ヘント陥落(ヘントかんらく、英語: Fall of Ghent)は、オーストリア継承戦争中の1745年7月15日レーヴェンタール伯爵英語版率いるフランス軍5千人がオーストリア領ネーデルラントヘントを奇襲して占領した戦闘。同盟軍のヘント駐留軍はほとんど抵抗しなかった[1]

ヘント陥落

18世紀のヘントの地図
戦争オーストリア継承戦争
年月日1745年7月15日
場所オーストリア領ネーデルラントヘント
結果:フランスの勝利
交戦勢力
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国
ネーデルラント連邦共和国の旗 ネーデルラント連邦共和国
ハプスブルク帝国 ハプスブルク君主国
ハノーファー州 ハノーファー選帝侯領
フランス王国の旗 フランス王国
指導者・指揮官
フランス王国の旗 レーヴェンタール伯爵英語版
戦力
5,000(後に15,000まで増援)
損害
捕虜3,000
オーストリア継承戦争におけるネーデルラント。ヘントは中央にある。

フォントノワの戦いでの敗北直後にきたヘント陥落の報せで、同盟軍に激震が走った。ヘントは国事軍が1742年に編成されて以来、重要な補給基地として使われてきた。ジェームズ・ウルフを含むイギリスの1連隊はヘント陥落の直前に脱出しており、捕虜になることを避けた[2]カンバーランド公ウィリアム・オーガスタスはヘントが陥落する以前に援軍としてイギリス、ハノーファー、オランダ、オーストリア軍で構成される縦隊4千から5千人を派遣していたが、この援軍はメレの戦いでフランス軍に敗れ、ヘントに到着したのは1千人ほどであった。

ヘントは完全に包囲され、ヘントの町は7月11日に奪取された。レーヴェンタールは塹壕からヘントの城塞への砲撃を開始した。救援軍の望みもなく[3]、レーヴェンタールの軍勢が1万5千まで増強されたことで城塞の駐留軍は戦意を喪失、7月15日にレーヴェンタールが強襲を仕掛けたことであっさりと陥落した[4]。同盟軍は捕虜3千人を出し[5]、大量な補給を奪われた[6]。ヘントは翌年にはフランスによる進軍の通り道となり、ブリュッセル包囲戦につながった[7]

脚注 編集

  1. ^ Browning, p. 219.
  2. ^ Brumwell, pp. 36-37.
  3. ^ Skrine, Francis Henry. Fontenoy and Great Britain's Share in the War of the Austrian Succession 1741-48. London, Edinburgh, 1906, p. 229.
  4. ^ Screen, J.O.E., The Action at Melle 9 July 1745, Society for Army Historical Research. Journal of the Society for Army Historical Research..., Volume 77, Issues 309-312, London, 1999, p. 95.
  5. ^ Chrystin, Jean-Baptiste. Les délices des Pays-Bas, Paris, MDCCLXXXVI, Vol. II, p. 324.
  6. ^ Fortescue, J. W. A History of the British Army, MacMillan, London, 1899, Vol. II, p. 122.
  7. ^ Browning, pp. 259-260.

参考文献 編集

  • Browning, Reed. The War of the Austrian Succession. Alan Sutton Publishing, 1994.
  • Brumwell, Stephen (2007). Paths of Glory: The Life and Death of General James Wolfe, Continuum International Publishing Group, ISBN 978-0-7735-3261-8