マイケル・カーティス・ダー(Michael Curtis Darr、1976年3月21日 - 2002年2月15日)は、1999年から2001年までメジャーリーグベースボールサンディエゴ・パドレスでプレーした外野手。父は1977年にトロント・ブルージェイズで1試合登板したマイク・ダー・シニア[1]

マイク・ダー
Mike Darr
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州コロナ
生年月日 (1976-03-21) 1976年3月21日
没年月日 (2002-02-15) 2002年2月15日(25歳没)
身長
体重
6' 3" =約190.5 cm
205 lb =約93 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1994年 デトロイト・タイガース2巡目 全体52位
初出場 1999年5月23日
最終出場 2001年10月7日
年俸 $215,000(2001年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

概要 編集

カリフォルニア州コロナで生まれ育ったダーは、1994年にデトロイト・タイガース1994年のMLBドラフト2巡目、全体52位で指名された。 1997年シーズンの前にサンディエゴ・パドレスにトレードされ、1999年にMLBデビューを果たした。 2000年にパドレスで58試合をプレーした翌2001年にチームの開幕戦の右翼手に指名され、8月まで同ポジションでレギュラーだった。

2002年の春季トレーニングの期間中にアリゾナ州ピオリアでの自動車の単独事故で、元マイナーリーガーであるデュアン・ジョンソンと共に死亡した。運転手だったダーは、血中アルコール濃度が法定限度を超えており、シートベルトを着用していなかった。

メジャー通算で188試合に出場、打率.273、5本塁打、67打点、出塁率.353、17盗塁だった。

プロ入り前 編集

マイケル・カーティス・ダーは、1976年3月21日にカリフォルニア州コロナで産まれた [1]。父親のマイク・ダー、シニアは、1977年にトロント・ブルージェイズで1試合に登板している[2]

学生時代のダーは、後にNFLの選手やコーチとなるダリン・チャベリーニ[3]と、 UCLAフットボールチームのアシスタントコーチを務めるドン・ジョンソンの息子でマイナーリーグベースボールの選手のデュアン・ジョンソンと幼馴染だった。コロナ高校にいる間、ダーは薬物乱用に苦しんだ。彼はジョンソン一家と一緒に住むようになり、ドンはダーをカウンセリングに連れて行き、麻薬中毒を克服するのを助けた [4]

1994年に高校を卒業し、高校時代の恋人であるナタリーと結婚した 。

デトロイト・タイガース(1994–96) 編集

1994年、ダールはデトロイト・タイガース2巡目、全体52位で指名され、入団した [2]

この年のドラフトでサンディエゴは2巡目、全体37位で2000年にアメリカンリーグの本塁打王を獲得するトロイ・グロースを指名したが、アトランタオリンピックに出場するために入団を拒否した。
この年のドラフトでロサンゼルス・ドジャースは2巡目、全体47位に2003年に読売巨人軍、2005年に東北楽天ゴールデンイーグルスに所属するゲーリー・ラスを、シアトル・マリナーズは2巡目、全体48位で2002年と2003年に阪神タイガース、2004年にオリックスブルーウェーブに所属するトレイ・ムーアを指名し、いずれも入団している。

入団後、ルーキークラスアパラチアンリーグのブリストル・タイガースに所属し、打率.275 23得点、41安打、1本塁打、18打点を記録した。

1995年はシングルAサウス・アトランティックリーグファイエットビル・ジェネラルズに昇格し、112試合に出場し、打率.289、58得点、114安打、5本塁打、66打点を記録した。

1996年、シングルAアドバンストフロリダ・ステートリーグレイクランド・タイガースで85試合に出場し、打率.248、26得点、77安打、0本塁打、38打点を記録した [5]

1997年の春季トレーニング後半の3月22日にマット・スクルメタと共にジョディ・リード[6]とのトレードでサンディエゴ・パドレスに移籍した。

サンディエゴ・パドレス 編集

シングルAアドバンストおよびダブルA(1997–98) 編集

1997年にシングルAアドバンストカリフォルニアリーグランチョクカモンガ・クエークスに在籍した。この年、ダーは打率.344(マイク・ストーナーの.358、マイク・ミッチェルの.350、トッド・ウィルソンの.345に次ぐ4位)、104得点(ストーナーの115とティム・ガーランドの106に次ぐリーグ3位)、15本塁打、179安打(ストーナーの203に次ぐリーグ2位)、94打点(リーグ7位)、23盗塁、7盗塁死を記録した [5][7]

1998年、ダーはダブルAサザンリーグモービル・ベイベアーズに一年を通して在籍した。この年、ダーは打率.310(リーグ8位)、6本塁打、105得点(ゲーブ・キャプラーの113に次ぐリーグ2位)、162安打(ゲーブ・キャプラーの176、カルロス・リーの166、ロバート・フィックの164に次ぐリーグ4位)、および90打点(リーグ6位)、盗塁28(リーグ6位)8盗塁死を記録した [8]

マイナーとメジャー(1999–2000) 編集

ダーは1999年シーズンをトリプルAパシフィックコーストリーグ(PCL)のラスベガス・スターズでスタートさせたが、5月にパドレスに昇格した [5] [9]
5月23日にシンシナティレッズに6対2で敗れた9回にルーベン・リベラの代打としてメジャーリーグデビューを果たした。尚、この打席では三振だった[10]。翌日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦で初先発出場を果たし、アンディ・ベネスからの単打でメジャー初安打を記録した。試合は6-5の敗北を喫した。[11]6月8日のオークランド・アスレチックスとのインターリーグで、ティム・ハドソンからソロ本塁打を放ちメジャー初本塁打を記録した。試合はパドレスが5-3で勝利している [12]
その後も右翼手として先発出場をしていたが、6月13日にトニー・グウィンが故障者リスト復帰した際にラスベガスに降格した[13] 。そして セプテンバー・コールアップでメジャーに再昇格し、主に右翼手の守備固めとして起用された。
この年、トリプルAでは100試合に出場し、打率.298、57得点、114安打、10本塁打、62 打点、10盗塁(3盗塁死)を記録した。
また、サンディエゴでは25試合で、打率.271、6得点、13安打、2本塁打、3打点を記録した。

2000年シーズンは4月にパドレスで5試合プレーしたが、シーズンの最初の4か月のほとんどをラスベガスで過ごした [14]。しかし、パドレスが7月31日にレフトのレギュラーだったアル・マーティンをトレードで放出したため、外野手に欠員が生じたことからサンディエゴに再昇格し[15]、シーズン終了までパドレスの右翼手のレギュラーとして起用された。8月1日の再昇格初日のフィラデルフィア・フィリーズ戦でロバート・パーソン[16]から2ランの本塁打を放った [17]
ダーはこの年ラスベガスで91試合に出場し、打率.344、79得点、126安打、9本塁打、65 打点、13盗塁を記録した [5]
また、パドレスでは58試合出場、打率.268、21得点、55安打、1本塁打、30打点、9盗塁、1盗塁死を記録した [1]

メジャーリーグでのフルシーズン(2001) 編集

2001年開幕戦で右翼手として自身初の開幕スタメンとなった [1] [2] が、5月2日から23日まで故障者リスト入りリスト入りしていた [18]。復帰後の6月7日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で4安打4打点を記録し [19]、それ以降も右翼手のレギュラーを務めた。
しかし、8月に先発を外れる機会が増え始め、9月には完全な控えとなった。結果的にこのシーズンから加入したババ・トランメル[20]にレギュラーを奪われる形となった [21] [22]
シーズンでは105試合に出場し、打率.277、80安打、2本塁打、34打点を記録した。

ダーは守備のスキルは高かったが、打撃が余りにも非力だった(シーズン80安打中、長打は二塁打13、三塁打1、本塁打2の僅か16本しか無いが72三振を喫している)ことがレギュラー剥奪の原因だった。
先述の通り、2001年シーズンは2本塁打を打っただけだったが、両方ともチームの勝利を「直接的」に導くホームランだった。1本目は8月16日のニューヨーク・メッツ戦で8回裏にリック・ホワイト[23]から打った逆転2ランホームランだった。このホームランが決勝点となってサンディエゴは6-5で勝利し、チームは勝率5割に復帰した[24]
2本目は9月22日のジャイアンツ戦の延長10回にブライアン・ベーリンガー[25]から打った代打サヨナラホームランであり(尤も打球を遠くに飛ばしたわけではなく、センターを守っていたケルビン・マレー[26]のグラブによるアシストがあってスタンドインしたものだった)[27]、サンディエゴが4–3で勝利した。そして、この勝利でまたしてもチームは勝率5割に復帰している [28]

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パドレスのファンからは、ダーが近い将来チームの黄金期を支える若い選手の一人になることを望まれていた[2]

しかし、スプリングトレーニング中の2002年2月15日、ダーはアリゾナ州ピオリアで自動車の単独事故を起こした。彼はこの時の運転手であり、血中アルコール濃度は法定限度を超えていた。更にシートベルトを着用していなかった為、ダーと同乗者でダーの幼馴染でもあった元マイナーリーガーのデュアン・ジョンソンが事故死した。同乗していたが、安全ベルトを着用していたマイナーリーグの投手ベン・ハワードは、軽傷を負っただけだった [29]。ハワードは2か月後にパドレスでデビューし、メジャーリーグで3シーズン投げている [30]

パドレスのほぼ全員がダーの葬式に参列し、カリフォルニア州リバーサイドのクレストローン記念公園に埋葬された。ダーの死後、妻と2人の息子、マイケル・ジュニアとマシューが遺された [31]

2002年のシーズン中、パドレスはユニフォームの右袖にダーの背番号だった「26」がデザインされた黒い円のパッチを着けていた。野球の歴史家フランク・ルッソによると、「彼は球場でのユーモアと強烈さ、そしてゲームへの愛情で知られていた。」述べている [2]
この背番号「26」は2006年にダグ・ブロケイルが付けるまで空き番号となった。

脚注 編集

  1. ^ a b c d Mike Darr Stats”. Baseball-Reference. 2021年2月16日閲覧。
  2. ^ a b c d e Russo, Frank (2014). The Cooperstown Chronicles: Baseball's Colorful Characters, Unusual Lives, and Strange Demises. New York: Rowman & Littlefield. pp. 234–235. ISBN 978-1-4422-3639-4 
  3. ^ 現役時代はクリーブランド・ブラウンズなどにワイドレシーバーとして所属。コーチとしてテキサス・テックやUCLAなど多くの大学で主にスペシャルチーム・コーチやオフェンシブ・コーディネーターを務めた。2021年現在は母校のコロラド大学のオフェンシブ・コーディネーターを務めている。
  4. ^ Henson, Steve (2002年9月25日). “Friends to the end”. Los Angeles Times. http://articles.latimes.com/2002/sep/25/sports/sp-johnsondarr25/2 2016年5月29日閲覧。 
  5. ^ a b c d Mike Darr Minor Leagues Statistics & History”. Baseball-Reference. 2021年2月16日閲覧。
  6. ^ ボストン・レッドソックスなどでシーズン最多二塁打を1度獲得した二塁手。ゴールドグラブの獲得経験はないが、1993年から2年連続で二塁手の守備率リーグ1位だった。タイガース移籍後は成績が急落して9年間守ったレギュラーを剥奪され、同年引退した。引退後はマイナーリーグで2度リーグ最優秀監督に選出された。
  7. ^ この段落で名前が挙がったストーナー、ミッチェル、ウィルソン、ガーランドは誰一人メジャーリーグに昇格することなく引退している
  8. ^ 1998 Southern League Batting Leaders”. Baseball-Reference. 2021年2月17日閲覧。
  9. ^ Mike Darr 1999 Batting Gamelogs”. Baseball-Reference. 2021年2月17日閲覧。
  10. ^ Cincinnati Reds at San Diego Padres Box Score, May 23, 1999”. Baseball-Reference. 2021年2月17日閲覧。
  11. ^ San Diego Padres at Arizona Diamondbacks Box Score, May 24, 1999”. Baseball-Reference. 2021年2月17日閲覧。
  12. ^ Oakland Athletics at San Diego Padres Box Score, June 8, 1999”. Baseball-Reference. 2021年2月17日閲覧。
  13. ^ Transactions”. The New York Times (1999年6月14日). 2021年2月17日閲覧。
  14. ^ Mike Darr 2000 Batting Gamelogs”. Baseball-Reference. 2021年2月17日閲覧。
  15. ^ Al Martin Stats”. Baseball-Reference. 2021年2月17日閲覧。
  16. ^ 先発投手としてこの前年に10勝、この年9勝、翌年は15勝を挙げている
  17. ^ Philadelphia Phillies at San Diego Padres Box Score, August 1, 2000”. Baseball-Reference. 2021年2月17日閲覧。
  18. ^ Transactions - May 2001”. MLB.com. 2021年2月18日閲覧。
  19. ^ San Diego Padres at San Francisco Giants Box Score, June 7, 2001”. Baseball-Reference. 2021年2月18日閲覧。
  20. ^ デトロイトで長く遊撃手を務めて殿堂入りを果たしたアラン・トランメルの親戚で外野手。このシーズンは打率.262、25本塁打、92打点を挙げている
  21. ^ Mike Darr 2001 Batting Gamelogs”. Baseball-Reference. 2021年2月18日閲覧。
  22. ^ Bubba Trammell 2001 Batting Gamelogs”. Baseball-Reference. 2021年2月18日閲覧。
  23. ^ この年セットアッパーとして55試合に登板している。
  24. ^ New York Mets at San Diego Padres Box Score, August 16, 2001”. Baseball-Reference. 2021年2月18日閲覧。
  25. ^ この年セットアッパーとして51試合に登板している
  26. ^ バルセロナオリンピックの野球アメリカ代表メンバー。このシーズンは106試合に出場し、打率.245、6本塁打、25打点を記録した。甥(弟の息子)は2018年のMLBドラフトで全体9位、NFLのドラフトで全体1位指名を受けたカイラー・マレー
  27. ^ Mike Darr game winning home run off of outfielder - Padres vs Giants 2001(当時のニュース映像)”. 2021年8月4日閲覧。
  28. ^ San Francisco Giants at San Diego Padres Box Score, September 22, 2001”. Baseball-Reference. 2021年2月18日閲覧。
  29. ^ Fernes, Rob. (February 16, 2002). Padres' Darr dies in car accident. Los Angeles Times. Retrieved September 6, 2014.
  30. ^ Ben Howard Stats”. Baseball-Reference. 2021年2月16日閲覧。
  31. ^ Padres' Organization Remembers Darr”. My Plainview (2002年2月19日). 2021年2月18日閲覧。

関連項目 編集

外部リンク 編集