話題を追加

この記事は一度削除されています。削除に関する議論はWikipedia:削除依頼/田岡一雄をご覧ください。


関連項目の田岡俊次は血縁者なのでしょうか?検索してもそういった情報は見当たりませんでしたが。難民 2005年8月23日 (火) 16:41 (UTC)[返信]

出典について 編集

  • 2007年5月7日に私が加筆した部分の出典は、山平重樹『一徹ヤクザ伝 高橋岩太郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2004年、ISBN 4-344-40596-Xです。なお、「関連図書」と「参考文献」を分けました。「参考文献」とは、私が記事を執筆した際の検証可能な出典と云うことです。単なる関連本と分けました。検証可能な出典は、Wikipediaのルール上どうしても明示しておかなければなりません。もしこれがなければ、記事は好き放題に削除できることになるからです。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年5月8日 (火) 03:58 (UTC)[返信]
  • 「帰り際に」「一流割烹」と書かれてありますが、検証可能な出典の明示をお願いします。--竜造寺和英 2007年5月8日 (火) 14:51 (UTC)[返信]
    • 検証可能な出典の明示がなかったので、「昭和15年(1940年)8月2日、山口登は、東京浅草の浪花家金蔵宅で、籠寅組幹部と話し合いを持った。このとき、山口登はボディーガードに客分の中島武雄を連れていた。和解金として用意した、十円札で1000円の札束を胴巻に入れていた。籠寅組からは5人が臨席した。“広沢虎造を籠寅組には貸さない”旨を伝えたが、籠寅組の5人に襲われた。中島が日本刀で刺殺された。山口登は庭に出たが、日本刀やあいくちで18ヶ所の傷を受けた。ただ、胴巻の札束が刃を止め、一命を取り留めた。浪花家金蔵が浅草の地回りの一団を連れてきたために、籠寅組の刺客たちは退散した」と変更しました。出典は、飯干晃一『山口組三代目 1 野望篇』徳間書店<文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9のP.57~P.59です。--竜造寺和英 2007年5月13日 (日) 22:53 (UTC)[返信]
  • 検証可能な出典がなかったため、「一流割烹」の文字を削除しました。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年5月13日 (日) 22:53 (UTC)[返信]

田中禄春(本名は韓禄春)」と書き換えましたが、検証可能な出典は、飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0のP.147です。--竜造寺和英 2007年6月1日 (金) 17:25 (UTC)[返信]

「昭和56年(1981年)、急性心不全により68歳で死去したが」を「昭和56年(1981年)7月23日、急性心不全により68歳で死去したが」と修正しました。検証可能な出典は、溝口敦『撃滅 山口組vs一和会』講談社<+α文庫>、2000年、ISBN 4-06-256445-9のP.312です。--竜造寺和英 2007年6月9日 (土) 12:10 (UTC)[返信]


「昭和38年(1963年)3月、警察庁は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会の5団体をを広域暴力団と指定し、25都道府県に実態の把握を命じた」、「昭和39年(1964年)1月、「暴力取締対策要綱」が作られた」、「同年3月26日、警察庁は改めて広域10大暴力団を指定した。10大暴力団は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会、東京・住吉会、東京・日本国粋会、東京・東声会、川崎・日本義人党、東京・北星会だった」と加筆しましたが、検証可能な出典は、飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0のP.221~P.222です。--竜造寺和英 2007年6月10日 (日) 09:15 (UTC)[返信]


「エピソード」の章を起こして、一部の文章をそちらにまとめました。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月10日 (日) 09:15 (UTC)[返信]


明友会事件を加筆修正しました。検証可能な出典は、飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0のP.156~P.162です。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月12日 (火) 02:47 (UTC)[返信]


夜桜銀次事件については、『山口組50の謎を追う』洋泉社、2004年、ISBN 4-89691-796-0のP.20~P.23と芹沢耕二北村永吾天龍寺弦『突破ヤクザ伝 夜桜銀次 平尾国人』竹書房、2006年、ISBN 4-8124-6311-4を出典として加筆修正しています。。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月13日 (水) 08:16 (UTC)[返信]


「同年5月23日、田岡一雄は、東京で倒れ、渋谷区セントラル病院に入院した」と加筆しましたが、検証可能な出典は、溝口敦笠井和弘ももなり高『荒らぶる獅子 第5巻』竹書房、2004年、ISBN 4-8124-5905-2のP.33です。松山抗争の出典は、「国会会議録・第046回国会 地方行政委員会 第54号」「国会会議録・第046回国会 地方行政委員会 第55号」正延哲士『瀬戸内遊侠伝 博徒・森川鹿次の生涯』洋泉社、2000年、ISBN 4-89691-458-9です。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月13日 (水) 18:29 (UTC)[返信]


「エピソード」を「人物・エピソード」と書き換えました。また、時系列で追える事柄を、「人物・エピソード」から「経歴」に移動させたり、重複しますが「経歴」の方にも書き加えました。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月14日 (木) 07:45 (UTC)[返信]


「昭和32年(1957年)10月、田中禄春は、大阪市淀川区十三中川組中川猪三郎組長の紹介で、持参金を持って、三代目山口組田岡一雄組長の盃を受け、田岡一雄の若衆となった。その後、田中禄春は、大野組組員だった桂木正夫(後の四代目山口組若頭補佐、五代目山口組舎弟頭補佐)を若衆とした。それから、田中禄春は、富士会を結成し、富士会会長となった」と加筆しました。出典は、『柳川組の戦闘』角川書店<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0のP.147です。--竜造寺和英 2007年6月15日 (金) 09:09 (UTC)[返信]


鶴田浩二襲撃事件を加筆しました。出典は、飯干晃一 『山口組三代目 1.野望篇』徳間書店<文庫>、1982年、ISBN 4-146421-8のP.103~P.131です。--竜造寺和英 2007年6月17日 (日) 00:09 (UTC)[返信]


飯干晃一『山口組三代目 1.野望篇』徳間書店<文庫>、1982年、ISBN 4-146421-8のP.133~P.144を出典として加筆しています。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月18日 (月) 02:52 (UTC)[返信]


田岡一雄氏の出身地を、「三庄村」にしました。三加茂町でも間違いではありませんが、当時の名前は合併前で「三庄村」だったようです。出典は溝口敦笠井和弘ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4のP.18です。--竜造寺和英 2007年6月18日 (月) 21:16 (UTC)[返信]


「父は、田岡一。母は、ナカ。田岡一は、田岡一雄が生まれる前に、死亡した」、「大正8年(1919年)8月、母・ナカが過労のため、死亡した」と加筆しました。検証可能な出典は、溝口敦笠井和弘ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4のP.18とP.19です。--竜造寺和英 2007年6月18日 (月) 21:16 (UTC)[返信]


田岡一雄氏の来歴を時系列に合わせて、まとめ直しました。ご了承ください。なお、内容は一切変えていません。--竜造寺和英 2007年6月18日 (月) 21:16 (UTC)[返信]


溝口敦笠井和弘ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4と飯干晃一『山口組三代目 1 《野望篇》』徳間書店<文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9を出典として修正しています。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月19日 (火) 09:33 (UTC)[返信]


別府事件を加筆しました。出典は大分の歴史と自然 大分ヤクザの系譜芹沢耕二北村永吾天龍寺弦『突破ヤクザ伝 夜桜銀次 平尾国人』竹書房、2006年、ISBN 4-8124-6311-4です。他の部分の出典は、『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0です。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月20日 (水) 08:28 (UTC)[返信]


  • 「昭和39年(1964年)の「第一次頂上作戦」においては、資金源の要であった神戸港の港湾事業に司直のメスが入り、子飼いの甲陽運輸までも業務監査を受ける惨状となって、山口組は港からの撤退を余儀なくされた」と書かれてありましたが、この部分を、『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0と溝口敦笠井和弘ももなり高『荒らぶる獅子 第4巻』竹書房、2004年、ISBN 4-8124-5811-0と溝口敦笠井和弘ももなり高『荒らぶる獅子 第5巻』竹書房、2004年、ISBN 4-8124-5905-2を出典として、さらに詳細に加筆しました。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月20日 (水) 19:20 (UTC)[返信]
  • 「同年3月、名古屋市の「春日荘別館」で、森田政治と三代目山口組若頭地道行雄が五分の兄弟を交わした」と加筆しましたが、出典は山平重樹『一徹ヤクザ伝 高橋岩太郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2004年、ISBN 4-344-40596-XのP.279です。--竜造寺和英 2007年6月20日 (水) 19:20 (UTC)[返信]
  • 他の部分は、『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0を出典として加筆しています。--竜造寺和英 2007年6月20日 (水) 19:20 (UTC)[返信]


溝口敦笠井和弘ももなり高『荒らぶる獅子 第5巻』竹書房、2004年、ISBN 4-8124-5905-2と溝口敦笠井和弘ももなり高『荒らぶる獅子 第6巻』竹書房、2005年、ISBN 4-8124-6086-7を出典として加筆しています。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月21日 (木) 21:48 (UTC)[返信]


「そして最年少」と「激しい口論」と書かれてありますが、検証可能な出典の明示をお願いします。--竜造寺和英 2007年6月22日 (金) 10:25 (UTC)[返信]


飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0を出典として加筆しました。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月22日 (金) 18:06 (UTC)[返信]


山平重樹『北海道水滸伝』双葉社<文庫>、1999年、ISBN 4-575-50698-2と『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0と溝口敦・笠井和弘・ももなり高『荒らぶる獅子 第7巻』竹書房、2005年、ISBN 4-8134-6224-Xを出典として加筆しています。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月23日 (土) 02:53 (UTC)[返信]


溝口敦『撃滅 山口組vs一和会』講談社、2000年、ISBN 4-06-256445-9を出典として大阪戦争を記述しています。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月23日 (土) 10:06 (UTC)[返信]


溝口敦・笠井和弘・ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 2』竹書房、2003年、ISBN 4-8124-5764-5を出典として、谷崎組との抗争を加筆しています。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月23日 (土) 20:21 (UTC)[返信]


「元々大阪を地盤にしていた柳川組は、大阪に進出してきた他の山口組系列化の団体と紛争を起こした。山口組は各組の利害を調整するために南道会藤村唯夫会長を、大阪地区の総責任者としたが、柳川組の膨張は止まらなかった。山口組若頭・地道行雄は、柳川組を他府県に進出させることを提案し、田岡一雄は最終的に了承した」と加筆しましたが、出典は飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0です。--竜造寺和英 2007年6月24日 (日) 01:03 (UTC)[返信]


溝口敦・笠井和弘・ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 2』竹書房、2003年、ISBN 4-8124-5764-5を出典として「小松島抗争」を加筆しています。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月24日 (日) 06:51 (UTC)[返信]


「同年、田中清玄や菅原通済と連携した麻薬追放国土浄化同盟を結成し、山岡荘八、福田恆存、市川房枝らとともに麻薬撲滅運動を展開した」の部分を「同年、田中清玄や菅原通済と連携した全日本国土浄化同盟を結成した。全日本国土浄化同盟の総本部は、神戸市中央区橘通の山口組本部に置かれた。全国国土浄化同盟は、山岡荘八、福田恆存、市川房枝らとともに麻薬撲滅運動を展開した」と修正しています。検証可能な出典は、溝口敦『撃滅 山口組vs一和会』講談社、2000年、ISBN 4-06-256445-9 のP.140です。


溝口敦『撃滅 山口組vs一和会』講談社<+α文庫>、2000年、ISBN 4-06-256445-9を出典として、加筆しています。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月26日 (火) 02:41 (UTC)[返信]


沖縄戦争については、溝口敦『撃滅 山口組vs一和会』講談社<+α文庫>、2000年、ISBN 4-06-256445-9を出典として加筆しています。--竜造寺和英 2007年6月26日 (火) 22:09 (UTC)[返信]


菅谷政雄の部分は、正延哲士芹沢耕二赤名修『武闘王ボンノ 第3巻』竹書房、2001年、ISBN 4-8124-5514-6と正延哲士芹沢耕二赤名修『武闘王ボンノ 第4巻』竹書房、2001年、ISBN 4-8124-5515-4を出典として加筆しています。残りの部分は、溝口敦『撃滅 山口組vs一和会』講談社<+α文庫>、2000年、ISBN 4-06-256445-9を出典として加筆しています。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月28日 (木) 02:44 (UTC)[返信]


溝口敦・笠井和弘・ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4を出典として、一部の表記を変えています。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月28日 (木) 12:53 (UTC)[返信]


「姫路事件」を溝口敦『撃滅 山口組vs一和会』講談社<+α文庫>、2000年、ISBN 4-06-256445-9 を出典として加筆しています。「山口組の北海道進出失敗」を山平重樹『北海道水滸伝』双葉社<文庫>、1999年、ISBN 4-575-50698-2を出典として加筆しています。--竜造寺和英 2007年6月28日 (木) 20:55 (UTC)[返信]


「田中清玄狙撃事件」を「国会会議録・第46回国会予算委員会第4分科会第2号」「第077回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第22号」を出典として加筆しています。ご了承ください。--竜造寺和英 2007年6月29日 (金) 02:39 (UTC)[返信]


218.110.146.169さん、おはようございます。理由もなく記事を削除するのは止めてください。Wikipedia:検証可能性では、「出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります。このため、執筆者は出典を明記すべきです。定評のある情報源がない場合、その話題に関する記事はウィキペディアで立てるべきではありません」とあります。削除することも「ある編集」に相当します。したがって、記事を元に戻しました。削除されるのならば、削除部分が誤っていることをご明示ください。--竜造寺和英 2007年7月6日 (金) 19:25 (UTC)

竜造寺さん。この項にかぎらずヤクザ関係の記事見たら、あなたの書き込みは全面的に単なる年表的羅列に終始してますね。とても辞典の記述とはいえません。しかもこの田岡の項ではもっぱら部下の行動や山口組の行動までが事細かに書いてある。こんな調子で政治家や作家の項目を書いたらどうなるか。あなたがwikiから退散したら、あなたの記述は速攻で削除され、あなた以前の質の高い記述に戻されると思いますが、何しろあなたはひまじんらしいですから、当分はあきれつつ放置されるのでしょう(失笑)--以上の署名のないコメントは、218.110.146.107会話投稿記録)さんが 2007年7月6日 (金) 22:27 に投稿したものです。


来歴は年表的羅列ですよ。他の記事もご覧になってください。山口組は田岡一雄の独裁的な組織なので、部下の行動は田岡一雄の意思なんですよ。--竜造寺和英 2007年7月7日 (土) 00:40 (UTC)[返信]

へえ。じゃあ独裁者スターリンの記事はソ連邦の歴史の年表的羅列でよいのですか?(失笑) あなたが書き込む前の田岡の記事も、比較的マトモな「文章」になっており、単なる事実の羅列ではありません。--以上の署名のないコメントは、218.110.146.107会話投稿記録)さんが 2007年7月7日 (土) 01:14 に投稿したものです。

何か勘違いしていませんかwww。暴力団ミニ講座には、「暴力団社会は富も権力もすべて親分に集中する仕組となっており、大きな組織の親分ともなれば、自ら違法なカネ儲けをする必要はなく、組員が苦労して稼いだカネを上納金として収奪し、組織の運営費や活動資金に充てるほか、豪邸を構え、高級外車を乗り回すなど、豪奢な生活を送る資金として恣意的に際限なく使用しているのが実態です」と書かれています。三代目山口組は田岡一雄のものだったのです。「じゃあ独裁者スターリンの記事はソ連邦の歴史の年表的羅列でよいのですか」と主張されるのならば、まずはその論拠となる出典を明示してください。Wikipedia:事実を確認するには、「 たとえあなたがそのことを知っていると考えたとしても、読者が事実かどうかを確認することができるようにするため、そして読者がさらなる情報を得られるようにするため、出典を明らかにしてください」と書かれてあります。まずは、論拠をご提示ください。--竜造寺和英 2007年7月7日 (土) 01:57 (UTC)[返信]


鹿両性証明さん、こんばんは。記事を削除されていますが、これではわかりにくくなると思います。山口登氏が死亡したことを明記しないと、なぜ田岡一雄氏が三代目山口組を継いだのかがわかりません。藤田仙太郎氏が山口登の若衆となったことを明記していなければ、舎弟会で藤田仙太郎氏が田岡一雄氏を三代目山口組就任に影響を与えたことを理解できません。また、岡精義氏が港湾荷役の下請け業となり、東南アジア各地の湊の軍役荷役に従軍したことを明記していなければ、なぜ田岡一雄氏が岡精義氏に港湾荷受業務の企業舎弟にしたのかが理解できません。従って、記事を元に戻しております。御了承ください。--竜造寺和英 2007年7月24日 (火) 09:04 (UTC)[返信]

整理が必要では編集

本文もノートも非常に読みにくい。整理してもよろしいでしょうか。--Gorgo-13 2007年8月11日 (土) 09:13 (UTC)[返信]

本文は現在、当方が整理中です。ノートも整理すべきかと思いますので、ご協力いただけないでしょうか?(一応、私も整理依頼から飛んできたのですが…)--May.Low_[lounge][Cont.][Mail] 2007年8月12日 (日) 10:43 (UTC)[返信]
追記。出典はノートでなく記事内に記述すべき物ではないでしょうか?そもそも此処に記述している事が間違いだと。WP:CITEも熟読して頂きたいですね。一応、順次本文へと移動します。--May.Low_[lounge][Cont.][Mail] 2007年8月12日 (日) 10:53 (UTC)[返信]
整理といますか重要人物だと思いますので、他の人物のことで埋もれないようにかなり「ダイエット」が必要ですね。後ノートも水平線を多用しすぎるようです。--Yanoken 2007年8月12日 (日) 11:58 (UTC)[返信]
問題はそこなのです。舎弟にした、と言うだけの他の人物の事、直接は関係の無い事件まで記載されているのです。これが可読性を保てなくなる原因かと。飽く迄此処は「岡田一雄」本人の出来事を記す場所ですから。--May.Low_[lounge][Cont.][Mail] 2007年8月13日 (月) 03:30 (UTC)[返信]
了解しました。--Gorgo-13 2007年8月13日 (月) 12:57 (UTC)[返信]

まずノートの方から、可視性を良くするため無駄な改行や項目を削除します。--Gorgo-13 2007年8月13日 (月) 14:03 (UTC)[返信]

とは言ってみたものの大変な作業です。--Gorgo-13 2007年8月13日 (月) 14:17 (UTC)[返信]
羅列で非常に読みにくい。--鍋山 2007年8月13日 (月) 16:06 (UTC)[返信]
私も本文の方整理させていただいてもよろしいでしょうか。--Yanoken 2007年8月15日 (水) 10:08 (UTC)[返信]

竜造寺氏が書き込む前に戻し、そこから年表的羅列にならないように肉づけするのがよいと思う。事件の経緯はさらっと書き、むしろその背景や影響に力点を置くべき。最終的には一読して田岡の社会的役割がすっきわかるような文章を希望します。以上の署名の無いコメントは、210.132.129.36(会話履歴)さんによるものです。

同意します。読む人のことを無視した自己満足(俺は物知りだ)のための記事。本当に読みにくい。時間も十分に置きましたので竜造寺和英氏の書き込む前に戻します。--Gorgo-13 2007年8月25日 (土) 14:30 (UTC)[返信]

せっかく整理されても捨てハンで戻されたようなので、差し戻ししました。--Jirocho 2007年9月2日 (日) 06:33 (UTC)[返信]

報告編集

Wikipedia:表記ガイドに沿って、表記してください 編集

Wikipedia:表記ガイドの「年月日・時間」には、「例:[[平成]]12年([[2000年]])[[3月4日]]」となっています。表記ガイドに沿った表記を勝手に変えないでください。--天使の羽根 2008年2月21日 (木) 23:29 (UTC)[返信]

天使の羽根さん、こんにちは。ご存知のようにこの項目は非常に重複部分、脱字等が多く、大変読みにくい記事になっています。表記ガイドどおりにした結果、時系列がわかりにくくなっているために、せめて西暦を最初にして青リンクが最初に来るように表示する、という苦肉の策だったのですが、気分を害されたようで申し訳ありません。
では、このような記事に対する正式な手順を踏んで、Wikipedia:修正依頼に出すことにします。現時点で本項目は全面的な整理が必要な記事です。表記ガイド同様、以下の点にも注意を払っていただくようお願い致します。
  • 何度も同じ言葉を繰り返さず、名字のみあるいは代名詞などで言い換え、句読点も減らし、文章もまとめる。例えば、

安原政雄は、「新居良男を見舞いに行くために、小松島市に渡る」と主張した。江原警部補の警官隊は、山口組組員115人の身体検査をしたが、武器は発見できなかった。江原警部補の警官隊は、山口組組員115人の乗船を許可し、山口組組員115人の乗り込んだ汽船に、同乗した。また、本多会副会長・酒井吾意知も本多会組員2人を連れて、山口組組員115人の乗り込んだ汽船に、同乗した。徳島県警本部は、兵庫県警から山口組組員115人が小松島市に向かったとの連絡を受け、小松島港に警官隊を待機させた。徳島県警の警官隊は、小松島港で、山口組組員115人の身体検査を行った。武器は発見されなかった。警官は、酒井吾意知と話し、小松島警察署署長と面会する約束を取り付けた。徳島県警は、400人の警官隊を小松島市内に配置した。山口組組員115人は、福田組事務所に向かった。警官隊は、福田組事務所前で、山口組組員115人に対して、道路の通行止めを行った。小松島警察署署長は、酒井吾意知と会い、本多会が和解したい意向であることを確認し、その後、安原政雄を小松島警察署に呼び、本多会の意向を伝えて、本多会と和解するように説得した。
という部分は

安原は新居良男を見舞いに行くために小松島市に渡ると主張した。警官隊は組員達の身体検査をしたが武器は発見できなかったため、組員らの乗船を許可し自分達も汽船に同乗した。また、本多会の副会長・酒井吾意知も組員2人を連れて、山口組組員達と同じ船に乗り込んだ。徳島県警本部は、兵庫県警から山口組組員115人が小松島市に向かったとの連絡を受け、小松島港に警官隊を待機させ、到着時に組員らの身体検査を行ったが、武器は発見されなかった。警官は酒井吾意知と話し、小松島警察署の署長と面会する約束を取り付けた。徳島県警が400人の警官隊を市内に配置するなか、山口組組員らは福田組事務所に向かったが、事務所前で警察により道路の通行が止められた。署長は酒井と会い、本多会が和解の意志を確認、その後安原を警察署に呼び、本多会の意向を伝えて本多会と和解するよう説得した。

ぐらいには縮められませんか?
  • 他の記事で記述されていること(例 鶴田浩二襲撃事件)をわざわざ本項に詳しく書く必要はありません。そのためにTemplate:Mainがあります。
以上ご考慮いただけましたら幸いです。--Chiew 2008年2月22日 (金) 00:39 (UTC)[返信]
私の方こそ、何か誤解があったようですみません。抗争事件とかの記事を起こして、本人と直接関係ない記述を削除し、全体を読みやすくするという案には大賛成です。もともと田岡一雄は、数々の抗争事件や殺人事件を引き起こしています。そして、田岡の起こした犯罪があまりにも多すぎるため(今だと殆ど全てが「使用者責任」を問われるはずです)、そして多くの犯罪や抗争事件が同時進行していたために、読み難くなるのだと思います。記事を簡略化するのは賛成です。第一次頂上作戦については、すみません。きちんと調べた上で、対処します。--天使の羽根 2008年2月22日 (金) 00:58 (UTC)[返信]
天使の羽根さん、門外漢の私がしゃしゃり出て来ても、丁寧に対応してくださってありがとうございました。確かにおっしゃるとおり、同時進行で起こっている数々の抗争や殺人事件を文章にまとめるのは非常に難しいですね。やはり詳しいことはここではなく、それぞれ独立した事件の記事に書いた方がすっきりする気がします。ただその前に明友会事件明友会#明友会事件夜桜銀次事件夜桜銀次#博多事件(夜桜銀次事件)など重複した記事が存在しますので(ご存知のように第4次沖縄抗争は統合が済みましたが)、まずはそちらの方を整理しなければいけないかなと思っています。
第一次頂上作戦への一部転記については、転記後いくつか版を重ねているので今から転記時点の要約欄に書き込むことはできないですし、このためにわざわざ削除依頼を出すのはこちらも管理者も面倒ですから、現行のままで良いと思います。今後、記事を統合・分割・転記する際にはWikipedia:ページの分割と統合を参考にして要約欄に記入してください。--Chiew 2008年2月23日 (土) 07:15 (UTC)[返信]
ご丁寧な対応ありがとうございます。やっと、理解しました。私は、田岡一雄に関する記述は、全て田岡一雄の記事にまとめておかなければならないものと思い込んでいました。抗争事件の記事を起こして(すでにある物は問題ない)、田岡に関することもみんなそこに移せば、「1つの抗争事件を時系列の流れで追えるのでわかりやすい」ということですね。その通りです。しかも、編集が楽になります。例えば、A組のB組長とC組のD組長が抗争した場合、この抗争記事を、A組の記事とB組長の記事とC組の記事とD組長の記事に書かなければなりません。1つ修正が必要になると、一度に4つの記事を修正しないといけません。こんなとき、抗争事件の記事を起こして、A組の記事とB組長の記事とC組の記事とD組長の記事にはリンクだけ貼っておけば、1回の修正で済みます。実にうまいアイデアです。私は大賛成です。また、この流れで考えれば、明友会事件明友会#明友会事件を、夜桜銀次事件夜桜銀次#博多事件(夜桜銀次事件)を統合すればいいと思います。--天使の羽根 2008年2月23日 (土) 09:47 (UTC)[返信]

(インデント戻す)天使の羽根さん、さっそくの記事のスリム化、お疲れさまです。そうです、田岡の記事は田岡の生涯を簡単にまとめ、部分部分に「XXXXがYYYYするという事件が起こった。詳しくは[[ZZZZ]]を参照」という風に書いておけば、何があったかをもっと詳しく知りたい人だけがZZZZを読めばよいということになります。
それから{{Main|明友会事件}}と書けば、詳細は明友会事件を参照 という自動的に表記されるテンプレートがあるので便利ですよ。--Chiew 2008年2月24日 (日) 06:08 (UTC)[返信]

分割提案編集

田岡一雄にある、「西梅組との抗争」「谷崎組との抗争」「加茂田組の北海道進出失敗」の記事を、それぞれ分割することを提案します。「西梅組との抗争」は他に地道行雄の記事にも同じ文章があります。もし、「西梅組との抗争」に加筆修正を加えるとしたら、同時に地道行雄の記事も加筆修正しなければならず、手間隙がかかります。また、「谷崎組との抗争」は他に山本健一尾崎彰春梶原清晴に同じ文章があります。もし、「谷崎組との抗争」に加筆修正を加えるとしたら、同時に山本健一と尾崎彰春と梶原清晴の記事にも加筆修正しなければならず、手間隙がかかります。また、「加茂田組の北海道進出失敗」も同じ文章が加茂田重政石間春夫にあります。もし、「加茂田組の北海道進出失敗」に加筆修正を加えるとしたら、同時に加茂田重政と石間春夫の記事も加筆修正しなければならず、手間隙がかかります。さて、問題は記事名です。というのは、山口組関係の本に必ず登場するこれらの抗争事件には、山一抗争とか第一次頂上作戦のように固有の名称がありません(そのために、提案を躊躇してました)。かなりの参考文献に当たってみましたが、抗争事件は書かれているものの、抗争事件名を発見できませんでした。本には「西梅組との抗争」とか「谷崎組との抗争」とかしか書かれていません。それで取り合えず、記事名を「山口組と西梅組の抗争事件」「山口組と谷崎組の抗争事件」「山口組と北海道同行会の抗争事件」としようかと思いますが、如何でしょうか?固有名詞が掲載されている参考文献があれば、是非教えてください。--天使の羽根 2008年4月1日 (火) 15:31 (UTC)[返信]

同氏異名を区別してます。区別を壊すような編集をやめてください編集

山口組で「小田」と言えば「小田芳一」と「小田秀臣」の2人がいます。だから、単に「小田」と表記すると「小田芳一」なのか「小田秀臣」なのかわかりません。同様に「山本」と言えば、山口組には「山本健一」と「山本広」と「山本博」と「山本次郎」の4人がいます。だから、単に「山本」と表記すると「山本健一」なのか「山本広」なのか「山本博」なのか「山本次郎」なのかがわかりません。同様に「尾崎」と言えば、山口組には「尾崎彰春」と「尾崎勝彦」の2人がいます。だから、単に「尾崎」と表記すると「尾崎彰春」なのか「尾崎勝彦」なのかわかりません。同様に「柳川」と言えば、山口組には「柳川次郎」と「柳川甲録」がいます。単に「柳川」と表記すれば、「柳川次郎」なのか「柳川甲録」なのかわかりません。益田も安原も、田岡一雄の記事では同氏異名が登場します。当然、これらの区別がわかるように記述すべきです。つまり、むやみに渡世名を省略すると、いったい誰のこと(どの山本?どっちの尾崎?どっちの柳川?どっちの安原?どっちの小田?etc)を指しているのかわからなくなります。だから、渡世名を絶対に省略しないでください。基本的にフルネームで記述してください。折角、同氏異名を考慮した記述が、壊れてしまいますから。--天使の羽根 2008年4月6日 (日) 19:10 (UTC)[返信]

利用者:220.62.249.2さんの加筆・修正について編集

すでに検証可能な出典が明示されている記述を、勝手に修正しないでください。まずは、ノート:田岡一雄でみんなに問題提起をし、みんなの合意を得てから修正してください。また、Wikipedia:検証可能性#情報源/ソースをご覧ください。ここには、「ウィキペディアの記事は、事実確認と正確さについて定評のある、信用できる第三者情報源に基いて書くべきです」と書かれています。田岡一雄の自伝は、第三者情報源ではありません。本人情報源なのです。従って、自伝は、ウィキぺディアにおいて、基本とする情報源にはなり得ません。何卒、ご理解ください。--獅子の鬣 2008年9月2日 (火) 22:35 (UTC)[返信]

神戸芸能社田岡一雄に統合する提案編集

神戸芸能社田岡一雄に統合する提案をします。神戸芸能社に書かれていることは、殆ど田岡一雄にも書かれています。同じ記述が2つの記事にあると、今後加筆修正するときに2つの記事を修正していかねばならず、大変な労力の無駄です。--獅子の鬣 2008年9月26日 (金) 07:33 (UTC)[返信]

田岡一雄と神戸芸能社は同一人物でも同一組織でもない。先に神戸芸能社に書かれていたことを後から田岡一雄のページに書いて重複させたたことは履歴でも明白。そんなことをしておきながら神戸芸能社を消して、統合するような馬鹿なことはやめるように。羅列しすぎて長文になっているページから重複する内容を減らしてリンクを張るのがWikipediaの常道。--Tatoetu 2008年10月7日 (火) 07:58 (UTC)[返信]

  • 神戸芸能社田岡一雄は密接な関係があります。なぜならば、神戸芸能社の社長は田岡一雄だからです。「先に神戸芸能社に書かれていたことを後から田岡一雄のページに書いて重複させたたことは履歴でも明白」とありますが、どちらが先に書かれようともそれは問題になりません(記事の殆どは利用者:竜造寺和英さんが書いて、他人がその表現を修正しているだけ。同じ執筆者が記事の核を書いているため、当然同じことが書かれます)。神戸芸能社の社長が田岡一雄である以上、神戸芸能社に書かれることは全て田岡一雄にも書かれなければいけないからです。これでは、当然、同じ記述が田岡一雄にも神戸芸能社にも登場します。それに、神戸芸能社は、独立させて記事を興すほどの著名性・特筆性はありません。上場していたわけでもなく、資本金は百万円の言わば中小企業です。このレベルの企業を全部記事にしていたならば、日本中の中小企業を記事に興さなければならなくなります。ならば、こうしましょう。まずは、この記事が本当に著名性・特筆性があるのかを確認するために、削除依頼を出しましょう。もし、削除に賛成する人が多数ならば、みんなが「独立した記事としては必要ない」と判断していることになります。そして、存続となった場合に改めて、統合すべきかを議論しましょう。削除依頼を提出するために、保護解除の合意をお願いします。--獅子の鬣 2008年10月7日 (火) 11:18 (UTC)[返信]
削除依頼は著名性を確かめるための場ではありません。そのような目的で依頼することは、おやめください。--Bellcricket 2008年10月7日 (火) 11:24 (UTC)[返信]
それはおかしな判断です。もともと特筆性・著名性がないため、独立した記事として存続させる必要がないから、統合なり、削除依頼に出すはずです。統合の議論の根幹には「独立した記事として存続させる必要がない」という認識があるはずです。削除依頼を出してはならないとする論拠をご提示ください。--獅子の鬣 2008年10月7日 (火) 11:28 (UTC)[返信]
本来統合提案ではなく、削除依頼すべきだった案件でしょう。先に統合依頼が出されてしまい、統合に反対がなかったから、みんなは削除依頼を出さなかっただけです。まずは、上場企業でもない神戸芸能社レベルの記事を存続させる必要性があるのかどうかから議論すべきです。このレベルの記事が存続ならば、同じ田岡一雄の企業舎弟だった「甲陽運輸」や「三友企業」や「上栄運輸」(神戸芸能社よりも田岡一雄の資金源としては重要でした)などの一連の企業舎弟全部の記事を起こせることになりますよ。みなさんは「三友企業」や「上栄運輸」なんて、本当に知ってますか?本当に著名性ありますか?田岡一雄の記事に書かれてるだけで十分じゃありませんか?本当に独立させる必要がありますか?--KING OF ZIPANGU 2008年10月7日 (火) 12:04 (UTC)[返信]
申し訳ありません。本来は削除依頼をすべきでした。自分があまりにも削除依頼を出していたために、「削除厨とレッテルを貼られて、批判や虐めがあるかもしれない」と思ってしまい、ついつい削除依頼でなく統合依頼を出してしまいました。反論がなければ、まずは削除依頼を提出して、「神戸芸能社の記事を独立させる意味があるのか?」ということから議論したいと思います。みなさんは、如何でしょうか?特に反論がなければ、削除依頼の議論から始めさせてください。削除依頼も私が責任を持って提出します。よろしくお願いします。--獅子の鬣 2008年10月7日 (火) 13:10 (UTC)[返信]
順番が逆でしょう。「神戸芸能社」の記事を独立させる意味があるかを議論してから、その結果によって削除依頼、あるいは統合を検討してください。削除依頼は削除か存続か意見を出す場であって、Wikipedia:削除依頼#注意事項にあるとおり議論する場ではありません。削除依頼の場ではコメントに対するコメントが削除される場合もあり、議論の場と適切ではありません。「この案件に特筆性があるか否か」を議論したいのであれば、ノートで行われた方が適切です。--Bellcricket 2008年10月7日 (火) 14:03 (UTC)[返信]
まず削除依頼を出すほうが正しい順序だと思います。本来ならば、削除依頼を出すべき案件だったからです(私のミスです。すみません)。さて、『「神戸芸能社」の記事を独立させる意味があるどうか』は、ヤクザ関係の執筆者だけで判断すべきではなく、可能な限り多くの人に参加してもらって判断してもらうべきです。著名性などはヤクザ関係の執筆者だけの少数の判断で結論付けるべきではないでしょう。少数の数人だけが多数決を行い、その少人数だけの多数決で「神戸芸能社の記事を削除すべき」の結論になっても何の意味もありません。もっと多くの人に問いかけるべきです。多くの人が知らないからこそ、著名性がないと判断出来るわけですから。このノートに参加してる少数の判断で、著名性を議論するには無理があります。従って、削除依頼を提出し、多くの人の意見を仰ぐべきです。この判断は単に企業舎弟の存続という意味でなく「このレベルの企業を独立させる意味があるのか」という大きな判断になるはずです。どうせ、私が削除依頼を出さなくとも、いずれは誰かが削除依頼を出すのですから。--獅子の鬣 2008年10月7日 (火) 14:25 (UTC)[返信]
多くの人に参加を呼びかけるのはコメント依頼の役割です。削除依頼ではありません。そうした議論が深まらないうちから削除依頼を出しても、ごくわずかな意見しか付かないでしょう。わずかな人数で結論を出すのは、意味がないのでしょう? これまで獅子の鬣さんが出された削除依頼に対して意見があまりつかないことを考えれば、「単に削除依頼しただけでは、多くの人の意見は得られない」ことはご理解いただけると思いますし、その原因は事前の議論が深まっていないからではないでしょうか。少数による、意味の無い結論を出したくないのでしたら、ノートページでよく話し合ってください。今回は「神戸芸能社」に関する話ですから、話し合いの場はノート:神戸芸能社の方がよろしいでしょうね。以後はそちらに移ることにしましょう。--Bellcricket 2008年10月7日 (火) 15:09 (UTC)[返信]
削除するべきかどうかの意見を広く集めるのならば、削除依頼が適当だと思います。例えば、統合提案にしても、みんなに議論の存在を知ってもらうためにWikipedia:ページの分割と統合#ページの統合の「統合の告知」があるはずです。だって、ここに「3.より多くの編集者に知ってもらうために、Wikipedia:統合提案に提案内容を記載して呼び掛けを行います」と書かれています。この記述により、Wikipedia:統合提案が、より多くの編集者に知ってもらうための機能であることは自明です(だって、そう書いてある)。「多くの人に参加を呼びかけるのはコメント依頼だけだ」とする判断は誤りであることがわかります。Wikipediaには「多くの人に参加を呼びかける」機能は何もWikipedia:コメント依頼だけではありません。他にもいっぱいあります。さて、今後は話し合いの場はノート:神戸芸能社を移します。--獅子の鬣 2008年10月7日 (火) 20:07 (UTC)[返信]

田岡一雄の記事から田岡一雄の芸能界進出の部分を分割する提案編集

すでにノート:神戸芸能社でも提案されていますが、田岡一雄の芸能界進出の部分が美空ひばりの記事などと重複します。今後、田岡一雄の記事も他の芸能人の記事も加筆修正していかねければならず、大変に非効率です。よって、田岡一雄の芸能界進出部分を独立させ、他の記事にはリンクだけ貼っておけば、今後の編集が楽になります。また、記事を独立させたほうが、一連の流れを理解しやすいはずです。--獅子の鬣 2008年10月17日 (金) 09:14 (UTC)[返信]

  • (コメント)この分割はまあいいでしょうが竜造寺系による「やくざ記事のスタイル」には反対です。一般記事及び人物記事のスタイルマニュアルを尊重して下さい。
    また分割された記事への神戸芸能社の統合はあらかじめ反対しておきます。johncapistrano 2008年10月18日 (土) 01:20 (UTC)[返信]
  • 反対します。「~の芸能界進出」というような表題で独立させるのは前代未聞で、もはや辞書ではなくなってしまいます。そんな分割よりも異常に読みづらい長文を辞書らしく簡潔にすることが先決でしょう。--すこやか 2008年10月21日 (火) 08:07 (UTC)[返信]
    • それは逆です。分割することにより、記事が大量に削除されて読みやすくなります。表現を修正した程度では記事の分量は大して減りません。「田岡一雄の芸能界進出」を独立させる方が、記事は一気にスリム化します。また、『「~の芸能界進出」というような表題で独立させるのは前代未聞』とありますが、別に山口組四代目跡目問題山口組五代目跡目問題の例もあります。これらの記事も反対なく分割されています。猪野健治『三代目山口組 田岡一雄ノート』筑摩書房<ちくま文庫>、2000年、ISBN 4-480-03600-8で、猪野健治氏は第3章に「芸能・興行界への道」という章を興し、ここに「田岡一雄の芸能界進出」をまとめた構成にしてあります。猪野健治氏もわざわざ独立した章立てを行っているので、独立させて解説したほうがわかりやすいと判断したのでしょうし、独立させるだけの価値があると判断したのでしょう。この猪野健治氏のスタイルに合わせるわけです。--獅子の鬣 2008年10月21日 (火) 08:17 (UTC)[返信]
      • さらに、この猪野健治『三代目山口組 田岡一雄ノート』筑摩書房<ちくま文庫>、2000年、ISBN 4-480-03600-8で、猪野健治氏は第2章に「神戸港からの出発」という章を興し、ここに「田岡一雄の神戸港進出」をまとめた構成にしてあります。これも猪野健治氏のスタイルに従って独立させればいいのです。もっともっと記事が削除されて読みやすくなりますよ。利用者:すこやかさんの主張も結局は「長すぎるから読みにくい」ということですよね。ですから、ノート:神戸芸能社の議論でも「記事を分割して分量を減らそう」という流れで合意がなされたのです。だからこそ、「神戸芸能社田岡一雄に統合する」という私の最初の主張が消えてなくなったのです。--獅子の鬣 2008年10月21日 (火) 08:40 (UTC)[返信]
特に、反論もなかったので、ノート:神戸芸能社での議論の流れから、再度分割の話をしたいと思います。--獅子の鬣 2008年11月21日 (金) 22:10 (UTC)[返信]

田岡一雄の記事から田岡一雄の神戸港進出の部分を分割する提案編集

すでにノート:神戸芸能社でも提案されていますが、田岡一雄の神戸港進出の部分を独立させることを提案します。同じ内容が岡精義にも書かれていて、内容が重複しています。このままでは、田岡一雄の神戸港進出部分に加筆しようとすると、田岡一雄の記事にも岡精義の記事にも修正を入れなければならず、大変に非効率です。よって、田岡一雄の神戸港進出部分を独立させ、他の記事にはリンクだけ貼っておけば、今後の編集が楽になります。また、記事を独立させたほうが、一連の流れを理解しやすいはずです。--獅子の鬣 2008年11月21日 (金) 22:10 (UTC)[返信]

記事の正常化について編集

この項目にかぎらずヤクザ系の記事が同一人物によるヤクザライターの著書からの時系列的な切り貼りに堕落しており、全面的改稿が必要です。ヤクザライターの著書は半ば小説というべきもので本来出典に値しないと思いますが、それ以前に単なる事実の切り貼りは辞典の文章とはとうてい言えない。一週間たって異存がなければ、この人物が編纂する前の状態に戻すことを提案します。--123.198.71.29 2009年2月8日 (日) 08:34 (UTC)[返信]

記事の整理整頓編集

先に提案してからとも思いましたが、一年以上ノートに書き込みもないので、本文の参考文献そのままの箇所や、山口組からの観点での表現などを中立的表現に直しました。記事の削除はしていませんが、一部の文言は、自然な日本語の文章になるように、訂正しています。筆が滑って万一削除している箇所があれば、遠慮なく元に戻して下さい。 以上、記録としてノートに編集事実を残して置きます。--Kumasun2 2010年5月11日 (火) 04:02 (UTC)[返信]

林正之助と共に逮捕?編集

「*1968年(昭和43年)1月11日には吉本興業林正之助 社長と共に、「レコード会社乗っ取り容疑」で兵庫県警に逮捕されている。(不起訴)」との記述がありましたが、『田岡一雄自伝』によると当時の田岡は長期入院中であり、巻末年表にも「1月 大阪府警、柳川組集中取締本部発足。吉本興業元社長・林正之助を逮捕」とあるだけで、田岡の名は見当たりません(ここも参照)。一応コメントアウトしました。--Gordian Knot 2010年6月30日 (水) 01:29 (UTC)[返信]

田岡を題材にした作品について編集

1977年の映画『やくざ戦争 日本の首領』(以降のシリーズ含め)田岡一雄をモデルとしているという説が一般的であると思います。 なぜ本作品が同項目に掲載されていないのでしょうか?--宮本朗会話) 2018年1月13日 (土) 18:33 (UTC)[返信]

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