ボリス・サヴィンコフ
ボリス・ヴィクトロヴィチ・サヴィンコフ(ボリース・ヴィークトロヴィチ・サーヴィンコフ;ロシア語: Бори́с Ви́кторович Са́винков;ラテン文字転写: Boris Viktorovich Savinkov、1879年1月19日(グレゴリオ暦1月31日) - 1925年5月7日)は、ロシアの革命家、政治家、著作家(英語版ではテロリスト)。 社会革命党(エスエル)の武装部門である社会革命党戦闘団の指導者のひとりで、帝政ロシアにおける要人の暗殺に関与した。革命運動のかたわら、小説家としても活躍し、B.ロープシン[注 1]の筆名で革命家達の内面を書いた種々の作品を残した。ロシア革命(二月革命)後に成立した臨時政府で陸軍次官。ボリシェヴィキの権力掌握後は、反ボリシェヴィキ運動の闘士として最後まで戦った。
ボリス・サヴィンコフ Бори́с Ви́кторович Са́винков | |
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![]() 軍服姿のサヴィンコフ(1917年) | |
通称 | B.ロープシン(筆名) |
生年 | 1879年1月31日 |
生地 |
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没年 | 1925年5月7日(46歳没) |
没地 |
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思想 | マルクス主義、テロリズム |
所属 | 社会革命党(エスエル)、社会革命党戦闘団、自由・祖国擁護同盟 |
母校 | サンクトペテルブルク大学 |
生い立ち、青年期編集
1879年1月19日ロシア帝国領であったウクライナのハリコフに貴族の子息として生まれる。父ヴィクトルはポーランド王国の首都ワルシャワで裁判官をした人物。母は有名な作家であった。1897年サンクトペテルブルク大学法学部に入学するが、学生暴動に参加したため、1899年退学処分となる。その後、ドイツに渡り、ベルリン、ハイデルベルクで学ぶ。1898年以降、マルクス主義に熱中し、さまざまな組織に参加した。1900年にはヴィクトル・チェルノフ(のちに臨時政府農相)らと面識を持つようになり、以前に批判していた「人民の意志」のテロリズムに傾倒することとなる。1901年ロシア国内でロシア社会民主労働党の系列団体に参加したが、当局によって逮捕される。逮捕後、ヴォログダに流刑となる。同地に流刑中のニコライ・ベルジャーエフ、アナトリー・ルナチャルスキー(のちソビエト政権初代教育人民委員)らと知り合い知識を得た。しかし、サヴィンコフは次第にマルクス主義に失望するようになり、同様に流刑となっていた女性革命家のブレシコ・ブレシコフスカヤから強い影響を受け、社会革命党の立場(すなわちテロリズム)に転向する。1903年外国逃亡に成功し、正式に社会革命党に入党。また、エスエル代表であったグリゴリー・ゲルシューニ逮捕後、社会革命党戦闘団に参加し、戦闘業務を掌握するエヴノ・アゼフの下で代理となった。
社会革命党編集
1905年ジュネーヴに渡る。この時期、エスエル党中央委員に選出される。また、ゲオルギー・ガポン神父と知り合う。サヴィンコフは戦闘団が使用する拳銃を購入し、ベルギー人と偽る旅券を入手してロシアに帰国した。第一次ロシア革命後、ニコライ2世は十月詔書(十月宣言)を発布し、反政府勢力に譲歩していたが、これに対して、エスエルは党中央委員会拡大会議を開催し戦術問題の討議に入る。党内世論は、テロの終結を支持するが、サヴィンコフはこれに抗してテロ戦術の継続を主張した。
1905年から1906年にかけてエスエル第一回党大会が開催されると、戦闘団代表として党大会に参加し、党を社会主義思想の普及に従事する部門とテロを担当する組織に分党することを主張した。党大会後、アゼフとともに戦闘団再建に着手するが、内務大臣ヴャチェスラフ・プレーヴェ、モスクワ総督セルゲイ大公の暗殺事件後、セバストポリで逮捕される。裁判直前に逃亡に成功、欠席裁判のまま、死刑判決を受ける。
1908年アゼフがスパイであることが発覚。サヴィンコフは戦闘団の指導者となり、首相として革命派に対する徹底的な弾圧で知られたストルイピンの暗殺やテロ遊撃隊の結成を計画するが、これは成功しなかった。第二回党大会で戦闘団代表を辞任し、その後、パリに移る。以後もニコライ2世の暗殺計画を準備するが未遂に終わった。
ロシア革命編集
1914年第一次世界大戦が勃発すると、義勇兵としてフランス軍に志願した。大戦中、サヴィンコフは愛国主義の立場をとるようになり、1917年二月革命でニコライ2世が退位し、ロマノフ王朝が崩壊、臨時政府が樹立された報に接し、大きな喜びを得た。同年4月チェルノフらとともにロシアに帰国して、第8軍、南西戦線コミッサールとして臨時政府に参加。同年7月陸海軍大臣アレクサンドル・ケレンスキーの下で陸軍次官に就任した。その後、ケレンスキーが首相に就任すると、ラヴル・コルニーロフ将軍を最高総司令官にするように要請している。同年9月コルニーロフ将軍が反乱を起こすが、サヴィンコフは関与が取りざたされた。サヴィンコフは反乱事件直後、ペトログラード臨時総督に就任するが、結局、臨時政府の一切の役職から解任され、エスエルを除名された。
1917年10月レーニン率いるボリシェヴィキが武装蜂起して十月革命が起こる。サヴィンコフは、冬宮の包囲網の突破を試みた。その後、プスコフに逃れたケレンスキーと合流しペトログラード奪還を試みたが失敗に終わった。12月末に「自由・祖国擁護同盟」を結成しモスクワに潜伏しながら、ソビエト政権打倒を進める。サヴィンコフは、レーニンとトロツキーの暗殺計画(レーニン暗殺未遂事件)やヤロスラヴリ、ルイビンスク、ムルマンスクでの武装蜂起を企てたが失敗した。
ロシア内戦編集
国内戦が勃発すると白衛軍に一兵卒として入隊する。次いでフランスに戻り、そこで、彼はロシアの亡命者協会の役職に就くとともに、アレクサンドル・コルチャーク(コルチャック)提督の外交使節団長として、ヨーロッパ各国に派遣され、コルチャーク軍に対する西欧各国の援助を要請した。第一次世界大戦が終結し、パリ講和会議が開催されると、サヴィンコフは、ジョルジュ・クレマンソー仏首相、ロイド・ジョージ英首相などと会談を持っている。
1920年ポーランド・ソビエト戦争が勃発すると、サヴィンコフは赤軍を撃退すべく、ポーランドへ赴いた。ポーランドでは、赤軍の捕虜を中心に歩兵連隊と騎兵隊部隊を編成した。また、政治的な反共活動も展開し、ワルシャワで「自由のために」紙を創刊してソビエト政権を攻撃した。1921年ポーランドとソビエト政権は講和条約を結んだため、ポーランド当局によって国外退去処分となった。
パリに戻ったサヴィンコフは、亡命先で反ソビエト活動を継続した。パリではイギリス軍情報部とともに反革命運動に熱中したが、1924年8月ソビエト政府の陰謀によってソ連領ミンスクに反ソ組織との会合のため出向いたところをチェキストにより逮捕された(シンジカート-2作戦)。
8月末に裁判で死刑判決を受けたが、裁判中にソビエト政権の承認を表明し、禁固10年に減刑された。サヴィンコフはモスクワのルビヤンカ刑務所に収監された。
1925年5月7日自殺した。46歳。ソビエト政権の公式見解によれば、5階の捜査官執務室の窓から投身自殺したと発表された。しかし、その自殺は極めて疑わしく、階段からわざと転落させられたとも言われるし、アレクサンドル・ソルジェニーツィンによれば、サヴィンコフはヘロイン中毒にされたとも言われる。
文学編集
サヴィンコフは、B.ロープシン V.Ropshinの筆名でいくつかの小説を執筆した。1909年「ロシア思想」誌に発表された「蒼ざめた馬」は、社会革命党戦闘団の空虚な内面を描いてセンセーションを巻き起こした。その後も1912年「存在しなかったこと(邦題:夢幻の人びと)」、1923年「黒馬を見たり(「漆黒の馬」とも)」、1928年「一テロリストの回想(邦題:テロリスト群像)」など、自身を含めた革命家の行動と内面を鋭く描写した作品を発表した。
作品編集
- "Воспоминания террориста" (1909年)
- "Конь бледный" (1909年、蒼ざめた馬)
- "То, чего не было" (1912年、存在しなかったこと)
- "повесть "Конь вороной" (1923年、黒馬を見たり)
- "Воспоминания террориста" (1928年、一テロリストの回想)
邦訳編集
B.ロープシンとして
- 『蒼ざめたる馬』青野季吉訳、冬夏社〈自由文化叢書〉1919年、随筆社、1924年
- 『蒼褪めたる馬』長岡義夫訳、春陽堂〈世界名作文庫〉1932年、ゆまに書房〈昭和初期世界名作翻訳全集〉2004年
- 『蒼ざめた馬』猪野満智子訳、世紀書房、1951年
- 『蒼ざめた馬』工藤正廣訳、晶文社〈晶文選書〉1967年
- 『蒼ざめた馬 - 附・ロープシン詩抄』川崎浹訳、現代思潮社、1967年、1978年
- 『蒼ざめた馬』川崎浹訳、角川書店〈角川文庫〉1975年、岩波書店〈同時代ライブラリー〉1990年、岩波書店〈岩波現代文庫〉2006年(「サヴィンコフ=ロープシン論」所収)
- 『蒼ざめた馬 漆黒の馬』工藤正廣訳、未知谷、2006年
- 『黒馬を見たり』黒田乙吉訳、随筆社、1924年
- 『黒馬を見たり』川崎浹訳、現代思潮社、1968年(「サヴィンコフの告白」所収)
- 『漆黒の馬』工藤正廣訳、晶文社〈晶文選書〉1968年
- 『牢獄 - ロープシン短編集』川崎浹訳、白馬書房、1969年(牢獄 / 誤解 / 最後の地主たち)
- 『ロープシン遺稿詩集』川崎浹訳、白馬書房、1972年、未知谷、2010年
ボリス・サヴィンコフとして
サヴィンコフについて書かれた文芸作品編集
- ロマン・グーリ『アゼーフ』(1959年)サヴィンコフを主人公にアゼーフとの対決にいたるドラマを描いた小説。
映像作品編集
- 蒼ざめた馬 (映画)、(2004年、カレン・シャフナザーロフ監督)サヴィンコフの原作を下敷きにしている。