義に書き換えてしまう方がおられ、大変困っていますが、それとも同じです。)ウィキペディアは国語辞典ではなく百科辞典なので、主流派も少数派も特筆性に応じて記事に併記すべきで、冒頭の定義文には、多数派特有の見解(三位一体)ではなく、複数の百科辞典などの出典もつけて、キリスト教と呼ばれているもの全体(共通)の一般的な定義を書くべきと思います。--Rabit gti 2011年10月31日 (月) 13:12 (UTC)
  コメント 適切かどうかの話を抜きにして現実を申しますが、「併記は可能」ですが「キリスト教と呼ばれているもの全体(共通)の一般的な定義を書く」のは、現時点の定義文以外には「不可能」です。「キリスト教とは何か」で共通する見解を導くというのは、思われているよりも非常に困難なのです。「三位一体を認める教派」の共通する部分を抽出してこれが限界です。そもそもEasternを「西方」としてしまうようなことで、こうした微妙な領域に踏み込まれるのはいかがなものでしょうか。可能であるとすれば「但し、三位一体を認めないごく少数の派も存在する」という一文を入れる事くらいです。--Kinno Angel 2011年10月31日 (月) 14:40 (UTC)
  コメント 私の主張は以下です。「主流派特有の定義を書く」のは非中立的ですが、「少数派を含め併記せよ」とは主張していません。「(特定の教派特有の定義ではなく)キリスト教全体(全般)に共通の定義を冒頭に書くべき」と書いています。「不可能」や「困難」とおっしゃいますが、参考までに記載した複数の出典例では記載できています(各出典の方が不正確、という主張をされるならば別ですが)。いずれの出典も「イエスのライフ(生き方、人生、生命)や教え」を冒頭に書き、「三位一体」を冒頭定義に書いてはいません。例えば、具体案は以下です(あくまで大雑把な例です)。
  • 現状(下線部分が不適切と思います。三位一体は冒頭定義には不適切。「神の子」も「信じ」の対象。「キリストを信仰」は誤解を招く。)
キリスト教(キリストきょう, ギリシア語: Χριστιανισμός, ラテン語: Religio Christiana, 英語: Christianity)とは、父と子と聖霊(三位一体・至聖三者)を唯一の神と信じる宗教[1][2][3][4]。神の子イエスをキリスト(救い主)であると信じ[5][6]、神の国の福音を説き、人類の罪を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したイエス・キリストを信仰する[6]。
  • 私の案1(新約聖書は限定ではなく、伝聞であれ聖書などで伝えられた奇跡や復活などを信じるかどうかがキリスト教かどうか、との趣旨です)
キリスト教(キリストきょう, ギリシア語: Χριστιανισμός, ラテン語: Religio Christiana, 英語: Christianity)とは、新約聖書などに記されたイエスの行いや奇跡や教えを基本に、イエスを救世主(キリスト)とみなす宗教。一神教の1つであり、多数派は「父と子と聖霊」を唯一の神として信仰する(三位一体)。
  • 私の案2(微修正案。ほぼ現状の記述のまま、三位一体より救い主を上にした。「信じる」と「信仰する」を使い分け。)
キリスト教(キリストきょう, ギリシア語: Χριστιανισμός, ラテン語: Religio Christiana, 英語: Christianity)とは、イエスをキリスト(救い主)として信じる宗教[5][6]。神の国の福音を説き、人類の罪を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したイエス・キリストを信じる。その多くは「父と子と聖霊」を唯一の神として信仰する(三位一体・至聖三者)。
--Rabit gti 2011年10月31日 (月) 15:24 (UTC)
  コメント 拝読しました。「不可能」や「困難」とおっしゃいますが、参考までに記載した複数の出典例では記載できています(各出典の方が不正確、という主張をされるならば別ですが)。」についてですが、はい、「各出典の方が不正確」と申します。そもそも英語圏っていうのは基本的にプロテスタントに傾斜しています(英語圏においては聖公会プロテスタントが多数派なのですから当り前ですが、日本人は「英語だとキリスト教について中立的に違いない」と思い込む傾向がありますね…残念ながらそれは幻想です)。…が、一部「御指摘通り」と思える部分もありました。たとえば「「神の子」も「信じ」の対象」はその通りで、これは私の悪文です。お詫び申し上げます。ただし「神の子イエスキリストであると信じる」という、助詞を変えることで容易に解決出来ます(私の意図した内容としては「は」の方が適切です)。他にも少し、「御指摘通り」と思えたところもありますし「それは違う」と思ったところもありますが、これ以上のことは少し思考を熟成させてから返答申し上げます。--Kinno Angel 2011年10月31日 (月) 15:34 (UTC)
  コメント コメントありがとうございます。しかし失礼ながら(過去のノートを拝見しても)Kinno Angelさんの主張や意見には、出典なき独自研究が多すぎると思います。現在の冒頭1文目の出典や、それを記載した経緯も拝見しましたが、「三位一体」を説明するためにあちこちから探して来た出典のようで、「キリスト教全体の冒頭説明」として適切な記述にも出典にも思えません。英語圏でプロテスタントが多いのは当然ですが、英語で書かれた百科辞典がWikipedia:信頼できる情報源では無いとか、プロテスタントに偏向しているという主張にはなりません。少なくとも英語版以外の客観的な出典(キリスト教全体の説明をしたもの)を提示すべきです。日本語でネット検索しても[5]大辞泉は「イエスをキリストすなわち救世主と信じる宗教」、日本大百科全書、ニッポニカ・プラスは「イエスをキリスト(救世主)と信じる宗教と定義づけることができる」、ジャパンナレッジは「イエス‐キリストから発して、その人格と教えを根本規準とし、また最後的なものとして信じる宗教。」、学習百科辞典[6]では「イエス=キリストを神の子と信じ,神の愛による魂の救済をもとめる宗教」です。以上は表現は違いますが、先の英語百科辞典の出典と記載内容はほぼ同一で、いずれも「三位一体」は冒頭説明していません。Kinno Angelさんが何故「三位一体」に異常にこだわっているのか理解できませんが、ウィキペディアの執筆は、独自研究や思い込みで都合の良い断片的な出典を付ければ良いのではなく、なるべく客観的・中立的・一般的な出典を確認して記述すべきです。--Rabit gti 2011年10月31日 (月) 16:05 (UTC)
>何故「三位一体」に異常にこだわっているのか理解できませんが、
単純な理由で、使用した専門的な事典・出典に全て共通して記載されているからです。貴方の提示された出典は全て非専門的な「辞典」レベルのもので、記述量も内容の質も比較になりません。キリスト教徒の書いた事典類は参考にならないというのであれば、東京大学出版会の宗教学辞典を御覧頂いても結構です。単純な一神教ではない三位一体というところは、それだけ重要なのです。その三位一体をどう理解するかで様々な教派が出現したのですから歴史理解にも外せないのです。それを「異常にこだわる」と私の偏向であるかのように仰る時点で、申し訳ありませんがこの領域にズブの素人でいらっしゃると解されても仕方ありません。--Kinno Angel 2011年11月1日 (火) 00:44 (UTC)
さて、
>Kinno Angelさんの主張や意見には、出典なき独自研究が多すぎると思います。
「西方」と「東方」を間違えたり、専門性の高い記事の根拠に一般向け辞典を使用されたり、そうした方が「独自研究が多すぎる」と仰るのはちょっと穏やかではありませんね。例えば私が記事「仏教」の冒頭文や記事「共産主義」の冒頭文を、大辞泉、日本大百科全書、ニッポニカ・プラス、ジャパンナレッジなどを元に大幅に修正かけたりノートでこれらを論拠に「貴方の文章は独自研究が多すぎると思います」などと言ったらどう思われますか?
別の話ですが共産主義の冒頭を、現在は主流と主張してマルクス主義特有の定義に書き換えてしまう方がおられ、大変困っていますが、それとも同じです。」と仰っておいでですが、Rabit gtiさんが教派ごとに大きく異なる見解・教理があるという繊細さがある記事を巡り、本ノートページにおいて使用された大辞泉には「古くはプラトンなどにもみられるが、現代では主としてマルクス・エンゲルスによって体系づけられたマルクス主義思想をさす。」とありますし、大辞林にも「ギリシャ時代のプラトンあるいはトーマス=モアのユートピアなどにもみられるが、現代では主として、マルクス・エンゲルスにより確立されたマルクス主義思想をさす。」とあります。しかも大辞泉では語義2として、マルクス主義における定義を載せていますし、しかもノート:共産主義Rabit gtiさんが頑張っていらっしゃる「生産手段」の語彙も、大辞泉ではハッキリと定義文に明記していますよ?
…勿論、これを以てRabit gtiさんの主張が間違っていると申すつもりはありません(共産主義についてなど私は素人以下でしかありません)、念の為。
要するに「一般向けの内容も質も低い辞典を、専門性の高い繊細な記事を構成する冒頭文に使うというのは危険である」ということを指摘するために上記を申しました。大辞泉、日本大百科全書、ニッポニカ・プラス、ジャパンナレッジといった一般向け辞書を専門性の高い議論の場で使い、私について「独自研究が多い」と批判されたことについては訂正をお勧めします。そうでないとノート:共産主義での主張が著しく不利になりますよ。
結論だけ申しますと、3番目で殆ど異議ありません。要するに三位一体が大事な要素として入っていればそれでいいので。ただ一箇所直したいところが御座います。
キリスト教(キリストきょう, ギリシア語: Χριστιανισμός, ラテン語: Religio Christiana, 英語: Christianity)とは、イエスをキリスト(救い主)として信じる宗教[5][6]。神の国の福音を説き、罪ある人類を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したイエス・キリストを信じる。その多くは「父と子と聖霊」を唯一の神として信仰する(三位一体・至聖三者)。
人類の罪を救済するって日本語的にヘンです。罪はギリシャ語でアマルティア(古典再建音でハマルティア)で、的外れという意味であり、「神から離れている状態」を表します。キリスト教では多くの場面でこれを「病」とたとえたり結びつけたりして解釈するのですが、「人間の病気を救う」とは言わない筈です。「病気の人を救う」とは言うでしょうけれど。
上記文案で反対なければ、上記文案で訂正します。--Kinno Angel 2011年11月1日 (火) 13:15 (UTC)
文案を修正します。太字箇所が変更部分です。
キリスト教(キリストきょう, ギリシア語: Χριστιανισμός, ラテン語: Religio Christiana, 英語: Christianity)とは、イエスをキリスト(救い主)として信じる宗教[5][6]。神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したイエス・キリストを信じる。その多くは「父と子と聖霊」を唯一の神として信仰する(三位一体・至聖三者)。
「人類」としてしまいますと、福音派、特に二重予定説を認める教派から異論が出そうです(全人類を救うためではないというのが彼らの大半の主張なので)。「人間」としてぼかした方が適切でしょう。
当記事・当領域は、文言一句だけで、これほどにまで繊細な問題を含むのです。以前「救世主」か「救い主」か、新約聖書におけるギリシャ語原文まで検証して、いずれが中立性を満たすのかだけで議論を経て解決する手順が必要だったケースすらありました。
48時間以内に異論が無ければ、上記文案で修正します。--Kinno Angel 2011年11月2日 (水) 12:44 (UTC)
  コメント Kinno Angelさんへ。最終案に賛成です。理由は、当初から私が主張の (1)1行目が「イエスをキリスト(救い主)として信じる宗教」となった(大多数の百科辞典等と同等の記述となった。冒頭定義文に専門用語は最小限で簡潔になった) (2)大多数とはいえ教派にもよる「三位一体」が2行目となり、更に「多くは」の限定付きとなった、の2点を取り入れて頂いたためです。以下は補足です。キリスト教に限らず多くの宗教では、各信者は自分の宗教が真理と信じており、「キリスト教」などの名称は主に他称(自称にも使うが区別用)です。「キリスト(の教えや奇跡など)を信じる人が『キリスト教徒』と他者から呼ばれている」のであり、「三位一体を神とする宗教(のみ)が、キリスト教と呼ばれている」のように誤解される記述は避けるべきと思っています。従って(1)は世間一般での他称(一般の百科辞典等)も重要です。また(筆者が持論を書く場合も多い)市販の百科辞典等より、ウィキペディアでは更に中立性が求められますが、キリスト教(や共産主義)は、歴史的に「正統、異端」の論争・対立が激しいため、中立性には特に配慮する必要があると思います。個々の専門的な出典で、特定教派(セクト)だけを正統のように書いているものは多数ありますが、これらを出典としても中立的とは言えません。なお「共産主義」の話は、百科辞典に色々な定義がある事は議論の前提で、一般名詞(communism)か固有名詞(Communism)かでも異なり、私は自分の「有利、不利」のために発言しているのでもありません。私はどの記事・分野でも「特定の出典を理由に、特定の立場が全体であるように記述してはいけない」との立場です。繰り返しですが、以上の私の意見を反映して頂いた形のため、最終案に賛成です。--Rabit gti 2011年11月5日 (土) 09:33 (UTC)
  コメント 個々の文言には異論があることもお断りしなければならないのですが、結論として合意がなされた以上、ここで議論してもお互いに実りは無いでしょう。結論としては合意がなされたことは誠に喜ばしいものですと申し上げ、ここで一区切りとさせて頂きます。Rabit gtiさん、ありがとうございました。
なお、合意成った状態での版の次に、出典を精緻化して書き加えたものがあります。この編集意図については節「冒頭文編集報告(2011年11月5日 UTC)」で説明申し上げます。--Kinno Angel 2011年11月5日 (土) 14:34 (UTC)
  コメント (話の流れ上、スレッドでここに書きます)Kinno Angelさん、合意案の記事への反映、ありがとうございました。なお「合意」とはいえ、私の意見の中心は「三位一体を、キリスト教自体の定義(= 1行目)とはせず、教派にもよる事を明記」だけですので、それ以外の今後の変更に異議を主張する積もりはありません。--Rabit gti 2011年11月5日 (土) 15:02 (UTC)
  報告 ノートでの議論を参照してもらうよう、また、IPさんから過去批判された「出典に無い文章を書き加える行為」を防止するための、編集者向けの告知テンプレを添付しました。ローカルルールとしての合意が正式になされた訳ではありませんので、「合意」という文言は避け、出来る限り文言を軟らかくしました。異論があれば御指摘下さいませ。--Kinno Angel 2011年11月5日 (土) 14:34 (UTC)

冒頭文編集報告(2011年11月5日 UTC)

この編集につき報告申し上げます(たぶんRabit gtiさんの仰る主張内容にも抵触しない筈です)。

  • 後で気付いたのですが、「多く」というのはWikipedia:言葉を濁さないに抵触しています。事実として圧倒的多数の派が該当するので「多く」でも良いかとも思わなくも無いのですが、具体的に列挙した方がより良いと思われます。
    • 以上の理由から、具体的教派名を列挙しました。これなら「主流派」などと書くよりもより中立的で、しかも事実をより正確に反映しています。
    • さらにそれぞれの教派ごとの出典を添付し、「一般向け辞典による不正確さ」「特定教派の文献にのみ頼る非中立性」を回避しました。
  • 以上、編集報告まで。--Kinno Angel 2011年11月5日 (土) 14:34 (UTC)
  コメント 冒頭は「多くの」でも以下に明記してあれば良いとも思いますが、列挙して頂いたお陰で各出典との関係も明確化でき、更に良くなったと思います。--Rabit gti 2011年11月5日 (土) 15:02 (UTC)
Rabit gtiさん、ありがとうございます。--Kinno Angel 2011年11月7日 (月) 04:25 (UTC)

編集報告(2011年11月7日 UTC)

この編集につき報告申し上げます。直前の方による編集以外の部分の修正も含んでいます。

  • ユダヤ教から派生した一神教である。」について
    • まず、キリスト教を「一神教」とするかどうかは「一神教」の定義次第です。イスラームからすればキリスト教は三位一体を教義として保持する以上、厳密な一神教ではありません。「三一」という表現がキリスト教大事典にもありますが、単純に「一神教」と言うのにはこのように見解が分かれます。
    • 「ユダヤ教から派生した」とはよく言われるのですが、キリスト教側は「アブラハム、イサク、ヤコブの神を礼拝するイスラエルの民の正統な継承者」を自認しているのであり、自らを「派生」とは思っておりません。もちろんユダヤ教側も同じ自認をしているのですが、いずれにしても「キリスト教=ユダヤ教からの派生」というのは、ユダヤ教POVとなります。
    • 以上の問題があることから、教義・教理節においてトップの定義文とするには不適切極まりないので削除致しました。
  • なお、聖母崇拝や天使崇拝も見られることから、厳密な一神教ではないともされる。」について(有体に申しますがあまりに酷いですよ)
    • まず前提として申しますが、これはプロテスタント(そのうち特に福音派)がカトリック教会を非難する際に用いる論法です。(書いた人は意図していないのでしょうけれど)結果的にプロテスタントPOVの疑いがあります。
    • 仮にプロテスタントの言い分が正しいという立場をとるとしても、プロテスタントは自らについてこの文章が適用されることを拒絶します。事実、プロテスタントには正教会カトリック教会にみられるような「マリヤ崇敬」は(ごくごく一部を除き)みられません。
    • 正教会・カトリック教会・東方諸教会聖公会においては、「崇拝」(ラトレイアもしくはラトリア)と「崇敬」(プロスキュネーシスもしくはプロスキニシス)について、別語彙を用いて別概念として扱っています(宗教学をやったことのある人間では常識の範囲です)。「崇拝も崇敬も同じだろw」といった見解もあるにはありますが、少なくとも当該教派ではそう認識されてはいませんし、別語彙が用いられていることは事実です。「崇拝と崇敬を同一視する特定見解」POVです。
    • そもそも「厳密な一神教ではない」というのなら、三位一体論の方こそ問題・議論になるのですが、これについて触れない一方で、なぜ聖母崇敬についてのプロテスタントPOV通俗論が「厳密な一神教ではない」の論拠として取り上げられるのかが意味不明です。
    • 以上の理由から削除致しました。
  • 第1ニカイア公会議以降の」について
    • 文案によっては復活させることも有り得ます。
    • まず、「三位一体」(トリアス)は、第一ニカイア公会議(325年)で初めて登場した語彙ではありません。2世紀テルトゥリアヌスが最初期に使用しています。
    • 様々なところで「第一ニカイア公会議以降に三位一体論」といった記述がJAWPで見かけられるのですが、そもそも第一ニカイア公会議だけでなく、カルケドン公会議に至るまで三位一体論を巡っては議論が継続されていました。聖大ワシリイの『聖霊論』が執筆されたのも第一ニカイア公会議後のことです。
    • 最初、「カルケドン公会議」という文言を入れようかとも思ったのですが、カルケドン公会議を東方諸教会は認めていませんため、推敲に難儀しました。
    • 確かに、第一ニカイア公会議において、はじめて三位一体が公会議上で定式化されたという意味では、三位一体論において重要な意味合いがあり、上で申しましたように「文案によっては」復活させることも有り得ます。しかしこれまでの文章ですと、三位一体論が第一ニカイア公会議に始まり第一ニカイア公会議で決着が着いたかのような誤解を生じかねません。
    • 以上の理由から、当面削除と致しました。
  • 蛇足:いつも思うんですが、なぜ信頼できるレベルの出典も全くつけないでこういう微妙な領域で通俗的なレベルの内容で記事を編集する方がいるのか理解に苦しみます…たとえば私が完全に門外漢である記事神道仏教でテキトーかつ通俗的なレベルの事を書いたら、他の編集者達からどう思われるでしょうね?--Kinno Angel 2011年11月7日 (月) 04:25 (UTC)

画像削除理由

Famous Christians.jpg削除しました。理由を以下に述べます。

…以上みてみますと、どうも「(キリスト教で著名な活動をしたかどうかに関わらず)職業に偏りなく集めた」って印象を受けますね。聖職者(教派バランスは一応とれてはいます、キリル1世、ヨハネ・パウロ2世、キング牧師)、マリア・テレジアニコライ2世などの王侯貴族、ガリレオ・メンデルなどの科学者、ロックフェラーのような実業家、マザーテレサやナイチンゲールのような福祉・医療活動家、作家・作曲家・画家といった芸術家、コロンブスのような冒険家(?)など…(しかし人種はキング牧師以外、著しく白人に偏って居ますね)。確かにキリスト教徒は「キリスト教に直結して業績を残す人間」だけで構成されるわけではありませんから、その着眼点は面白いですし、職業上のバランス配慮も面白いとは思います。

しかしクリスチャンというのは「この世で認められる業績を遺した有名人だけ」じゃないわけです。私の好みで言えば、名前も残って居ない右盗(八端十字架参照)や、ミレーの落穂拾いに書かれた農婦を「クリスチャン一覧」の画像にぜひとも加えたいところです。

以上、個人的には大変興味深い面白い画像だとは思いますものの、記事キリスト教においては「クリスチャンのイメージ」を偏った形(「有名人」に偏った形)で植え付けかねないという意味であまり良い画像では無いと判断し、削除致しました。--Kinno Angel会話2012年3月4日 (日) 11:07 (UTC)

壊れたリンク

壊れたリンク:

--ゼラバト ⇔ 会話 2013年8月18日 (日) 16:36 (UTC)

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