パウル・アッシャー
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パウル・アッシャー (Paul Ascher) はドイツの海軍軍人。第二次世界大戦中、艦隊司令部参謀としてビスマルクに乗艦し、ライン演習作戦において戦死した。
パウル・アッシャー | |
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生誕 |
1899年12月18日![]() ![]() ![]() |
死没 |
1941年5月27日(41歳没) ブレスト沖の公海 |
所属組織 |
ドイツ帝国海軍 ドイツ国海軍 ドイツ海軍 |
軍歴 | 1917年 - 1941年 |
最終階級 |
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戦闘 | |
勲章 |
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生涯
編集1899年12月18日、ブランデンブルクの地主パウル・アッシャーの息子として生まれた。3人の姉妹がいたが、うち二人は夭折している。彼らの祖父母のうち、二人はユダヤ人であった。 母の死後、一家はベルリンに移り住んだがさらに父パウルが亡くなった。残された二人はキールに住む叔父であり、退役海軍士官のカール・アッシャーのもとに身を寄せた。
1917年7月に高校を卒業し、帝国海軍に入隊。士官候補生として練習艦フレイヤで訓練を受け、第一次世界大戦中は戦艦カイゼリンで勤務した。終戦後も海軍に残り、東プロイセンで勤務した。1930年から1932年にかけて、魚雷艇ファルケを指揮した。
ナチスドイツ成立後、アッシャーはユダヤ人ハーフであったためミシュリングに指定。1級ユダヤ人混血児[1]の血統証明書を交付された。
1938年3月からは主席砲術将校として装甲艦アトミラール・グラーフ・シュペーに配属された。彼はその立場で南大西洋での通商破壊や、ラプラタ沖海戦にてイギリスの巡洋艦エクセターやエイジャックスを損傷させることに貢献した。シュペーの自沈後のラングスドルフ艦長の葬儀において、アッシャーが勲章を運んだ。葬儀の後アルゼンチンに抑留されたがスペイン経由で1940年春に帰国することができた。
帰国後軍務に復帰、1940年5月、装甲艦司令部主席参謀となり、10月には艦隊司令部主席参謀となる。司令部の一員として旗艦グナイゼナウに乗り込み、ヴェーザー演習作戦や北大西洋での軍事行動に参加した。その後旗艦がビスマルクに代わったため同艦へ乗り組み、ライン演習作戦に参加。1941年5月27日のブレスト沖での戦闘で戦死した。死後、大佐に昇進。
家族
編集1926年9月26日、東プロイセンの地主の娘ウルスラと結婚。1929年12月には息子のゲルトを、パウルの戦死後の1941年7月9日に娘のモニカをもうけた。