フランツ・ギュルトナー
フランツ・ギュルトナー(Franz Gürtner, 1881年8月26日 - 1941年1月29日)は、ドイツの軍人、法曹、政治家。ヴァイマール共和国、ナチス・ドイツ期にかけて法曹の大臣職を歴任し、ヒトラー内閣で法相を務めた。陸軍での最終階級は大尉。
フランツ・ギュルトナー Franz Gürtner | |
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生年月日 | 1881年8月26日 |
出生地 |
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没年月日 | 1941年1月29日(59歳没) |
死没地 |
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出身校 | ミュンヘン大学 |
前職 | 軍人(陸軍大尉) |
所属政党 |
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称号 | 一級鉄十字章、二級鉄十字章 |
内閣 |
フォン・パーペン内閣 フォン・シュライヒャー内閣 ヒトラー内閣 |
在任期間 | 1932年6月1日 - 1941年1月29日 |
大統領 総統 |
パウル・フォン・ヒンデンブルク アドルフ・ヒトラー |
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内閣 |
フォン・クニリング内閣 ハインリヒ・ヘルト内閣 |
在任期間 | 1922年11月8日 - 1932年6月1日 |
フランツ・ギュルトナー Franz Gürtner | |
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所属組織 |
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軍歴 | 1914年 - 1919年 |
最終階級 |
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除隊後 | 政治家 |
略歴編集
1881年8月26日、ドイツ帝国領邦バイエルン王国のレーゲンスブルクに機関車技師フランツ・ギュルトナーとその妻マリア(Maria)(旧姓ヴァインツェール(Weinzierl))の息子として生まれた[1]。
レーゲンスブルクの学校を出た後、ミュンヘン大学に入学して法学を学んだ[2]。1908年にバイエルン司法国家試験に合格し、ミュンヘンで検察官として働くとともに、バイエルン王国司法省の人事部に勤務した[1]。
第一次世界大戦が開戦すると西部戦線へ出征した後、パレスチナで戦った。大戦中に大尉(Hauptmann)まで昇進し、また一級鉄十字章と二級鉄十字章を受章した[1][2]。
戦後は法曹界に戻り、1920年にはミュンヘンの裁判所の裁判官となる[1]。
1922年11月8日にバイエルン州司法相に就任した[2]。保守政党ドイツ国家人民党の党員であるギュルトナーは右翼犯罪者には大変同情的であった。ヒトラーはじめミュンヘン一揆で罪に問われた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党員たちにも寛大な判決を下されるよう手回しした[2]。またランツベルク刑務所に収監されたヒトラーが早期釈放されるようにし、釈放後、ただちにナチ党が合法化できるよう取り計らっている[3]。
1932年にはドイツ国首相フランツ・フォン・パーペンからドイツ国司法相(Reichsjustizminister)に指名された。続くクルト・フォン・シュライヒャー内閣でも留任した[3]。
1933年1月30日にナチ党党首アドルフ・ヒトラーが首相に就任した後にも彼の下で法相に留任した。ドイツ裁判官協会を国家社会主義法律家協会に合流させるなど司法のナチ化を進めた。
一方で司法の独立を守ろうとすることもあり、また強制収容所での囚人の拷問やゲシュタポの無法な捜査には嫌悪感を示すこともあった[3]。 しかし1935年時点ですでに法相ギュルトナーも内相ヴィルヘルム・フリックも親衛隊に対して口を差し挟むことはできなくなっており、何らの歯止め役にもならなかった[3]。
1937年1月30日にはヒトラーよりナチス党員名誉金章を授与され、同時にナチ党に入党している(党員番号385,232)。
1939年から開始されたT4作戦に関しては、ギュルトナーをはじめとする司法省関係者はまったく知らされておらず、これが発覚したのは1940年7月のギュルトナーあて投書によってであった[4]。ギュルトナーは法に基づかない安楽死には反対し、作戦の中止か法制化かを求めていたが、ヒトラーの意志が法制化によらない安楽死であることを知ると、「法源」であるヒトラーの意志に従い、T4作戦への介入を禁じた[5]。
参考文献編集
- ロベルト・ヴィストリヒ(en)著、滝川義人訳、『ナチス時代 ドイツ人名事典』、2002年、東洋書林、ISBN 978-4887215733
- 佐野誠「ナチス「安楽死」計画への道程:法史的・思想史的一考察」『浜松医科大学紀要. 一般教育』第12巻、浜松医科大学、1998年、1-34頁、NAID 110000494920。