ノート:茂木健一郎/過去ログ2

最新のコメント:14 年前 | トピック:セロニアス・モンクの節にて | 投稿者:貿易風

「茂木本人の失言」は、内容が間違っています 編集

本文の「茂木本人の失言」について、以下の内容を「失言」として記載しているのは間違っています。

*2007年、横浜美術館で行われた森村泰昌の個展「美の教室、静聴せよ Bi-Class Be Quiet」展に連動した同館での講演のなかで、「みなさんわかりますか、外国人に日本の観光名所を案内しているときの惨めな感じ」などと語った。また、質疑応答中に『茂木さんは、東京でなければならない[9]と言ったが、私の地元には東京とは違う居心地の良さがあると思っている』と佐賀県出身の来場者が発言したところ、茂木は『佐賀には何もないんじゃないんですか?佐賀はダメですよ』と応じた。

各自、野澤真一さんがアップロードしてくださった講演の録音ファイルを聞いて検証してください。

録音ファイル http://nozawashinichi.sakura.ne.jp/mkpc/2007/08/post-29.html (これは2009年6月18日 (木) 01:06 (UTC)時に書き込まれたURL。ノート:茂木健一郎#茂木さんへから転載。)


  • 観光名所についてのお話は、安易にエスニシティーに寄りかかることが美術をスポイルすることをおっしゃったことでした。日本の観光地が恥ずかしいというお話ではありません。
  • 佐賀のお話については『佐賀には何もないんじゃないんですか?佐賀はダメですよ』という発言はありません。実際には、都会のエスタブリッシュメントに関わらなければ身につかないこともあるというご発言はありました(本当は、もっとディティールのあるお話でしたが、単純に言えばそういうことでした)。


編集する権限のある方は、すみやかに「茂木本人の失言」を訂正してください。間違った内容を削除してください。マスコミが入っていないオフレコな講演会の内容をウィキペディアのソースに使うことが適切であるかどうかということについても、再考をお願いします。--114.148.253.34 2009年8月18日 (火) 09:04 (UTC)

(114.148.253.34改めMimosa5)本件について、自ら訂正作業を実行するために、本文の保護解除依頼を提出します。--Mimosa5 2009年10月4日 (日) 02:13 (UTC)
それはあなたが茂木さんの発言をそう捉えたという事ですよね?そういう前提で意見を書かせていただきますが。
観光名所の話について、「安易にエスニシティーに寄りかかることが美術をスポイルする」という意味で茂木さんが言っておられるのだとすれば、それこそ「日本の観光地が恥ずかしいというお話」でしかありません。また佐賀に対する発言について114.148.253.34さんがおっしゃる「都会のエスタブリッシュメントに関わらなければ身につかないこともある」という意味で茂木さんがおっしゃっていたのだとしても、佐賀の人からすれば大きなお世話ですから失言ととります。。それに、『佐賀には何もないんじゃないんですか?佐賀はダメですよ』という発言は確かにありました。MP3を編集している可能性があります。横浜美術館に講演内容を問い合わせてください。
それに横浜美術館での講演の内容に誤りが仮にあったとしても、セロニアス・モンクの思考に関して茂木さんが発した虚偽情報とは別件です。茂木本人の失言自体を消すのは情報操作としか思えませんが。以前「フェアネス」という言葉を使った人がいましたが、もしあなたがたにフェアネスがあるなら、茂木本人の失言について今一度御一考願います。(クタベクニアキ)--114.177.240.50 2009年11月12日 (木) 08:00 (UTC)
追記します。Mimosa5さんがおっしゃっている事はMimosa5さんの感想でしかないと思います。
ウィキペディアは貴方の感想を書く場ではありません。
貴方がおっしゃる「都会のエスタブリッシュメントに関わらなければ身につかないこともあるという」趣旨の茂木さんのお言葉は、例えるなら京都に住んでいる方が「江戸は安土桃山時代は辺鄙な場所だったから京都のほうが洗練されているし優れた人材が生まれる」というようなものです。でも、そんな風に言われて東京都民は賛成できると思いますか?
またWikipedia:中立的な観点の<2.3 フェアであることと、好意的な立場 >には(http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E7%9A%84%E3%81%AA%E8%A6%B3%E7%82%B9#.E3.83.95.E3.82.A7.E3.82.A2.E3.81.A7.E3.81.82.E3.82.8B.E3.81.93.E3.81.A8.E3.81.A8.E3.80.81.E5.A5.BD.E6.84.8F.E7.9A.84.E3.81.AA.E7.AB.8B.E5.A0.B4)
『多くの記事は、対立する見方について紹介しつつも、特定の見方を支持するものになってしまっています。これは失敗です。ある記事が、意見ではなく事実を記述するものになっていたとしても、その記事は依然としてどのような立場に立って書かれているかを読者にそれとなく感じさせるものになっている場合があります。それはどのような事実をとりあげて説明するか、(どのような事実をとりあげないか)、それらをどのように配列し、まとめるか、といったことを通じて行われます。例えば、ある立場に対立する意見を紹介しながらそれを否定する説明を行うと、そうした対立意見を「対立意見」のセクションにまとめて紹介する場合と比べて、ずっと説得力がなくなります。』とあります。加えて言うならは、文章の多くが明らかに中立的でなく過大な肯定性がある場合、対論となりえるのは批判文であろうという事です。<茂木健一郎>本文の<批判>の節に集められた文がまさにそうで、つまり『何か』に対する『批判』だという事です。ではその『何か』とは何でしょう?
逆にいえば、いま<批判>にある文章は事実の列挙であるだけなのに、なぜ「第三者による茂木の評価」などという中立的な表現を使わずに<批判>とされているのかという事です。--114.165.175.80 2009年11月18日 (水) 08:21 (UTC)
私は、「茂木本人の失言」を一部削除する目的で、保護の解除を依頼しましたが、結果的にはノータッチです。他の方が削除なさったので。茂木氏が本当はどんな発言をしていたかについて、なるべく中立的にお伝えしたいと思い、このノートに書きましたが、私自身の解釈が混入するのは避けられなかったかもしれません。録音を一字一句正確に書き起こせれば良いのですが、著作権的にまずい可能性が高いので無理です。美術館に問い合わせよとのご発言がありますが、ウィキペディアでは参加者が独自に取材したことは書き込んじゃダメということになっています。そもそも匿名の方がアップロードされた録音を勝手に聴いて検証するという行為そのものも、茂木氏らの権利を侵害するまずいことだったかもしれませんね。アップロードされた方のお名前から関係者の方と判断しましたが、考えてみれば、本当は誰なのかなんてわからないものです。無断で(不正に)録音されたデータである可能性もある。さて、問題となっている佐賀県への悪口についてですが、たまたま茂木氏に質問した聴衆のひとりが佐賀の方だったので、佐賀県の名が出ただけのことなんですね。録音データに一部改竄があったとするご意見が正しかったとしても、話の流れとして、アンチ佐賀の発言が出ることがあったとは思えませんでした。質問者の方は、(茂木氏がグローバルな現代美術の世界についてお話したことに対して)地方で頑張っている人が上京したりする必要はないんじゃないですかという意味のことをおっしゃった。それに対して茂木氏は、あなたも首都圏に出てきたことでメリットがあったんじゃないですかと返しました。それが「失言」なのだとしたら、例えばNHKドラマ純情きらりで、音楽家をめざす若者が上京するストーリーもダメってことになりませんか。茂木氏の考えが絶対に正しいとは言えません。でも「失言」としてとらえるのは、ひとつの感想に過ぎないと思います。ウィキペディアに書くためには、「誰」が失言だと判断したかが肝心です。その「誰」が、有識者だったら良いのですが、匿名のウィキペディア利用者だったとしたら、書き込む価値のない情報です。--Mimosa5 2009年12月9日 (水) 18:32 (UTC)

失言について 編集

WP:LIVEにもとづき「茂木本人の失言」の節を除去しました(差分)。仮にこれらの発言を行ったことを裏付ける1次情報源があったとしても、これらを「失言である」と評価している信頼できる2次情報源が提示されない限りは掲載すべきではありません。--貿易風 2009年10月23日 (金) 13:50 (UTC)

その件については、すでにhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E8%8C%82%E6%9C%A8%E5%81%A5%E4%B8%80%E9%83%8E#.E8.8C.82.E6.9C.A8.E3.81.95.E3.82.93.E3.81.B8

に書きましたが・・・。「失言」は誤りだが「批判」は良い、ということならば論拠を提示してください。クタベクニアキ--114.177.240.50 2009年11月12日 (木) 07:34 (UTC)

僕はあくまで「失言」の節に書かれていた内容について、信頼できる2次情報源で取り上げられない限り掲載すべきでないと述べたまでです。「批判」の節の是非には言及していません。「批判」の節について、この節タイトルが妥当かどうか(斎藤環さんの指摘・発言が批判に当たるかどうか)という問題提起をされたいのであれば、新たにこの下に節をつくるなどしてそちらでお願いします。--貿易風 2009年11月12日 (木) 10:19 (UTC)
申し訳ありません。貿易風 さんの書き込みを読み違えていたようです。ただ、『批判』の節のタイトル名の問題提起については既に前回書き込ませていただいたURLの節でしています。議論が発展していませんがなぜ皆さん参加されないのでしょうか?貿易風 さんが議論に加わっていただければと思います。
ではあらためて貿易風 さんの『信頼できる2次情報源で取り上げられない限り掲載すべきでない』という主張について議論させていただきますが、Wikipedia:存命人物の伝記の<3 出典無き批判は除去 >(http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E5%AD%98%E5%91%BD%E4%BA%BA%E7%89%A9%E3%81%AE%E4%BC%9D%E8%A8%98#.E5.87.BA.E5.85.B8.E7.84.A1.E3.81.8D.E6.89.B9.E5.88.A4.E3.81.AF.E9.99.A4.E5.8E.BB)
には『ジミー・ウェールズは、以下のように言ったことがあります:これはいくら強調しても足りないことだが、一部の編集者の間には、「どこかで聞いた」などといった推測の域を出ない擬似情報の類には「要出典」タグを貼ればよいといった恐ろしい思い込みが見られる。違う、違う。ソースが出せない擬似情報は積極的に(aggressively)取り除くべきものなのだ。これはあらゆる情報についていえることだが、分けても存命人物の否定的記述については特にあてはまる。』と書かれています。「分けても~に特にあてはまる。」なので、肯定的な文章は出典がなくても削除しなくていいということではなく、出典がない文章が批判文に多いという事です。
つまり、もし<本人の失言>の節が一次情報だから削除対象だとおっしゃるのなら、<そのほかの活動>(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%82%E6%9C%A8%E5%81%A5%E4%B8%80%E9%83%8E#.E3.81.9D.E3.81.AE.E3.81.BB.E3.81.8B.E3.81.AE.E6.B4.BB.E5.8B.95)
の<小林秀雄><アハ体験><尾崎豊への論評>や<赤毛のアン>の節も消すべきだという事です。
また、Wikipedia:中立的な観点には<疑似科学と科学を対等に扱うのか><差別主義についてはどうか><有害な考えを広めてしまうのではないか>という節もありますので併せてご覧ください。--114.165.175.80 2009年11月18日 (水) 08:09 (UTC)
1点目。議論参加者を増やしたいということでしたらWikipedia:コメント依頼#議論活性化のためのコメント依頼という制度があります。よかったらどうぞ。
2点目。上の114.165.175.80さんの発言をみると、Wikipediaにおける「除去」と「削除」という用語を混同しているように思えます。編集によって記事からなんらかの記述を取り除く行為は「削除」ではなく「除去」と呼びますので、Wikipedia:ウィキペディア用語集などで意味の確認をお願いします(「削除」という用語は管理者権限を行使して記事の版の一部または全部を一般利用者には閲覧不可能な状態に置くことを指します)。
3点目。本題の「失言」の節を除去した理由ですが、Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料にかかれているように、1次情報源に基づいて記事を書くことが全面的に禁止されているわけではなく、仮に発言そのものが1次情報源で確認できたとしてもそれに対して「これらの発言は失言である」というような解釈を加えて記載することはWikipediaの方針から禁じられる、ということです(前述のWikipedia:独自研究は載せないを参照)。
なので、「そのほかの活動」の節についても、出典に対してなんらかの解釈が加わって記述されている部分が存在するのであればそこは除去または修正されるべきでしょうし、そもそも出典が示されていない記述については、Wikipedia:検証可能性に基づいて除去することもできます。単に出典が1次情報源であるという理由だけでは、必ずしも除去の対象とはなりません(解釈を加えることなくだれでも納得できることだけを書くなら1次情報源が利用可能な場合があります)。
いずれにしろ、ここはノートの「失言について」という節なので、記事本文の「そのほかの活動」の節に含まれる記述について「ここは除去すべき」とか「ここはこう修正すべき」とかいう提案があるのであれば、(前回のコメントでも述べたように)新たにこの下に節をつくってそちらで展開させたほうがよろしいと思います。--貿易風 2009年11月18日 (水) 13:46 (UTC)
管理人の方にこういう言い方をしていいのか分かりませんけど、説明では「削除」の意味が正直に言ってよく分かりませんでした。ウィキペディアに慣れてくるといろいろな略語を使いがちですが、慣れていない人には意味が通じないことを心に留めておいてください。教示いただいた用語集は分かりやすく書かれていて参考になりました。ありがとうございます。
では訂正します。貿易風 さんの『信頼できる2次情報源で取り上げられない限り掲載すべきでない』という主張について議論させていただきますが、Wikipedia:存命人物の伝記の<3 出典無き批判は除去 >(http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E5%AD%98%E5%91%BD%E4%BA%BA%E7%89%A9%E3%81%AE%E4%BC%9D%E8%A8%98#.E5.87.BA.E5.85.B8.E7.84.A1.E3.81.8D.E6.89.B9.E5.88.A4.E3.81.AF.E9.99.A4.E5.8E.BB)
には『ジミー・ウェールズは、以下のように言ったことがあります:これはいくら強調しても足りないことだが、一部の編集者の間には、「どこかで聞いた」などといった推測の域を出ない擬似情報の類には「要出典」タグを貼ればよいといった恐ろしい思い込みが見られる。違う、違う。ソースが出せない擬似情報は積極的に(aggressively)取り除くべきものなのだ。これはあらゆる情報についていえることだが、分けても存命人物の否定的記述については特にあてはまる。』と書かれています。「分けても~に特にあてはまる。」なので、肯定的な文章は出典がなくても”除去”しなくていいということではなく、出典がない文章が批判文に多いという事です。
つまり、もし<本人の失言>の節が一次情報だから”除去”対象だとおっしゃるのなら、<そのほかの活動>(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%82%E6%9C%A8%E5%81%A5%E4%B8%80%E9%83%8E#.E3.81.9D.E3.81.AE.E3.81.BB.E3.81.8B.E3.81.AE.E6.B4.BB.E5.8B.95)
の<小林秀雄><アハ体験><尾崎豊への論評>や<赤毛のアン>の節も”除去”すべきだという事です。
しかし、それも貿易風さんがおっしゃるように 『本人の失言』という節の名が問題であるために、「仮に発言そのものが1次情報源で確認できたとしてもそれに対して「これらの発言は失言である」というような解釈を加えて記載することはWikipediaの方針から禁じられる、ということで」あれば、何故<批判>の節のタイトルや内容はWikipedia:独自研究は載せないが適用されないのでしょう。内容は出典が明らかですから”除去”の必要はないと思いますが、本文で<批判>に掲載されている内容は「批判である」という二次情報があるのでしょうか。それとも単に誰も指摘しないから”除去”しないという事でしょうか。以前にも書きましたが、いま<批判>にある文章は事実の列挙であるだけなのに、なぜ「第三者による茂木の評価」などという中立的な表現を使わずに『批判』とされているのか理解できません。
また、<本人の失言>の節に書かれた内容でなく『失言』という言葉に問題があるならば、こういった場合どんな節の名を付けるべきなのか教えていただけないでしょうか?率直に言って、本人の口から出た言葉に何故こうまで拒否反応が出るのか分からないんですが。もちろん「文言にこういう相違がある」とするなら、編集保護などせず利用者が書き直せばいいでしょうし、ルールに則していないというなら修正すればいいと思いますが、というかウィキペディアというのはそういうものだと思っていたんですが・・・。『wikipediaの~につき削除します』と言われても納得できません。建設的な議論をしたくても相手が途中でいなくなってしまうし。
1点目について、コメント依頼#議論活性化をしても、「船頭多くて・・・」という事になりかねないので、たぶんいまのやり方がいいかと思います。同意見の人を求めているわけでもないので。
また3点目の<そのほかの活動>の内容については、除去などの狭量な提案をするつもりはありません。「そのほかの活動」が「赤毛のアン」とは?と個人的には思いますが。(クタベクニアキ)--114.165.175.80 2009年11月20日 (金) 05:43 (UTC)
(インデント戻し)まず、「批判」の節についてWikipedia:独自研究は載せないの方針が適用されないということはないです(この方針はWikipediaの記事空間の全ての内容に適用されます)。しかし、一般論として、Wikipediaの記事は常に未完成ですから(Wikipedia:完璧な記事を参照)、方針に反した記述であるにもかかわらず除去も修正もされずに残っているということはよくあります。もしこの記事の「批判」という節のタイトルの付け方がWikipedia:独自研究は載せない(あるいはWikipedia:中立的な観点)から不適当であり、例えば「第三者による茂木の評価」というようなもの変更すべきだとクタベクニアキさんが思うのであれば、そういう提案をして合意を得られればそのように編集できます(厳密にいうと合意がなくても編集はできますがその場合は異議のある人がいた場合、差し戻される可能性があります)。もちろんそんなことをするつもりはないと思うなら、放置してもかまいません。それはクタベクニアキさんの自由です。
次に、「失言」関連について。
『失言』という言葉に問題があるならば、こういった場合どんな節の名を付けるべきなのか教えていただけないでしょうか?
とのことですが、どんな節タイトルにせよ、(茂木健一郎がこれまでに発している数多くの発言の中で)それらの発言をことさら取り上げるだけの特筆性がないなら、載せる必要はないでしょう。クタベクニアキさんが載せる必要があると思われるなら、その発言が百科事典で取り上げるだけの特筆性のある発言であるということを示す2次情報源などを示していただければと思います(例えばだれそれの著書で茂木健一郎のこの発言がこのように引用されている、など)。
最後に、もしかしたら誤解があるかもしれませんが、僕は管理者ではありません。いちおう。--貿易風 2009年11月20日 (金) 15:25 (UTC)
一般利用者の方でしたか。それは失礼しました。
いろいろ書いて分かりにくくなってしまったかもしれませんが、前回の論旨は「本文で<批判>に掲載されている内容は「批判である」という二次情報があるのでしょうか。」という一言に尽きます。
貿易風さんはこの<失言について>の節の冒頭で「仮にこれらの発言を行ったことを裏付ける1次情報源があったとしても、これらを「失言である」と評価している信頼できる2次情報源が提示されない限りは掲載すべきではありません。」と書かれていますが、では本文の<批判>の記事は2次情報源がない事を知っているが放置してあるということでしょうか。「方針に反した記述であるにもかかわらず除去も修正もされずに残っているということはよくあります。」と書かれていますが、この件の場合、除去も修正もせず放置されているのは貿易風さん自身ですよね。一般利用者の方に厳格さを求めるのは酷なのかもしれませんが、これでは編集方針が偏っていて一貫性がないと思います。接触しているはずのルールが同じはずなのに、なぜ「批判」と「失言」でこれほど対応が違うのでしょう?
また、「どんな節タイトルにせよ、(茂木健一郎がこれまでに発している数多くの発言の中で)それらの発言をことさら取り上げるだけの特筆性がないなら、載せる必要はないでしょう。クタベクニアキさんが載せる必要があると思われるなら、その発言が百科事典で取り上げるだけの特筆性のある発言であるということを示す2次情報源などを示していただければと思います(例えばだれそれの著書で茂木健一郎のこの発言がこのように引用されている、など)。」という事ですが、 特筆性があると思っているからこれだけこだわって議論しているわけですし、二次情報源がなければならないという事になりますと、やはり<そのほかの活動>や<批判>の節に「そのほかの活動」(「そのほかの活動」と言い得る根拠は何か?)や「批判」という名を付け、それを放置するだけの二次情報源はあるんですか?という話になります。
最後になりましたが、<本人の失言>の節の内容に特筆性があるとすれば、それはWikipedia:中立的な観点の<疑似科学と科学を対等に扱うのか><差別主義についてはどうか><有害な考えを広めてしまうのではないか>という節に基づくと考えてます。(クタベクニアキ)--114.165.175.106 2009年11月27日 (金) 05:36 (UTC)
まず確認しておきますが、僕はWikipediaというプロジェクトの参加者の1人にすぎず、茂木健一郎という記事の責任者でも主執筆者でもありません。仮に「批判」や「そのほかの活動」の節に方針に反した記述が含まれていてたとしても、それを修正したり除去したりする義務があるわけではありません。また、仮に「それらの節には方針に反した記述が含まれているにもかかわらず修正も除去もされずに残っている」のだとしても、そのことを理由にして「失言」の節においてもそれと同様な方針に反した記述を行うことができる、ということにはならないということもご理解ください。すでに述べたようにここはあくまで「失言について」と題されたノートの節ですので、記事の「批判」の節(あるいは「そのほかの活動」の節)についてなにか意見があるのであれば、新たにこの下に節をつくるなどしてそこで展開してくださるようお願いします。
で、「2009年10月23日 (金) 13:47」の編集(差分)で除去される前まで記事本文に「失言」として掲載されていた茂木さんの発言についてですが、「佐賀はダメですよ」発言についていえば、たとえばこの発言に対して「佐賀県知事が怒って抗議文を発表した。」というようななんらかの反響があったのであれば記事への掲載を検討してもいいでしょうが、そういった要素がないのであれば、わざわざこの発言を百科事典の記事に載せる特筆性はないということでしょう。「3次元で音を考えている」発言も同様で、例えばこの発言の引用してなんらかの著名な人物が「このような科学的の根拠のない発言をするなんて不適切だ」と指摘しているのであれば掲載を検討してもいいかもしれませんが、なんの反響もないのであれば、載せるだけの特筆性はないでしょう。
クタベクニアキさんは特筆性の根拠としてWikipedia:中立的な観点の「疑似科学と科学を対等に扱うのか」「差別主義についてはどうか」「有害な考えを広めてしまうのではないか」などを引用されていますが、問題となっている茂木さんの発言が「疑似科学である」「差別である」「有害な考えである」と評価されているということについて信頼できる情報源が示せないのであれば、それ自体がクタベクニアキさんによる独自研究の域を脱していないことになります。
もっとも、現時点では「佐賀はダメですよ」発言にせよ「3次元で音を考えている」発言にせよ1次情報源すら確保できていない状況なので、特筆性を持ち出すまでもなくWikipedia:検証可能性の観点からも掲載できないです。ノートの上の方で提示されたMP3ファイルはアクセスできないですし、『ザ・ベストハウス123』についても番組の問題の回がソフト化されていたり放送ライブラリーなどのアーカイブに収録されていたりはしないようですので「検証可能」にはなっていません。『ザ・ベストハウス図鑑3』(ISBN 978-4594060473)なる書籍があるみたいなのでもしこれに記載されているなら話は別かもしれませんが。--貿易風 2009年11月27日 (金) 14:25 (UTC)
(インデント戻し)貿易風 さんの書かれている内容は説明になっていないと思いますが、まだ当方の主張がわかりにくいでしょうか?
前回も書きましたが、<そのほかの活動>や<批判>の節は<本人の失言>と接触しているルールが同じだから挙げたのであって、個別の内容問題ではないから節を設けていないという事です。つまり、分けて考えるべきでないから節を分けて考えていないのです。
何度も言うようですが、<そのほかの活動>や<批判>の節に「そのほかの活動」(「そのほかの活動」と言い得る根拠は何か?)や「批判」という名を付け、それを放置するだけの二次情報源はあるんですか?また前回、当方は「本文の<批判>の記事は2次情報源がない事を知っているが放置してあるということでしょうか。「方針に反した記述であるにもかかわらず除去も修正もされずに残っているということはよくあります。」と書かれていますが、この件の場合、除去も修正もせず放置されているのは貿易風さん自身ですよね。」と指摘しましたが、前回の書き込みから時間も経ちましたが貿易風 さんはなぜ未だにこれらの節を”除去”しないのですか?今からでも遅くありませんから、修正または除去してください。しないとすれば理由を教えて下さい。
もしテレビ番組は二次情報に当たらないというならば、<赤毛のアン>や<尾崎豊への論評>という節も二次情報源がないので”除去”するべきでしょう。
また貿易風 さんの言い分によれば<そのほかの活動>にある『2009年には日本テレビの全国高等学校クイズ選手権で菊川怜と共に番組パーソナリティーを務める。尚茂木が現時点では番組パーソナリティーでは最年長になる。』という記述は独自研究にあたりますし、検証可能性や二次情報源がなく特筆性に乏しいと思います。当方は指摘にとどめますが、貿易風 さんはこれを”除去”しますか?しないとすれば理由を述べて下さい。
貿易風 さんは「なんらかの反響があったのであれば記事への掲載を検討してもいいでしょうが、そういった要素がないのであれば、わざわざこの発言を百科事典の記事に載せる特筆性はないということでしょう」と言われていますが、という事は<そのほかの活動>の節に書かれている内容は”なんらかの反響が”あったという事でしょうか。
また「『ザ・ベストハウス123』についても番組の問題の回がソフト化されていたり放送ライブラリーなどのアーカイブに収録されていたりはしないようですので「検証可能」にはなっていません。『ザ・ベストハウス図鑑3』(ISBN 978-4594060473)なる書籍があるみたいなのでもしこれに記載されているなら話は別かもしれませんが。」との事ですが、NHKのアーカイブには<尾崎豊への論評>での茂木さんの発言が検証可能な記述は見られません。(http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10002200090708110030071/
これは<赤毛のアン>の節にもいえる事で、というか<赤毛のアン>の節では番組名すら書かれていませんが、ご自分で確かめられましたか?<赤毛のアン>の節は番組名が明らかでないばかりか、仮にそういった内容の番組が放送されていたとしても、放送日すら書かれていないのです。これは<小林秀雄>の節にもいえる事です。
茂木さんはノートページでご自身に関する記述についてたびたび修正や”除去”を求めていますが、<そのほかの活動>の内容には触れていません。つまり、彼はたとえ本文に事実と異なる記述があっても、自分に都合が良い内容であれば是非は問わない。しかし、事実であっても都合の悪い記述は修正または”除去”すべしとしているという事です。これは貿易風 さんも同様です。貿易風 さんの解釈では、<そのほかの活動>に挙げられているような二次情報もなければ特筆性も検証可能性もない、番組名や放送日すら定かでない記事でも本文に残していいという事になってしまいますし、逆に出典を明記してあっても二次情報源がないとして”除去”対象になってしまう。
というように、当方は<そのほかの活動>の記述内容が貿易風 さんが挙げたルールに沿った記述でない事を指摘したのですから、<本人の失言>にしたのと同様にこれらの記述を”除去”または修正して下さい。”除去”または修正できない理由がもしあるなら教えて下さい。といってもまた節を分けて下さいと言われるでしょうから、節を分けて改めて指摘します。また貿易風 さんはご存じないようですが、横浜美術館の講演のMP3はすでに野澤真一さんが2009年6月18日にノートにリンクを示されています。(http://nozawashinichi.sakura.ne.jp/mkpc/2007/08/post-29.html)クタベクニアキ--114.165.169.48 2009年12月9日 (水) 07:38 (UTC)

<そのほかの活動>に書かれている内容は独自研究に当たるのでは?検証可能性も見られません。 編集

<そのほかの活動>にある『2009年には日本テレビの全国高等学校クイズ選手権で菊川怜と共に番組パーソナリティーを務める。尚茂木が現時点では番組パーソナリティーでは最年長になる。』という記述は検証可能性や二次情報源がなく独自研究にあたります。修正または除去するべきではないでしょうか。 またNHKのアーカイブには<尾崎豊への論評>での茂木さんの発言が検証可能な記述は見られません。(http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10002200090708110030071/ これは<赤毛のアン>の節にもいえる事です。というか、<赤毛のアン>の節には番組名すら明記されていません、仮にそういった内容の番組が放送されていたとしても、放送日が書かれていないので特定できない状態です。 茂木さんはノートページで本文のご自身に関する記述についてたびたび修正や”除去”を求めていますが、これら<そのほかの活動>の内容には触れていません。つまり、彼はたとえ本文に事実と異なる記述があっても、自分に都合が良い内容であれば是非は問わない。しかし、事実であっても都合の悪い記述は修正または”除去”すべしとしているという事です。 なんらかの反響があったのであれば記事への掲載を検討してもいいでしょうが、これらの内容について「なんらかの反響」があるなら提示してください。そういった要素がないのであれば、これらの記述は”除去”または修正するべきではないのでしょうか。もし”除去”または修正できない理由がもしあるなら教えて下さい。 クタベクニアキ--114.165.169.48 2009年12月9日 (水) 07:46 (UTC)

2009年の高校生クイズで菊川怜さんと共に番組パーソナリティーを務めたことについては、高校生クイズ公式サイトに記述がありますので、これを出典として明記しておけば検証可能性は満たせるでしょう。歴代最年長であることについては、これまでのパーソナリティーの生年月日を一通り調べればその正確性は確認できるでしょうが、そもそも最年長であると記述する必要性はあんまりない気がするので除去でもいいと思います。「赤毛のアン」関連と「尾崎豊」関連の記述については、いちおう情報の出所自体は示されていますが、現時点ではWikipediaにおける検証可能性を満たしているとは言いがたい状況なので、Wikipedia:検証可能性にもとづいて除去することはできると思います。もっとも、これらの情報については現在記事でソースとして示されているテレビ番組や講演会での発言といったものに頼らなくとも、ご本人の著書やブログ上の発言などで裏を取れるかもしれません。--貿易風 2009年12月9日 (水) 13:11 (UTC)(修正)--貿易風 2009年12月10日 (木) 13:06 (UTC)
「これまでのパーソナリティーの生年月日を一通り調べればその正確性は確認できるでしょうが、そもそも最年長であると記述する必要性はあんまりない気がする」というのは、つまり茂木さんを最年長とするのは独自研究に当たるという事ではないんですか?これらの情報には二次情報源も示されていません。記事を書く上で「必要性はあんまりない」という程度の事ではないので、不確か(「曖昧」と書きたいところですがWP:AIMAIとの混同を避けて「不確か」とします)にしないでください。また、「「赤毛のアン」関連と「尾崎豊」関連の記述については、いちおう情報の出所自体は示されていますが」とのことですが、前回も書いたとおり<赤毛のアン>の年末番組は特定できないので出所は皆無です。「除去でもいいと思います」と貿易風さんがおっしゃるような、いわば”気分”で除去するようなものでしょうか。貿易風さんは普段そういう”気分”で除去したりしますか?明確なルールに基づいて対象を除去するべきではないでしょうか・・・というか、「これらの情報については現在記事でソースとして示されているテレビ番組や講演会での発言といったものに頼らなくとも」という事はテレビや講演での発言を情報ソースとして扱っていいという事なのでしょうか?それに「ご本人の著書やブログ上の発言などで裏を取」ってもいいのですか?茂木健一郎本人が書いていますが、これらは二次情報源に当たりますか?(クタベクニアキ)--114.165.177.113 2009年12月11日 (金) 06:13 (UTC)
歴代パーソナリティの中で最年長であるという記述について、クタベクニアキさんが「独自研究であり掲載すべきでない」と思うなら、除去すればよろしいと思います。僕は反対しません。
次に「テレビや講演での発言を情報ソースとして扱っていいか」について。すでに上の節で述べたように、番組が放送ライブラリーなどのアーカイブに収録されていたり、ソフト化されるなどしているのであれば、ソースになりうると僕は思います(他方、そうではないと考えるウィキペディアンもいるかもしれません)。講演会についても、その発言があったことをなんらかの形で確認できるような情報源があるなら大丈夫でしょうが、ここで話題となっている「赤毛のアン」関連および「尾崎豊」関連の記述については少なくとも現時点ではそのようなレベルに達していないので、Wikipedia:検証可能性に基づいて除去することができる、というのが僕の見解であり、それを上のコメントで述べました。
「本人の著書やブログ上の発言で裏をとってもいいのか」について。茂木さん自身が「赤毛のアンのファンである」とか「尾崎豊を高く評価している」ということに対する情報源としては、茂木さんの著書やブログでそのことが確認できるなら(また他の情報源と矛盾していないなら)、ソースにできます。茂木さんに対する評価については、第三者の情報源が必要ですが。--貿易風 2009年12月11日 (金) 14:31 (UTC)

(インデント戻し)失礼ですが、「歴代パーソナリティの中で最年長であるという記述について、クタベクニアキさんが「独自研究であり掲載すべきでない」と思うなら、除去すればよろしい」とはどういう意味でおっしゃられているのでしょう?当方がどう思うかではなく、出典がない記事の内容をルールに基づいて修正または除去するべきということです。除去をしたければすればよろしいというものではない。貿易風 さんはどうもその点を誤解されていると思います。この節の最初に書いたように、議論の焦点はあくまで当該記事の『除去または修正』です。具体的には”除去”を前提としない建設的な対処としては、検証可能性が認められる範囲での記述にとどめるとか、要出典タグやWikipedia:特筆性<特筆性のガイドラインを満たしていない記事>に基づいて、特筆性テンプレートなどを貼って編集を促す事などが出来ます。 また、貿易風 さんの「番組が放送ライブラリーなどのアーカイブに収録されていたり、ソフト化されるなどしているのであれば、ソースになりうると僕は思います(他方、そうではないと考えるウィキペディアンもいるかもしれません)」というご意見に対しては、要するにルールのとらえ方が利用者によって違うという意味で書かれているなら当方も同意します。しかし、貿易風 さんの発言からすると、アーカイブ化、ソフト化されているテレビ番組以外の発言は情報源として一切検証可能性がないと考えられているという事ですよね。でも、現実にウィキペディア上にはテレビやラジオなどの内容、または番組そのものを記事にしている項目も多々見受けられます。それはやはり貿易風 さんと他の利用者によってルールのとらえ方が違うからです。テレビやラジオの番組についての記事は、利用者が勝手に書いてしまっているというにはあまりにも広がりが大きい。利用者がそれらの記事が必要だと感じているからでしょう。そうした利用者の指針になっているのはWikipedia:検証可能性の<信頼性に乏しい情報源>WP:V#NRという節ではないでしょうか。この節には「一般に、信頼性に乏しい情報源とは、事実確認について評判がよくない情報源、あるいは事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」等)、または編集上の監督を欠く情報源です。ある情報が、例えばタブロイド新聞(夕刊紙やスポーツ紙のような娯楽中心の大衆紙)のような信頼性に乏しい出版物ひとつの上にしか見つけられないという時があり得ます。その情報があまり重要でないものならば、それを除去してください。もしもその情報が重要で残す値打ちがあるものならば、それをくだんの情報源によるものと明示してください。例えば、「イギリスのタブロイド紙『サン』によれば…」としてください。」とあります。逆にいえば、タブロイド紙やテレビのような信頼性に乏しい情報源が出典であっても、こう書けば検証可能性は満たされている事にする、という事でしょう。 つまり、情報源がテレビ番組であっても記事を除去する必要はない。出典がなくても修正を求めればいい、とルール上ではなっているという事です。ちなみにWikipedia:信頼できる情報源には<科学では一般向けの出版物からの引用を避ける>という節があるので、<研究>の節の『脳とクオリア』から引用した記述はルール上、内容が問われる事になります。『脳とクオリア』が一般向けの出版物でないという確証が必要です。<アハ体験>などの節もウィキペディアの科学者の項目で扱う情報源としては怪しいという事になりますが、<研究>(の節)から離れた<そのほかの活動>と解釈すれば除去する必要がないという事になります。

本人の著書やブログ上の発言に関する貿易風 さんの発言は参考になりました。もちろん一人の利用者の意見として、という意味ですが、この節の議論に基づき本文の修正を行います。(クタベクニアキ)--114.165.177.113 2009年12月17日 (木) 07:27 (UTC)

まず、さきほど貼られていた{{特筆性}}のタグは剥がしておきました(差分)。Wikipedia:特筆性の冒頭部分を読んでいただければと思いますが、このテンプレでいうところの「特筆性」というのは
記事の主題が、百科事典においてそれ自身の単独の記事が作成されることが適切かどうかについて述べているもの
となっています。この記事の場合、(特定の節の内容についてのみでなく)そもそも茂木健一郎という項目そのものがWikipediaの単独項目として収録すべきかどうかが疑わしい、という場合のみ{{特筆性}}を貼るようにお願いします。
次にWikipedia:検証可能性の方針について確認しておきます。この方針では「出典の無い記述はだれでも除去することができる」「出典が示せないなら除去されても文句はいえない」とは定められていますが、「出典の無い記述を見つけたら除去しなければならない」とはいっていません。Wikipediaの利用者は、出典の無い記述をWikipedia:検証可能性を基づいて除去することができますが、出典が無いなあと思いながらもそのまま放置することもできます。で、今回の最年長うんぬんの記述については、
  • いまのところ利用者:貿易風は除去する気はないけど、方針上だれでも除去することができるので、もしクタベクニアキさんが除去したいのであれば反対しないのでどうぞ
という意味で書きました(もしそこで除去に反対する場合は出典の提示責任が発生することになります)。もちろんクタベクニアキさん自身にも、出典の無い記述ではあるがその記述を除去しないという選択をとる自由もあります。そして
貿易風さんの発言からすると、アーカイブ化、ソフト化されているテレビ番組以外の発言は情報源として一切検証可能性がないと考えられているという事ですよね。
についてですが、僕はそのようには思っていません。検証可能性というのは、満たすか満たさないかの2択で考えるべきではないということは、Wikipedia‐ノート:検証可能性の過去ログなどの検証可能性関連の議論ではしばしば指摘されています。出典がTV番組だけであっても、タイトルや放送日時などが明らかであるならば、なにも出典が示されていないよりはましだと思います。ただ、番組がアーカイブ化・ソフト化されているなどしてだれもが確認できる状態になっていないのであれば、Wikipediaの掲載水準を満たすレベルに達しているとはいえない、ということで、「失言について」の節の「2009年11月27日 (金) 14:25」の発言では、Wikipedia:検証可能性の観点から1次情報源としても問題があるといったわけです。
また、Wikipedia:検証可能性の方針は、記事の記述に対する出典として
  • その情報源が公表・出版されていること(第三者が確認可能な状態になっていること)
  • その情報源が信頼に足るものであること
の2つを要求しているということも指摘しておきます。前者は閲覧・入手の可能性、後者は信頼性に関する要求であり、後者の信頼性の判断基準についてより詳しく解説した文書がWikipedia:信頼できる情報源であるというふうになっています。
で、Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源で挙げられている「タブロイド誌『サン』」の例は、後者の条件(信頼性)に関する話題だということに注意してください。タブロイド誌『サン』は、信頼性は高くないかもしれないが、何年何月何日号の記事でそれが確認できるのかということが出典として明記されていれば、もともと前者の条件は満たしていることになります。しかし、本来であれば、前者の条件を満たしていても後者の信頼性の条件を満たしていないから、『サン』は出典にできない。ところが、「タブロイド誌『サン』によると…」という前書きをつけることで、信頼性の条件で求められるハードルが低くなり、場合によっては『サン』であっても出典として許容可能になるということです。
他方、僕が「失言について」の節の「2009年11月27日 (金) 14:25」の発言において指摘したことは、Wikipedia:検証可能性の方針のうち後者ではなく前者の条件について満たされていないということです。つまり、『ザ・ベストハウス123』という番組が信頼できるかどうかが問題ではなく、その番組内容を確認する手段が保障されていない、という話をしていたわけですので、Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源をもちだしてくるのは、ポイントがずれています。--貿易風 2009年12月17日 (木) 14:14 (UTC)
前回の当方の書き込みで触れた<研究>の節で引用されていた著書は『脳とクオリア』ではなく『クオリア入門』であった事を訂正させていただきます。
特筆性テンプレートの件、了解しました。記事の項目の主題に貼るという事ですね。
で、貿易風 さんの「除去に反対する場合は出典の提示責任が発生することになります」という発言についてですが、これはWikipedia:検証可能性にある<情報源/ソース>という節の<出典を示す責任は掲載を希望する側に>に書かれている「出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります。このため、執筆者は出典を明記すべきです。」という文章の事を言われているのだと思いますが、ノートのこの節で論じている旧<そのほかの活動>の出典がない記述の件では、自分は要出典タグを貼り出典を求めている側ですから提示責任というのはないです。もし要出典タグを貼ったのが貿易風|貿易風]] さんであれば、当方が除去または修正を望まないのだとすれば出典の提示責任があるでしょうがそういう事でもない(当方がこの節を立ち上げたのは出典がない記事の除去または修正を求めているからです)ので、貿易風 さんがいったい何がおっしゃりたいのか分かりません。逆に、貿易風 さんは「Wikipedia:検証可能性の方針について確認しておきます。この方針では「出典の無い記述はだれでも除去することができる」「出典が示せないなら除去されても文句はいえない」とは定められていますが、「出典の無い記述を見つけたら除去しなければならない」とはいっていません。Wikipediaの利用者は、出典の無い記述をWikipedia:検証可能性を基づいて除去することができますが、出典が無いなあと思いながらもそのまま放置することもできます。」と書かれていますが、Wikipedia:存命人物の伝記の<出典無き批判は除去 >の節には『ジミー・ウェールズは、以下のように言ったことがあります:(略)ソースが出せない擬似情報は積極的に(aggressively)取り除くべきものなのだ。これはあらゆる情報についていえることだが、分けても存命人物の否定的記述については特にあてはまる。』とあるので、否定的な記述でなくともソースが出せない擬似情報は積極的に取り除くか、でなければ出典を求めるべきではないでしょうか。<情報源/ソース>という節の<出典を示す責任は掲載を希望する側に>には『存命中の人物に関する記事あるいは情報の場合、情報源が明示されていない情報は直ちに除去してください』ともあります。なので、高校生クイズの司会者で最年長という記述については、とりあえず出典が現れるのを待つという事です。自分が要出典タグを貼ったので放置しているわけでもありませんし、除去に反対もしていません。前回の書き込みの論旨は、わざわざ除去しなくても方法がある、という事です。
あと、この節は主に旧<そのほかの活動>の節の内容について議論していますので、<失言について>の議論は<失言について>に書いて下さい。といいつつ、面倒なのでついでに書いてしまいますが、「『ザ・ベストハウス123』という番組が信頼できるかどうかが問題ではなく、その番組内容を確認する手段が保障されていない、という話をしていた」というのは、だからアーカイブ化されていないから除去したとかそういう事ですよね。その主張は理解できたんですが、当方がWikipedia:検証可能性の<信頼性に乏しい情報源>WP:V#NRを前回引用したのは『一般に、信頼性に乏しい情報源とは、事実確認について評判がよくない情報源、あるいは事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」等)、または編集上の監督を欠く情報源です』とあるためで、ポイントはずれていません。『事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」等)』という文章の意味は分かると思いますが・・・。貿易風 さんのの解釈は<信頼性の乏しい情報源>の節に書かれている”事実確認について評判がよくない情報源”の例としてのサン紙についてのものでしかありません。さきに書いたとおりWikipedia:検証可能性の<信頼性に乏しい情報源>WP:V#NRには、信頼性の乏しい情報源について『あるいは事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」等)、または編集上の監督を欠く情報源』とあるのでご確認ください。
(クタベクニアキ)--114.165.178.155 2009年12月22日 (火) 16:34 (UTC)
クタベクニアキさんに出典の提示責任が発生していないことはわかってます。僕が上のコメントで括弧の中に書いたのは、もしだれかが(WP:Vを理由とした)除去に反対するならばその人に出典の提示責任が発生するという話で、現時点では僕もクタベクニアキさんも両方とも除去に反対していませんから、2人とも出典の提示責任は発生していません。
否定的な記述でなくともソースが出せない擬似情報は積極的に取り除くか、でなければ出典を求めるべきではないでしょうか。
というところについては、僕は「赤毛のアンのファンである」あるいは「尾崎豊を高く評価している」といった記述が「ソースが出せない擬似情報」であるとは思っていないので(「2009年12月9日 (水) 13:11」のコメントで書いたように、著書などからソースがだせるのではないかと推測しています)、積極的に除去すべきだとは思っていません(もちろん、現時点ではWP:Vを満たすような情報源が示されていないので、除去しようだと思うならだれでも除去することはできます)。クタベクニアキさんの{{出典の明記}}を貼った編集は妥当だと思います。ただし記事全体ではなく節単位で出典を求めているケースなのでsection=1を付加しておきました(差分)。
また、WP:LIVEで引用されているジミー・ウェールズの発言では「ソースが出せない擬似情報は積極的に取り除くべし」とされていますが、実際にソースが出せない擬似情報が記事にあったからといって個々のウィキペディアンに除去を行う義務が発生するわけではないわけで、僕が前回のコメントで
出典が無いなあと思いながらもそのまま放置することもできます。
と書いたのはそういう意味です(Wikipediaの方針として除去することができるor望まれるということと、個々のウィキペディアンが除去しなければならないかどうかは別ということ)。--貿易風 2009年12月23日 (水) 03:12 (UTC)
クタベクニアキさんに出典の提示責任が発生していないことはわかってます。ということであればなぜ除去に反対する場合は出典の提示責任が発生すると書かれたのか理由がわからないのですが、納得されているなら掘り下げません。それと「2009年12月9日 (水) 13:11」のコメントで書いたように、著書などからソースがだせるのではないかと推測していますとの事でしたら)。貿易風さんがそのあたりの出典を探されてはいかがでしょうか。また疑似情報の除去は義務ではないとしても、じゃあ誰が疑似情報を除去するんですか?という事になるから、ジミー・ウェルズは『ソースが出せない擬似情報は積極的に(aggressively)取り除くべきものなのだ。』とわざわざ言っているのではないでしょうか。言い換えるならば強制はできないが是非行ってほしいと書かれているわけですから、疑似情報は積極的に取り除くべきでしょうし、文面上それが明らかならば尚更の事です。(クタベクニアキ)--114.165.178.155 2010年1月14日 (木) 04:58 (UTC)

(インデント戻し)いまのところ僕は「赤毛のアンのファンである」あるいは「尾崎豊を高く評価している」についての出典を探す予定はありませんが、もしなにかの機会に適当なソースを見つけたら、本文に出典として明記するなりここで報告するなりしようと思います。「ソースが出せない擬似情報は積極的に取り除くべき」であるということに異論はないですよ。ただ、以前にも書いたように、僕はそもそも「赤毛のアンのファンである」あるいは「尾崎豊を高く評価している」という記述が「ソースが出せない擬似情報」に該当すると思っていない(=著書などからソースがだせるのではないかと推測している)というだけの話です。--貿易風 2010年1月14日 (木) 14:30 (UTC)

横から失礼します。「赤毛のアンのファンである」という点について。茂木さんの著作の中に「「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法(講談社, http://www.amazon.co.jp/dp/4062762323 )」という本があります。その中に「赤毛のアンのファンである」ということが了解できる内容が書かれています。(直接的に”ファンである”と明示した表現は見あたらないかもしれませんが非常に強く影響を受けたことは確実)それから、尾崎豊に関しては茂木さんのブログを根気強く探せばでてくるのではないかと思います。赤毛のアンと尾崎豊に関してはそのように記述を正当化する資料がでてくると思うのですが、それらの項目をWikipediaに記載することに意味があるかということに関しては強く疑問を感じます。クタベクニアキさんのおっしゃるように、「研究以外の活動」という項目すべて削ってしまってもいいのではないかと思います。2010年1月17日 (日) 15:41 (UTC) 野澤真一 2010年1月18日0:38--220.107.189.141
すみません、話の論点を理解していなかったようで間違ったことを言ったかもしれません。赤毛のアンに関してはファンであることではなく「NHK教育テレビの2007年年末特集番組で明かし。」ということの出典が曖昧なのですね。なのでこれに関しては、その部分を除去し、簡潔に「赤毛のアンのファンである」という表現にし、そこに出典として「「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法」のことを書けばよいと思います。100年後の人がこのWikipediaで茂木健一郎の事を知ったときに、「赤毛のアンのファンであった」事に対して、それを「NHKの特番で告白した」ということはあまりにも価値が低いように思われます。それから尾崎豊に関しては「特に歌詞に関しては「文学賞をとってもおかしくない」とコメント」という部分が曖昧なのですね。これに関しては僕も出典に関して心あたりがないので前言(ブログを探せば見つかる)撤回とさせてください。野澤真一 2010年1月18日1:15 --220.107.189.141 2010年1月17日 (日) 16:15 (UTC)
赤毛のアン関連の記述について、現在の状態よりも野澤真一さんが提案してくださった形での記述のほうが適当かと思います。もしよかったらそのように編集してみてください。--貿易風 2010年1月21日 (木) 12:43 (UTC)
貿易風さん、どう推測されているにせよ疑似情報か否かは重要な問題ですから積極的にお願いします。
野澤真一さんご意見ありがとうございます。「「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法」という本にそのような記述があるなら記事を修正することができるのでしょうが、当方はその本を読んでいないため、引き続き出典の明記を呼び掛けていくしかないのです。他力本願で申し訳ないのですが、ウィキペディアのルール上、その本を読まれている方が書き直さなければなりません。他の件についても同様ですので、野澤さん、または本を読まれた方にご協力をお願いできないでしょうか。(クタベクニアキ)--以上の署名のないコメントは、180.0.244.240会話/Whois)さんが 2010年2月1日 (月) 10:41 (UTC) に投稿したものです。
おっしゃっている意味がよくわからないですが、僕はいったいなにを「積極的にお願い」されているのでしょうか?--貿易風 2010年2月2日 (火) 12:36 (UTC)

(インデント戻し)それは当方の2010年1月14日の書き込みで「じゃあ誰が疑似情報を除去するんですか?という事になるから、ジミー・ウェルズは『ソースが出せない擬似情報は積極的に(aggressively)取り除くべきものなのだ。』とわざわざ言っているのではないでしょうか。言い換えるならば強制はできないが是非行ってほしいと書かれているわけですから、疑似情報は積極的に取り除くべきでしょうし、文面上それが明らかならば尚更の事です。」と書いたので念を押したんですね。貿易風さんは、以前は(出典のない情報は)「放っておくこともできます」という言い方をされていたのに、「著書などからソースがだせるのではないかと推測している」からというニュアンスに変わったのものもよくわかりませんでした。つまり、前回「積極的にお願いします。」と当方が書いたのは貿易風さんがどう推測されているにせよ、出典がない記事は放置せずにいったん除去するなり、タグを貼るなりして出典を求めましょうという事です。(前回は署名がなくて済みませんでした。クタベクニアキ)--180.0.244.240 2010年2月4日 (木) 15:28 (UTC)

繰り返しになりますが、僕はそもそも赤毛のアンや尾崎豊関連の記述が「ソースが出せない擬似情報」だとは思っていないので、少なくともジミー・ウェールズのアドバイスを根拠にして該当部分を除去する気はありません。タグについてもすでに{{要出典}}や節の冒頭の{{出典の明記|section=1}}が貼ってありますので、これ以上貼る気はありません。--貿易風 2010年2月5日 (金) 02:00 (UTC)
ちょっと待ってください。では、疑似情報ではないという根拠があるんですか?(クタベクニアキ)--180.0.244.240 2010年2月16日 (火) 16:20 (UTC)
いいえ。ありません。僕は赤毛のアンや尾崎豊関連の記述が「ソースが出せない擬似情報ではない」と主張しているわけではありません。ただ単に「利用者:貿易風は、ソースが出せない擬似情報であるとは思っていない」と述べただけです。この推測が正しいか間違っているかは現段階ではわかりませんが、野澤真一さんの上の発言が正しいならば、少なくとも赤毛のアンのファンであるということについては「ソースの出せない擬似情報ではないだろう」という推測は間違いではなかったことになります。--貿易風 2010年2月17日 (水) 04:34 (UTC)
貿易風さんの推測がどうであれ、実際には出典は見つかっていません。(クタベク)--114.165.173.240 2010年3月13日 (土) 07:00 (UTC)

セロニアス・モンクの節にて 編集

テレビ番組『ザ・ベストハウス123』2008年9月24日放送分で、茂木の説として、セロニアス・モンクは『他のピアニストとは違い、3次元で音を考えている』と紹介された。ただ、科学的事実のように説明されていたが、番組内で茂木の説の根拠は明らかにされなかった。

とありますが、「ただ、科学的事実の~」の節は、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません「ジャーナリズム」と照らし合わせて、ジャーナリスティックな記述であり、筆者の方の意見に過ぎず、Wikipediaの方針上不適切と考え、除去いたしました。--210.131.3.156 2010年2月1日 (月) 11:26 (UTC)

もう少し分かりやすい表現で記述いたしますと、「根拠が明らかにされたかどうか」は不必要だと考えます。紹介された事自体だけ述べれば十分だと考えます。Wikipediaは脳科学云々よりも公式のルールが優先される場所だと考えます。--210.131.3.183 2010年2月4日 (木) 15:20 (UTC)
Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありませんには「ジャーナリズム ウィキペディアはニュース速報を扱う際、現地で取材した生の情報を提供すべきではありません。ウィキペディアは一次資料ではありません」と書かれていますよね。テレビ番組は一次資料ではありませんし、もちろん生の情報でもありません。また『「根拠が明らかにされたかどうか」は不必要だと考えます。紹介された事自体だけ述べれば十分だと考えます。Wikipediaは脳科学云々よりも公式のルールが優先される場所だと考えます』とおっしゃっていますが、この場合、優先される公式のルールとはどれでしょうか?必要な記事を定めるルールとはどのルールですか?210.131.3.183さんの書き込みでは、どうも記事が必要か不必要か貴方個人の基準で決められているように見受けられます。(クタベクニアキ)--180.0.244.240 2010年2月4日 (木) 15:41 (UTC)
そもそもテレビ番組でセロニアス・モンクをどう紹介したかをわざわざ百科事典の記事に載せる必要性がわかりません。「セロニアス・モンク」というサブセクション自体が不要であり除去が妥当だと思います。茂木健一郎さんがさまざまなテレビ番組に出演しさまざまな話をしている中で、この話だけ唐突に記事に記述されているのは不自然です。
たとえば、(上の節でも書いた例ですが)茂木健一郎さんがテレビ番組において科学的根拠を明らかにすることなくセロニアス・モンクが3次元で音を考えていると発言したということについて、(一定の著名性のある)だれかから科学者としてあるまじき行為だとして批判されている、というようなことであれば、適切な出典を付加した上でそのことを記述してもいいかもしれませんが、現時点での記述は正直「だからなに…?」としかいいようがない(記載の必然性が無い)状態だと思います。
また、これも上でも書きましたが、『ザ・ベストハウス123』の2008年9月24日放送分を確認する手段が存在しないのであれば、単純にWikipedia:検証可能性の観点からも問題があります。--貿易風 2010年2月5日 (金) 02:00 (UTC)

「科学的事実云々」の掲載の可否については、特筆性の有無(「そんなことまでわざわざ細かく書く必要があるのか?」など)といった観点で語るべきことであり、「ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません」を持ち出すのはおかしいと思います。論点となっているのはテレビ放送に基づく記述ですが、発言の有無のみを記述した文章ですから、執筆者が個人的に現地調査をしたり独自の主張を展開しているわけではありません。この点、「ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません」を適用できるかどうかはやや微妙だろうと思います。(テレビ放送を見て「茂木氏は○○氏より背が高い」とか「茂木氏が着ていたスーツは○○店で販売していたもの」とか執筆者が勝手に類推して記述するなら「独自の考えを発表する場ではありません」を適用できるでしょうが)。もちろん「テレビは書籍に比べ出典として弱い」など、出典として相応しいか否かの議論も当然アリだと思いますが……。

そもそも「「根拠が明らかにされたかどうか」は不必要だと考えます。紹介された事自体だけ述べれば十分だと考えます」と発言していますが、それなら特筆性の有無が争点になるはずであり、なぜ「独自の考えを発表する場ではありません」を持ち出すのか理解しかねるのですが。他の利用者を巻き込んで議論した結果、仮に「独自研究にはあたらない」という結論が出たとしても、あなたが問題にしているのは特筆性の有無ですから、議論の結果の意味がないですよね。また「Wikipediaは脳科学云々よりも公式のルールが優先される場所だ」という主張も、何を言いたいのかよくわかりません。脳科学とウィキペディアのルールとの比較考量と、「科学的事実云々」の掲載の可否に直接的な関係があるのでしょうか。(そもそも、脳科学と言う学問分野と規範を比較する意味がわからない)

下の議論もそうなのですが、本来議論したい論点と全く観点の異なるルールを援用して問題の解決を図ろうとしているようですが、いったい何を目的にそのような行為を行うのか理解に苦しむところです。特筆性の有無を議論したいなら、最初からそう書けばいいと思います。ちょっと厳しい言い方をして申し訳ないですが、他の人に議論への参加を募っておき、独自研究か否かを議論させておきながら、「実は本当の問題は特筆性の有無なんです」などと後出しじゃんけんのように主張するのであれば、ほかの人の苦労が無駄になってしまいますよ。--以上の署名のないコメントは、114.48.157.14会話/Whois)さんが 2010年2月5日 (金) 11:49 (UTC) に投稿したものです。

コメントありがとうございます。ご指摘のとおり、論点とルールが完全にずれていました。もう一度方針文書を熟読したいと思います。また、「Wikipediaは脳科学云々よりも公式のルールが優先される場所だ」といった冷静さを欠いた言動は反省いたします。
Wikipediaには多くの利用者が編集に参加されています。中には根拠・出典のない批判や誹謗中傷の内容を含む記述をする人もいます。そのような記述を除去すると「なぜ俺の記述を消した!」と激怒し、自分の主張をノートに撒き散らす方もいます。
そのような方であっても、少しずつでもよいですが、そのような方でも方針を理解した上で適切な編集ができるようになって欲しい、と節に思います。--210.131.3.164 2010年2月6日 (土) 01:24 (UTC)
だれとだれが同一人物なのか判別しにくいので、クタベクニアキさんを含めてIPのままで発言されている方は、(継続して議論に参加される意思があるのであれば)なるべくアカウントを取得してくださるようにお願いします(Wikipedia:説明責任も参照)。--貿易風 2010年2月6日 (土) 11:59 (UTC)
コメント依頼の内容は「セロニアス・モンクと『「仮面のヒーロー」と「地上波の世界」』の記事の必要性について見解が分かれています。第三者の方の意見を求めるために依頼します」とのことでした。しかし、依頼者と思われる方は「根拠・出典のない批判や誹謗中傷の内容を含む記述をする人もいます。そのような記述を除去すると「なぜ俺の記述を消した!」と激怒し、自分の主張をノートに撒き散らす方もいます。そのような方であっても、少しずつでもよいですが、そのような方でも方針を理解した上で適切な編集ができるようになって欲しい」等と発言しています。そのような視点は大事な観点ですが、今回のコメント依頼の内容とは何の関係もなく、まして当セクションの議論とは何ら関係がありません。捨て台詞のようにこのようなコメントをしていくのはどういうことなのでしょうか。繰り返しになりますが、本来の議論内容とズレている主張を次々にするのはいい加減自重するべきだと思います。--以上の署名のないコメントは、114.48.195.64会話/Whois)さんが 2010年2月6日 (土) 16:12 (UTC) に投稿したものです。
ノートでの発言の際は署名をお願いします。Wikipedia:署名をごらんください。--貿易風 2010年2月7日 (日) 13:07 (UTC)
(インデント戻し)1週間ほど経ちましたがいまのところ掲載を希望される方から特に反応は無いようです。この発言からもう1週間ほど待って特に異論が出なければ、上で述べた理由から該当節は掲載する必要なしとの合意がとれたと判断し除去しようと思います。--貿易風 2010年2月14日 (日) 04:21 (UTC)
当方も「本来の議論内容とズレている主張を次々にするのはいい加減自重するべきだと思います。」という--以上の署名のないコメントは、114.48.195.64会話/Whois)さんが 2010年2月6日 (土) 16:12 (UTC) に投稿したものです。さんのご意見に同意します。
貿易風さんは・・・「ザ・ベストハウス123』の2008年9月24日放送分を確認する手段が存在しないのであれば、単純にWikipedia:検証可能性の観点からも問題があります」とおっしゃっていますが、 Wikipedia:検証可能性の<信頼性に乏しい情報源>WP:V#NRに『一般に、信頼性に乏しい情報源とは、事実確認について評判がよくない情報源、あるいは事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」等)、または編集上の監督を欠く情報源です』とあるのはご存知ですか?前にも当方が書いた気がしますが・・・。やはり『事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」等)』という文章の意味がおわかりでなかったでしょうか・・・もしかすると同じ名前の別の方でしょうか?また「現時点での記述は正直「だからなに…?」としかいいようがない(記載の必然性が無い)状態だと思います。」というのは、<尾崎豊>でも<赤毛のアン>などの<研究以外の活動>の節の記述にも言えることだと思いますがノートで議論している節が違いますので割愛します。(クタベクニアキ)--180.0.244.240 2010年2月14日 (日) 15:15 (UTC)
検証可能性というのはその記載の正当性を第三者がWikipedia外部の信頼できる情報源によって確認できるかどうかということです。『ザ・ベストハウス』の問題の放送回についてなんらかの形で確認する手段が存在していないのであれば、後者が満たされないため検証可能とはいえません。上の節でも書きましたが、テレビ番組でこれこれこういう発言をしたという事実自体の掲載の是非を論じているのですから、番組自体の内容の信頼性を問題にしているのではなく、番組内で本当に茂木健一郎さんがそういう発言をしたのかどうか(あるいは本当に科学的根拠が明らかにされなかったのかどうか)を確認する手段が存在していないと困る、という話です。繰り返しますが情報源の信頼性の話と、その情報源を確認することの可能性の話をごっちゃにしないようにお願いします。記事本文に「くだんの情報源によるものと明示」さえしておけばなんでも載せられるわけではありません。
が、はっきりいってしまえば今回の件についてはWP:Vを満たすかどうかということよりも記載の必然性が無いことの方が問題です。実際、いま僕が除去を提案しているの理由も記載の必然性の無さがまず第一の理由であり、WP:Vのみを根拠としているのではありません。もっとも、WP:Vのクタベクニアキさんが引用されていた箇所には「もしもその情報が重要で残す値打ちがあるものならば、…」という条件がありますから、記載の必然性がないというはこの部分が満たされていないのだと言い換えることもできますが。
それと、上のクタベクニアキさんの発言を見る限りでは、結局のところ「セロニアス・モンク」のサブセクションの除去に反対されているのかそうでないのかわかりません。以前の発言で書いたように、特に反対の方がいらっしゃらなければ除去を予定していますので掲載を希望する場合は必ずそのむねかいてくださるようにお願いします。また、もし掲載を希望されるのであれば、このサブセクションの内容を百科事典の記事に掲載することにどんな意義があるのか説明もお願いします。
尾崎豊や赤毛のアン関連の記述を記載する必然性・重要性があるかどうかについては、ご指摘の通り少なくともこの節で議論すべきことではありませんので、僕のほうからも特にコメントはありません。
最後に、Wikipediaはシステム上全く同じ名前のアカウントが2つ以上あるということはありえませんので、この発言を書いている利用者:貿易風は上の節での利用者:貿易風と同一人物です。--貿易風 2010年2月15日 (月) 04:18 (UTC)
そもそも、この<セロニアス・モンクの節にて >の議論の焦点は210.131.3.156さんが<セロニアス・モンク>の節を「ジャーナリスティックな記述であり、筆者の方の意見に過ぎず、Wikipediaの方針上不適切と考え、除去」した事です。それに対して述べられた114.48.157.14さんのご意見には、210.131.3.164さんが「コメントありがとうございます。ご指摘のとおり、論点とルールが完全にずれていました。もう一度方針文書を熟読したいと思います。また、「Wikipediaは脳科学云々よりも公式のルールが優先される場所だ」といった冷静さを欠いた言動は反省いたします。」と返答しています。
これで終局です。
貿易風 さんは「特に異論が出なければ、上で述べた理由から該当節は掲載する必要なしとの合意がとれたと判断し除去しようと」思うと書かれていますが、それは提案者が取り下げた議論を蒸し返しているだけです。掲載を希望しているかどうか以前に、掲題の節を除去すべきという議論を、もうこの節ではしていません。
また「上の節でも書きましたが、テレビ番組でこれこれこういう発言をしたという事実自体の掲載の是非を論じているのですから、番組自体の内容の信頼性を問題にしているのではなく、番組内で本当に茂木健一郎さんがそういう発言をしたのかどうか(あるいは本当に科学的根拠が明らかにされなかったのかどうか)を確認する手段が存在していないと困る、という話です。」とのことですが、何度も言うようですが、WP:V#NRには、信頼性の乏しい情報源について『あるいは事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」等)、または編集上の監督を欠く情報源』でも掲載できるとあるのでご確認ください。当方は「番組自体の内容の信頼性を問題に」などしていません。 つまり、番組の内容を確認する手段がないから除去するという貿易風さんの主張は、WP:V#NRというウィキペディアのルールを履きちがえているという事です。
以上の点を踏まえた上で、まだ「僕が除去を提案しているの理由も記載の必然性の無さがまず第一の理由」として除去をしたいということならば、ほかの本文の記述には記載の必然性があるのですか?もし本文に書かれている記事で除去をしない理由なり必然性があるとお考えならば、本文の内容を百科事典の記事に掲載することにどんな意義があるのか、まず説明をお願いします。 (クタベクニアキ)--180.0.244.240 2010年2月16日 (火) 16:37 (UTC)
(インデント戻し)もともとこの節を立ち上げた210.131.3.183さんは現時点では除去する意思を失われているのかもしれませんが、利用者:貿易風は(210.131.3.183さんと違って)除去すべきだと考えていますので、除去を提案しています。
で、本題に入ります。まずWP:Vについてですが、方針文書に書かれているのは「原則として信頼のおけない(事実確認の機能がなかったり評判が悪かったりするような)情報源はWikipediaにおける出典にできない」ということであり、その原則の例外として、「その情報に記載するだけの重要性があるなら、くだんの情報源によるものと明示して載せることもできる」という話が書かれています。
『ザ・ベストハウス132』については、それが「信頼性の乏しい情報源」の条件のひとつである「事実確認の機能を欠く情報源」であるか否かという以前の問題として、そもそもその情報源を確認する手段がいまのところ見つかっていないことを指摘しています。以前にも述べたように、その番組が「信頼性の乏しい情報源かどうか(事実確認の機能を欠いているかどうか)」ではなく「情報源を確認する手段が存在しているかどうか」を問題にしていますので、Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源の記述は関係がありません。
なお、念のため書いておきますが、Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源で書かれている「事実確認の機能」というのは、その情報源が公表されるにあたって情報源の発信源(発行元)がその情報の正当性のチェックを十分に行っているかどうかという意味での「事実確認」であり(つまり査読に相当するようなプロセスを経た上で公表されているかということです)、第三者がその情報源にアクセスして問題となっている記述を確認できるかどうかという意味での「事実確認」ではないのでご注意ください。もしかしたらWP:Vに書かれている「TVで観た」等というところが誤解を生んでいるのかもしれませんが、これはあまり適切な例示ではありません(除去したほうがいいかもしれませんがそれはWikipedia‐ノート:検証可能性で議論すべきことなのでここでは深入りしないでおきます)。
また、除去提案の第一の理由としている記載の必然性についてですが、ここでは僕はあくまで「セロニアス・モンク」のサブセクションの記載についてのみ除去を提案していますので、記事のそれ以外の部分について掲載しておくだけの必然性があるかどうかについて論じる気はありません。もしそういった議論が必要だとお考えであれば、新たにノートに節を作り、具体的にどの部分の記載の是非・必然性の有無について論じるのかを明示して問題提起をなさってください。繰り返しますが、もし「セロニアス・モンク」のサブセクションの内容の掲載を希望されるのであれば、その内容を百科事典の記事に掲載する必然性について、説明をお願いします。僕はこれまでに述べてきたように記載の必然性は無いと考えていますので、特に反論が無いのであれば除去しようと考えています。--貿易風 2010年2月17日 (水) 04:34 (UTC)
10日ほど経ちましたが、検証可能性や記載の必然性について説明や反論などはないようだったので、「セロニアス・モンク」のサブセクションはさきほど除去しました(差分)。掲載を希望される方は改めて提案してください。--貿易風 2010年2月27日 (土) 04:02 (UTC)
もともとこの節を立ち上げた210.131.3.183さんは現時点では除去する意思を失われているのかもしれませんが、利用者:貿易風は(210.131.3.183さんと違って)除去すべきだと考えていますので、除去を提案しています。」とおっしゃっていますが、210.131.3.183さんの主張と貿易風さんの主張は論点が異なっていますので、もし除去の提案をされたいのであれば(貿易風さんの流儀によるならば)改めて節を設けて提案するべきでしょう。また「除去提案の第一の理由としている記載の必然性についてですが、ここでは僕はあくまで「セロニアス・モンク」のサブセクションの記載についてのみ除去を提案しています」との事ですが、具体的にどのような問題があるのでしょうか?また「念のため書いておきますが、Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源で書かれている「事実確認の機能」というのは、その情報源が公表されるにあたって情報源の発信源(発行元)がその情報の正当性のチェックを十分に行っているかどうかという意味での「事実確認」であり(つまり査読に相当するようなプロセスを経た上で公表されているかということです)、第三者がその情報源にアクセスして問題となっている記述を確認できるかどうかという意味での「事実確認」ではないのでご注意ください。」とありますが、それはウィキペディアのどのルールの事をおっしゃられているのでしょうか。これも具体例が分かりませんので提示してください。どうも、ご勝手に作られた貿易風ルールを振りかざしているように思われるのですが。十日経ったといっても貴方が期限を決めているだけですので、残念ですが同意はできませんね。(クタベクニアキ)--114.165.173.240 2010年3月11日 (木) 15:58 (UTC)

横から失礼します。単純な問題ではなさそうですが、問題の一つとなっているであろう、テレビ番組が情報源として適切なのかどうかについて私の意見を述べます。 まず、テレビ番組は、一部のもの(ドキュメンタリー、アニメ、ドラマ)を除いてビデオやDVDなどの媒体で誰もが(お金を出せば)閲覧できるという状態にはなっておらず、井戸端やWP:Vのノートなどにおいて何度も何度も議論になっています。 つまり、そういったものを出典としてWikipediaに書くのは慎重になるべき、または信頼できる二次資料が見つかるまで自重すべきだと思います。

なぜこのことがWikipediaの公式ルールとして制定されていないかといえば、アメリカでは多くの番組がアーカイブ化され閲覧可能(つまり検証可能)となっているからです。これが日本とは違うところで、テレビで観たというのが情報として不十分、としか書かれていないのはおそらく具体的な放送日や番組名が分かれば誰でも検証可能だというアメリカの事情を反映したものだと思われます。

よって、日本においてバラエティ番組のようなDVD化されず、現在のところテレビ局がアーカイブとして公開していない情報源は使用すべきではありません。 もし、茂木健一郎の同番組における発言が問題になった、あるいは問題にされたという情報源があれば、それを掲載すべきであり、検証不可能(たとえば動画配信サイトに違法アップロードされたものは検証可能とはなりません)な一次資料だけでその記述を載せるのは反対です。

テレビ番組で、なおかつバラエティ番組のようなDVD化がなされていないものを出典として挙げられるのは、それ自体(つまり、番組そのもの)の記事においてか、テレビ番組に関連する記事に留めるべきです。茂木健一郎は著作も多数ありますし、講演の模様がCD化されたものも存在しています。わざわざ「誰もが検証できないようなテレビ番組を出典とする記述」を載せるべきとは思えません。--グラン 2010年3月11日 (木) 16:40 (UTC)

もうひとつ、WP:LIVEからもこの記述が載せるべきでない理由を書きます。
現在の記述「科学的な根拠の説明はされなかったが、茂木の説としてセロニアス・モンクは『他のピアニストとは違い、3次元で音を考えている』と紹介された。」は、科学的根拠がないにも関わらず自説を紹介した、と読めます。これは、WP:LIVEの「存命中の人物に関する否定的な情報で出典の無い、あるいは貧弱なソース(情報源)しかないものは、項目本文およびノートから即刻除去するべきです」に該当すると考えられます。
なぜなら、茂木は肩書としては研究員であり、理学の博士号もとっています。この情報が事実でなかった場合、「茂木は科学に携わる人間でありながら科学的根拠のない自説を披露した」という風に捉えられ、茂木の名誉を傷つける恐れがあるからです。存命人物の記事においては、特にこういう恐れのある微妙な情報源は積極的に排除されなくてはなりません。アーカイブ化されていないテレビ番組は限られた一部の人間しか検証することが出来ず、貧弱なソースに当たります。--グラン 2010年3月11日 (木) 16:53 (UTC)
(クタベクニアキさんへのレス)
すいませんがいったん差し戻しました(差分)。Wikipediaでは、基本的に1週間(168時間)経過しても反論がない場合は、提案されていた内容で暫定的な合意が形成されます(Wikipedia:合意形成#合意形成を参照)。今回の件では、それを越える10日もの間反論がありせんでしたので、提案通りに除去を行いました。合意は永久なものではないので変更することができますが、復帰したいというところであればあらためて「やっぱりこれこれこういう理由から除去された部分は復帰するべきである」という提案を(この節内でも新たな節でもかまいませんので)行い、それについてあらためて合意を得た上で復帰ないし差し戻しを行ってください。
「もし除去の提案をされたいのであれば(貿易風さんの流儀によるならば)改めて節を設けて提案するべきでしょう」という意見については同意しません。ここはノートの「セロニアス・モンクの節にて」という名前の節ですので、この節内においてまったく別の部分についての議論を開始するのは不適切ですが、議論の対象となっている箇所および提案内容自体は同じですので、最初の節をつくった人と別の理由だからといってまたあらためて節をつくりなおして提案しなければならないとは、僕は思いません。もっとも節をあらためるべきだったかどうかについてこれ以上議論するのは不毛ですから、ここから先は必要であればセロニアス・モンクの話を載せるかどうかということだけに話を絞りましょう。
「具体的にどんな問題があるのでしょう?」という質問については、すでに何度も繰り返し説明していますが、「わざわざ書く必要がない情報が書かれている」ことを問題視しています。そして第二の問題点として、WP:V上の問題をも指摘しています。
「それはウィキペディアのどのルールの事をおっしゃられているのでしょうか?」という質問については、当然ながらWikipedia:検証可能性の話をしています。「2010年2月16日 (火) 16:37」のクタベクニアキさんの発言をみる限り、クタベクニアキさんは同方針中の「事実確認」という語句の意味を誤解されているようだったので、そのことを指摘しました。つまり、「『ザ・ベストハウス123』2008年9月24日放送分がアーカイブ化されていないから検証可能とはいえず、WP:Vの観点から問題がある」という僕の指摘に対してクタベクニアキさんがWikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源を根拠として「くだんの情報源によるものと明示してあるから問題ない」という形の反論をされたので、その部分で引用されている「事実確認の機能」というのは情報源の発表元が行う事実確認プロセスのことであって、情報源へのアクセスの可能性の話ではない、といっているわけです。--貿易風 2010年3月12日 (金) 02:11 (UTC)
いえ、ですから、その貿易風 さんがいわれている「「事実確認の機能」というのは情報源の発表元が行う事実確認プロセスのことであって、情報源へのアクセスの可能性の話ではない、といっている」根拠がWikipedia:検証可能性にはありませんよね。解釈の相違ではなく、ルールにどう書かれているかが問題なのです。つまり、ルールには実際には書かれていないのに貿易風さんが都合のいいように拡大解釈して(除去して)いる(ように見える)という事です。また「「2010年2月16日 (火) 16:37」のクタベクニアキさんの発言をみる限り、クタベクニアキさんは同方針中の「事実確認」という語句の意味を誤解されているようだったので、そのことを指摘しました。」と言われていますが、その”同方針中の「事実確認」という語句の意味”はどこに書かれているのかご教示願います。それと、「議論の対象となっている箇所および提案内容自体は同じ」であるなら、やはり既に終わった議論を蒸し返している事になります。ゆえに「10日もの間反論がありせんでした」という除去理由は正当なものではないと考えます。
またグラン さんは「アメリカでは多くの番組がアーカイブ化され閲覧可能(つまり検証可能)となっているからです。これが日本とは違うところで、テレビで観たというのが情報として不十分、としか書かれていないのはおそらく具体的な放送日や番組名が分かれば誰でも検証可能だというアメリカの事情を反映したものだと思われます。よって、日本においてバラエティ番組のようなDVD化されず、現在のところテレビ局がアーカイブとして公開していない情報源は使用すべきではありません。」とありますが、アメリカの放送事情がほんとうにそうなっているのかわからないので、具体例を提示していただければ幸いです。また、日本では番組を(アメリカのように?)アーカイブ化していてもいなくても、ウィキペディアの日本語版WP:V#NRには出典の乏しい情報源についての記述がありますから、国ごとの事情がどうであれ、拡大解釈をせずに、このルールを読めば出典の乏しい情報源に基づいても書くことができるという事になります。
また、「茂木の説としてセロニアス・モンクは『他のピアニストとは違い、3次元で音を考えている』と紹介された。」は、科学的根拠がないにも関わらず自説を紹介した、と読めます。」と書かれていますが、それは貴方が<セロニアス・モンク>の文章をそう読んだということであって、本文にそう書いているという事ではありません。<セロニアス・モンク>の書いた本人としては否定的なニュアンスではなく”茂木がこのように言った”という事実に基づいて書いたつもりですので、これは、WP:LIVEの「存命中の人物に関する否定的な情報」に該当するとは考えていません。
以上の点から、除去理由が不当と考えます。本文<セロニアスモンク>の差し戻しを提案、実行します。(クタベクニアキ)--114.165.173.240 2010年3月13日 (土) 06:57 (UTC)
まずはじめに、私は利用者:グランと同一人物です。諸事情により別のアカウントでログインしています。よって、この意見は冬ぐらたんの独立した意見ではなく、グランの意見としてください。
アメリカでの事情云々は、伝聞ですので正確なことは分かりません。申し訳ないのですが、井戸端や検証可能性あたりのノートの過去ログのどこかにあったと思います。
しかし、私が重要視しているのはそのことではなくて、日本においてはアーカイブ化されていないですよね、ということです。
これもまた過去ログの話ですが、あるユーザーは「検証困難と検証不可能は違う」と発言しておられます。どういうことかというと、書籍の場合、よっぽどの特殊なものでない限りほぼすべてのものが国会図書館に収められています。国会図書館まで行く費用などは別にして、閲覧するのはタダです。よって、書籍というのは完全に検証可能性を満たしていると考えられます。しかし、地方に住んでいれば国会図書館に出向くことは難しいでしょう。よって、一部の人にとっては検証困難であると言えます。
ひるがえってテレビ番組はどうか。たとえば市販されている有名なバラエティ番組(8時だよ全員集合みたいな)は、概ね検証出来ます。これは検証困難(お金を払わないと見れない)ではありますが不可能ではありません。一方、そのほかのDVD化されていないテレビ番組は、よっぽどのことが無い限りアーカイブにアクセスすることが出来ません。出来るのはテレビ局など特殊な人々だけであり、一般人が「見せてくれ」と言ってもまず見せてもらえません。これは、検証困難ではなく検証不可能になります。
録画したビデオを見せればいいというのも乱暴な意見ですよね。国会図書館は、原則日本に住んでいれば誰でも行くことが出来るし誰でも本を閲覧出来ます。しかし、それを録画したビデオでやろうとすると、このページを見る可能性のある日本人一億人にビデオを貸さなくてはなりません。現実的に不可能です。
以上のようなことから、アーカイブとして一般に公開するというシステムがない現在の状況で、テレビ番組を出典として利用するのはよっぽどのことが無い限り避けたほうがいいというのが、大方の意見です。中には、市販されていようと図書館で閲覧できるドキュメンタリーであろうと、映像資料は使うべきではないという人もいましたが。まぁそういう意見があると考えても、容易にテレビ番組を出典として挙げるべきではないでしょう。
それと、否定的解釈のことについてですが、私は少なくともそう見ています。茂木は脳科学者として紹介されることが多いですし、概ね世間ではサイエンティストという認識があるでしょう。その茂木が、いい加減なことをさも本当であるかのように発言したとすれば、普通はいくらかの批判があるところです。
ここまでは私の意見。しかし、存命人物における伝記の場合、このようなルールがあります。このページの一番上を見てください。「論争の元となり得る記述については、出典が明記されていなかったり、信頼性に乏しい情報源を出典としている場合、直ちに除去しなければなりません。」
私は以前別の記事においてもこの点についてユーザーとやりとりをしたことがありますが、論争の元になりうる記述というのは「否定的とも解釈できるしそうでないとも解釈できる情報」のことです。誰か一人でも否定的に解釈出来るとすれば、それは論争の元になりうる記述であり、そういったものを、貧弱なソース(誰にでも検証できるわけではないもの)だけをもとにして記述するというのは、存命人物の名誉を傷つける危険性が少しでもあるということです。
存命人物の伝記、すなわちWP:LIVEにおいては、そういった不明瞭でなおかつ否定的に捉えられるような微妙な情報はすぐに排除すべきと考えられています。そもそもこの記述は、単なる発言集のようなものの一つであって、貿易風さんもおっしゃっていますが載せる理由がありません。
テレビタレントの記事が、発言を集めただけの役に立たない記事になっていることは何度も議論されています。私はこの点からも、載せるべきではないと考えます。
これだけ理由があるのですから、載せることにこだわる理由はないと思われます。--冬ぐらたん 2010年3月13日 (土) 08:45 (UTC)
では、確認します。クタベクニアキさんは、
ということでよろしいでしょうか?もしそうであれば、いったんWikipedia‐ノート:検証可能性にて「信頼性に乏しい情報源」の節の文言をどう解釈するのが適切かについて意見を募ろうと思います。
で、僕がセロニアス・モンクのサブセクションを除去すべきと主張している第一の理由は「必然性が無いから」ですので、(これまでにも繰り返しお願いしているにもかかわらずお答えいただけていないのですが)なぜこの記述を記事に掲載する必要があるのか説明をお願いします。ご存知とは思いますが茂木健一郎さんは『ザ・ベストハウス123』に限らずさまざまなテレビ番組に出演し、そのたびに色々な発言をしています。その中で、なぜわざわざ「セロニアス・モンクが3次元で音を考えていると発言した」ということをピックアップする必要があるのでしょうか。以前にも言いましたが、わざわざ取り上げなければならないような重要な発言であるなら、そのことがWikipedia外部の信頼のおける2次情報源で(肯定的にせよ否定的に中立的にせよ)引用されているでしょうから、そういった「茂木健一郎のセロニアス・モンク関連の発言が、百科事典で言及するほどの価値がある有意義な情報であることを示す情報源」を提示してください。お願いします。--貿易風 2010年3月14日 (日) 09:22 (UTC)

(インデント戻し)グラン さんは「アメリカでは多くの番組がアーカイブ化され閲覧可能(つまり検証可能)となっているからです。これが日本とは違うところで、テレビで観たというのが情報として不十分、としか書かれていないのはおそらく具体的な放送日や番組名が分かれば誰でも検証可能だというアメリカの事情を反映したものだと思われます。」と書かれていましたよね。にもかかわらず「アメリカでの事情云々は、伝聞ですので正確なことは分かりません」とはどういうことでしょうか。説得力が全くありません。アメリカはこうだからウィキペディアのルールではこうなっている、ということではなかったんですか?原典である元の情報が不確かなのに日本版でのアーカイブの扱いについてあれこれといわれても話し合いになりません。 また「テレビ番組を出典として利用するのはよっぽどのことが無い限り避けたほうがいいというのが、大方の意見です。」と言われていますが、グラン さんはウィキペディアにどれだけテレビやラジオが出典になっている記事があるのかわかった上で「大方の意見」などという表現をされているのでしょうか。茂木健一郎の項に限っても、もしテレビやラジオの番組が出典として認められないと仰るのであれば、いま本文に書かれているテレビ・ラジオの情報をいったんすべて除去し、テレビ情報誌などの査読可能な出典を明記できるものだけ改めて記述してください。また「論争の元となり得る記述については、出典が明記されていなかったり、信頼性に乏しい情報源を出典としている場合、直ちに除去しなければなりません。」「論争の元になりうる記述というのは「否定的とも解釈できるしそうでないとも解釈できる情報」」と仰っていますが、本文を読んでいただければわかるように、そもそも記事に書いてあるのは茂木健一郎本人の発言です。ご本人の発言がなぜ「否定的とも解釈できるしそうでないとも解釈できる情報」に当たるのでしょうか。当然ながら、出典があり、また茂木本人の発言でもあるので批判ではないため、<出典無き批判は除去>WP:LIVEにも当てはまりません。

貿易風さんの「いったんWikipedia‐ノート:検証可能性にて「信頼性に乏しい情報源」の節の文言をどう解釈するのが適切かについて意見を募ろうと思います。」という発言には同意します。興味がありますので当該記事の解釈を募ってください。 また「僕がセロニアス・モンクのサブセクションを除去すべきと主張している第一の理由は「必然性が無いから」です」とのことですが、その件については既に「ほかの本文の記述には記載の必然性があるのですか?もし本文に書かれている記事で除去をしない理由なり必然性があるとお考えならば、本文の内容を百科事典の記事に掲載することにどんな意義があるのか、まず説明をお願いします」と2010年2月16日 (火) 16:37 (UTC)に書いています。本文に書かれている記事の内容がわざわざ取り上げなければならないような重要な発言であるなら、そのことがWikipedia外部の信頼のおける2次情報源で(肯定的にせよ否定的に中立的にせよ)引用されているでしょうから、百科事典で言及するほどの価値がある有意義な情報であることを示す情報源」を提示してください。お願いします。ついでに書きますが必然性、という貿易風さんのお言葉がウィキペディア的にどのように使われているのかわかりませんが、<セロニアス・モンク>等の記事は少なくとも<Wikipedia:無意味な記述>WP:PNにあてはまるものではありません。(クタベクニアキ)--114.165.173.240 2010年4月7日 (水) 17:14 (UTC)

申し訳ありません。伝聞なので正確なことはわからないといったのは、私が書いたことはWikipediaのノートの議論を思い出しながら書いたことだったので正確かどうかは分からないという意味でした。該当するノートページを探す余裕がなかったのです。
しかし、探してみたら案外簡単に見つかりました。是非ご覧になってください。ここです→[1]
該当部分を引用すると、
英語版のこちらの議論では、「テレビ番組がvalid sourceであることは間違いないが、実際の問題として、入手困難なビデオを出典として怪しい情報を書かれたら、どうすれば良いのか?」のような論調になっています。アメリカでは、日本よりテレビ番組のビデオの入手が容易のようなのでen:Wikipedia talk:Verifiability/Archive 16#Verifiability of television_episodes、それも議論に影響を与えているかもしれません。私としては、少なくともビデオが入手できないようだと、やはり「検証不能」と言わざるを得ないのではないかと思います。(でないと、前述の「怪しい情報」を除去できなくなります。)--Dwy 2007年7月4日 (水) 13:09 (UTC)
という風なことのようです。つまり、アーカイブ化されたというのは私の記憶の誤りでした。どうやらアメリカでは、日本よりもビデオ化される番組の割合が多いようで、英語版の議論で問題になっているのは「ビデオが入手困難な場合」であって、テレビ番組そのものではないようです(というのが引用部分の話です)
つまり、テレビ番組そのものはソースとなりうる、しかしソースが入手できる状態になってない場合はダメ、という風な認識であって、これは検証可能性や信頼できる情報源のルールから見ても何ら問題はありません。また詳しくは見ていませんが、テレビ番組そのものをソースとして利用できないという議論は英語版でなされていないようなので、媒体が存在すればOKなのだと思います。
しかし、ここで問題になっている発言を確認できる「合法的な」手段がないことは確かですよね。ビデオ化(DVD化)されていないからです。今後アーカイブ化されたり、インターネット配信が行われるようになった時は確認可能となりますから、その時載せればいいのではないかと思います。
テレビを出典としなければならない記事が山ほどあるのは私も分かっていますし、そういうものに関しては出典として(たとえ入手可能なソースがなくても)挙げなければならないでしょう。だから、余程のことがない限り、と書いたのです。上で書いたことを繰り返しますが、茂木は講演を記録したCDや著作が多数あり、わざわざソースの確認すら出来ないテレビ番組を複数の情報もないのに挙げる理由が無いと思いますよ。
そしてそれとは別に、出典なき批判は除去に関する返答ですが、WP:LIVEをもう一度ご覧ください。この原則は、ウィキペディア内に見つかる存命人物に関する素材なら何にでも当てはまりますとあります。さらに、茂木本人の発言だから批判じゃないというのは違います。クタベさんは「出典なき批判は除去」という言葉だけでそう判断しているようですが、中身を読めば批判だけが問題となるわけではないことは分かります。詳細は3RRを参照と描かれているところを見てください。[2]には、生存中の人物の来歴、あるいは関連するノートページにおいて、出典のない、あるいは出典に乏しい、不名誉な情報を取り除くことは、すべての利用者に推奨されています。とあります。論争の元となる記述には、人物への批判だけでなく、不名誉な情報(先の、この原則は~何にでも当てはまりますに通じる)も含むと言うことです。つまり、私やこのページをみた利用者が「茂木健一郎は不適切な発言をしたのではないか」ととれるような記述を、確認出来ないテレビ番組の1次情報だけをソースとして載せるのはやめたほうがいいだろうということです。
これで、あなたの反論に対する返答にはなったと思います。なお、確認出来ないソース(テレビ番組)をもとにしている記述は確かにありますが、たとえば赤毛のアンを原書で読破したことは、どこからどうみても批判的な記述とはなりえませんので問題はないと思います。テレビがソースだからすぐ消せと言ってるわけではないのです。--冬ぐらたん 2010年4月7日 (水) 20:00 (UTC)
「事実確認の機能」の解釈については、Wikipedia‐ノート:検証可能性で意見を募ってみます。
記載の必然性についてですが、クタベクニアキさんの「2010年2月16日 (火) 16:37」の発言については、僕は「2010年2月17日 (水) 04:34」に返事を書いているのでそちらをご覧ください。念のため繰り返しますが、ここではあくまで「セロニアス・モンク」のサブセクションの記載の是非について議論をしているので、ここでこの記事のほかの部分の記載の必然性について論じるつもりはありません。もしクタベクニアキさんが「セロニアス・モンク」のサブセクション以外のどこかしらの部分について記載の必然性があるかどあうか疑わしいとか議論が必要だとかお考えであれば、あらためて節をつくってそちらで展開していただければと思います。僕がここで主張しているのは「『セロニアス・モンク』のサブセクションについて記載の必然性が無い」ということであり、「この記事の『セロニアス・モンク』の節以外の部分には必然性がある」ということではありませんので(は必ずしも真ならず)、他の部分について僕が「百科事典で言及するほどの価値がある有意義な情報であることを示す情報源」を提示する必要はありません。
また、僕はWikipedia:無意味な記述を根拠としてセロニアス・モンク関連の記述の除去を主張しているわけでもありませんので、その方針文書も関係ありません。「無意味ではないが、少なくともそれ単独では『だから何…?』としかいいようがないどうでもいい情報なので、記事に掲載する必要は無い」といっているのです。これも前に書きましたが、どうしても掲載を希望されるのであれば、例えば「番組中での○○という発言について、だれだれがこのような批判をした」といった反響を示すなど、それが(番組内での発言をぽこっと抜き出しました、というレベルではなく)百科事典に取り上げるだけの価値のある読者にとって有益な情報であるということを示してくださるようお願いします。--貿易風 2010年4月10日 (土) 08:36 (UTC)

「仮面のヒーロー」と「地上波の世界」 編集

『「仮面のヒーロー」と「地上波の世界」』の節ですが、

注:事実関係についてはここでは触れないので、『特撮』や『スーパーヒーロー』などの記事を参照し判断されたい。

とありますが、参照しても意味がわかりません(何をいいたいのか分からない)でした。意図不明な記述は百科事典に不必要と考えますが、いかがでしょうか。--210.131.3.166 2010年2月2日 (火) 16:13 (UTC)

180.0.244.240さんによって「ウィキペディアは個人の意見を書く場ではないので当たり前です」と書かれましたが、言葉を濁す表現を残し続けるのであれば、百科事典に相応しくない記述を残すことになります。この節全体を除去した方が良いと考えますが、いかがでしょうか。--210.131.3.183 2010年2月4日 (木) 15:16 (UTC)
「言葉を濁す表現を残し続けるのであれば、百科事典に相応しくない記述を残すことになります。」との事ですが、「百科事典に相応しくない記述」を定めるルールを御存知でしたら教えてください。ところで、言葉を濁す表現とはどの文章の事でしょうか。そもそも「言葉を濁す」という言葉はどういう意味で使われているのでしょうか?誤解されているようですが、出典のMP3をお聞きいただければわかるように、当方が文章内容を考えたのではなく、茂木健一郎さん本人の言葉ですので、出典に忠実であるという事を留意されたいと思います。「何をいいたいのか分からない」と言われる件については「ウィキペディアは個人の意見を書く場ではないので当たり前です」。また210.131.3.183さんは編集内容の要約やこのノートページで言われている事が毎回違うようです。これはルールがどうというよりも、除去したい記事が貴方のなかですでに決まっていて、それに合わせてなにかしら接触するかもしれない理由をつけて除去しているのではないでしょうか。それは話が逆だと思います。最後に、編集合戦を避けるため話がつくまで除去はしないで下さい。(クタベクニアキ)--180.0.244.240 2010年2月4日 (木) 16:02 (UTC)
これについても上の節の「セロニアス・モンク」と同様、少なくとも現時点での文面を見る限りでは「「仮面のヒーロー」と「地上波の世界」」というサブセクション自体が不要であるように思えます。理由も同様で、茂木健一郎さんが講演会なりテレビ番組なり自身の著書なりで色々な意見を述べられている中で、なぜこの発言を引用して取り上げるのか、という必然性が不明だからです。少なくとも
事実関係についてはここでは触れないので、『特撮』や『スーパーヒーロー』などの記事を参照し判断されたい。
と書かれた脚注については、外すべきでしょう。210.131.3.166さんのおっしゃるとおり記載意図が不明ですし、もし読者をなんらかの観点に誘導する意図があるならそれはそれで不適当です。
また、現在このサブセクションの冒頭に書かれている
以下は百科事典として不適切な情報(Wikipedia:言葉を濁さない違反)を含んでいます。
という注意書きも除去すべきです。この節の内容は、Wikipedia:言葉を濁さないの観点からは問題はありません。--貿易風 2010年2月5日 (金) 02:00 (UTC)

210.131.3.166さんの「論の立て方」が明らかに不適切だと考えます。「言葉を濁す表現だから節全体を削除せよ」との主張は、全く意味がわかりません。

「この発言には特筆性があるとは言えず、取り立てて記載する必要はない」と述べて、特筆性の有無を争点にするならまだ理解できます。また、「MP3は出典として認められない」と述べて、出典の妥当性を争点にするならまだ理解できます。しかし、「言葉を濁す表現だから節全体を削除せよ」と言う主張は、とんちんかんな主張としか思えません。まず、言葉を濁している箇所が見当たりません。慣用句としての「言葉を濁す」と意味をわかっているのでしょうか。

また「『特撮』や『スーパーヒーロー』などの記事を参照し判断されたい」との文章について「参照しても意味がわかりません」とおっしゃっています。しかし、この文章自体の意味がわからないというなら編集削除(or修正)すればよいだけです。(『特撮』や『スーパーヒーロー』の記事内部に意味の分からない表現があるなら、そちらの記事で議論すれば言いだけの話です。)

節の存廃について議論したいのであれば、特筆性の有無や記述の妥当性について議論するべきだと思います。「言葉を濁す表現か否か」は文章表現としての観点であり、存廃を議論する際の理由としてはズレていると思います。--以上の署名のないコメントは、114.48.157.14会話/Whois)さんが 2010年2月5日 (金) 09:38 (UTC) に投稿したものです。

コメントありがとうございます。「参照しても分からない」事項を「言葉を濁さない」違反は当方の思い込みで、不適切でした。注意書きは除去いたしました。--210.131.3.140 2010年2月5日 (金) 10:22 (UTC)
了解しました。ひとまず「言葉を濁さない」云々の議論についてはいったん締めでよいでしょう。そのうえで『「仮面のヒーロー」と「地上波の世界」』の節の削除について議論したいのであれば、セクションを改めて提起してください。(このセクションの末尾で新たな議論を展開すると、見通しが悪くなりますので)--114.48.157.14 2010年2月5日 (金) 11:49 (UTC)
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