ピエール2世・ド・リュクサンブール (サン=ポル伯)
ピエール2世・ド・リュクサンブール(Pierre II de Luxembourg, 1440年頃 - 1482年10月25日)は、フランスの貴族、軍人。サン=ポル伯、ブリエンヌ伯、マルル伯、ソワソン伯およびアンギャンの領主。
ピエール2世・ド・リュクサンブール Pierre II de Luxembourg | |
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マルル伯・ソワソン伯 サン=ポル伯・ブリエンヌ伯 | |
在位 |
マルル伯・ソワソン伯:1476年 - 1482年 サン=ポル伯・ブリエンヌ伯:1477年 - 1482年 |
出生 |
1440年頃 |
死去 |
1482年10月25日 |
配偶者 | マルゲリータ・ディ・サヴォイア |
子女 |
マリー フランソワーズ |
家名 | ルクセンブルク=リニー家 |
父親 | サン=ポル伯ルイ |
母親 | マルル女伯・ソワソン女伯ジャンヌ |
生涯
編集サン=ポル伯ルイとその最初の妻のマルル女伯・ソワソン女伯ジャンヌの間の次男として生まれた。一族はブルゴーニュ公爵家と密接な関係にあり、父は1475年、シャルル突進公と組んでフランス王ルイ11世に対する陰謀を企てたため、反逆罪で処刑された。このためピエールは父の所領の大部分を没収され、アンギャンの所領のみを相続した。
翌1476年に兄ジャンがムルテンの戦いで戦死すると、マルル伯領およびソワソン伯領を受け継ぎ、死んだ兄に代わってブルゴーニュ公爵家と関わりを持つようになった。1477年に突進公の後継者マリー・ド・ブルゴーニュの宮廷に出仕し、1478年に金羊毛騎士団の騎士に列せられた。マリー・ド・ブルゴーニュのフランス王室に対する執り成しのおかげで、ピエールは父の処刑後に没収されたサン=ポルとブリエンヌの2つの伯爵領を取り戻すことが出来た。
子女
編集1454年、サヴォイア公ルドヴィーコの娘マルゲリータ(1439年 - 1483年)と結婚し、間に5人の子女をもうけたが、成育したのは娘2人だけだった。
参考文献
編集- Raphael de Smedt (Hrsg.): Les chevaliers de l'ordre de la Toison d'or au XVe siècle. Notices bio-bibliographiques. 2. verbesserte Auflage. Peter Lang, Frankfurt 2000, ISBN 3-631-36017-7, S. 200f. (Kieler Werkstücke. D 3).
外部リンク
編集ウィキメディア・コモンズには、Pierre II de Luxembourg-Saint-Polに関するカテゴリがあります。
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