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ムワッヒド朝

ムワッヒド朝
الموَحدون (アラビア語)
ⵉⵎⵡⴻⵃⵃⴷⴻⵏ (ベルベル語)
ムラービト朝
ハンマード朝
タイファ
シチリア王国
1130年 - 1269年
ベルベル帝国の国旗
(国旗)
ベルベル帝国の位置
公用語 アラビア語ベルベル語
首都 マラケシュセビリア
アミール・アルムーミニーン
1130年 - 1163年 アブドゥルムウミン(初代)
1163年 - 1184年アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世(第2代)
1184年 - 1199年ヤアクーブ・マンスール(第3代)
1199年 - 1213年ムハンマド・ナースィル(第4代)
1266年 - 1269年イドリース・ワーシク(最後)
変遷
成立 1130年
ハフス朝独立1229年
滅亡1269年
先代次代
ムラービト朝 ムラービト朝
ハンマード朝 ハンマード朝
タイファ タイファ
シチリア王国 シチリア王国
マリーン朝 マリーン朝
ハフス朝 ハフス朝
ザイヤーン朝 ザイヤーン朝
ナスル朝 ナスル朝
カスティリア王国 カスティリア王国
アラゴン王国 アラゴン王国
ポルトガル王国 ポルトガル王国

ムワッヒド朝アラビア語 : الموحدون al-Muwahhidūn)は、ベルベル人のイスラム改革運動を基盤として建設されたイスラム王朝1130年 - 1269年)。首都はマラケシュ

現在のモロッコに興り、チュニジア以西の北アフリカマグリブ)とイベリア半島の南部アル=アンダルス(現アンダルシア州とほぼ同じかやや広い範囲)を支配した。その名称のスペイン語訛りから、ヨーロッパではアルモハード朝英語Almohad Caliphate)という名前で知られている。

目次

歴史編集

ムワッヒド朝の起源は、ベルベル人のマスムーダ族出身のイブン・トゥーマルトが開始したイスラム改革運動にある[1]。彼は現在のモロッコ南部、アトラス山脈の出身で、12世紀の初頭に東方への遊学とマッカ(メッカ)巡礼に出た[2]。そこでムラービト朝治下のマグリブのイスラムを改革する必要を感じた[* 1]イブン・トゥーマルトは帰郷すると、ムラービト朝の公定法学派であるマーリク派に属するイスラム法学者を痛烈に批判した[4]1121年には故郷で自らが救済者(マフディー)であると宣言して、ムラービト朝に対する反乱を開始した[5]。イブン・トゥーマルトは神の唯一性(タウヒード)を重視する教義を説き、そこから彼に従う勢力は「タウヒードの信徒」を意味するムワッヒドの名で呼ばれた[6]

イブン・トゥーマルトが1130年に没すると、アブド・アルムーミン(以下私市 (2002)、p.232 以下の表記により「アブド・アルムーミン」と記す。[* 2])が後継者に就き[4]、3代目のマンスールは自らをカリフになぞらえてカリフの称号であるアミール・アルムウミニーン(信徒たちの長)を指導者の称号とした[7]。アブド・アルムーミン以降、ムワッヒド集団はアルムーミンの子孫がアミール・アルムーミニーンとして後継者の地位を継承する王朝へと変容するが、ムワッヒドの名がそのまま王朝名として使われることになる[4]

アブド・アルムーミンはアトラス山脈に篭ってムラービト朝に対する攻撃を続け、1147年にはマラケシュを占領してムラービト朝を滅ぼした[8]。さらにムラービト朝の衰退後ムスリム(イスラム教徒)の領土へと侵攻していたキリスト教徒たちとの戦いに積極的に乗り出し、イベリア半島のアンダルスやマグリブ東部にまで進出、アンダルスを支配下に置き、ズィール朝ハンマード朝を滅ぼして、マグリブのほとんど全域を支配するに至った[9]。アルムーミンの子アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世は、即位以前にセビーリャの統治者を務め、アンダルスに強い関心を持った[10]。彼の治下では哲学者イブン・トゥファイルイブン=ルシュドが活躍し、アンダルスのイスラム文化が頂点を極めた[10]

その子で第3代君主のヤアクーブ・マンスールの時代にはカスティーリャ王国アルフォンソ8世を破って(アラコルスの戦い)、キリスト教徒によるレコンキスタを防ぎ[11]、東ではリビア西部まで支配下に加えてムワッヒド朝の最大版図を実現したが、次第に王朝のイデオロギーであったタウヒード主義は形骸化し、宗教的情熱に支えられたベルベル人の軍隊が弱体化に向かっていった[12]1212年、マンスールの子で第4代君主のムハンマド・ナースィルコルドバの近郊でアルフォンソ8世らの率いる十字軍に敗れ(ナバス・デ・トロサの戦い)、アンダルスでの支配力を失った[13]

さらにナースィルの治世には本拠地のマグリブでもムワッヒド朝に対する反乱が起こった[14]。既に宗教的な結束を失っていた有力者たちの間での内紛が激化して政治が混乱したが、1229年には、君主自らが布告を発し、タウヒード思想を放棄した[14]。この結果、ムワッヒド朝はますます求心力を失い、地方でもハフス朝が独立するなど[15]、版図は急速に縮小して現在のモロッコ周辺を支配するのみとなった。1269年、新興のマリーン朝がマラケシュを征服し、ムワッヒド朝は滅亡した[16]

歴代君主編集

系図編集

 
アブド・アルムーミン1
 
 
 
 
 
 
 
 
アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヤアクーブ・マンスール3
 
 
 
 
 
アブドゥルワーヒド・マフルー6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ザーヒル
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムハンマド・ナースィル4
 
アブドゥッラー・アーディル7
 
イドリース・マアムーン9
 
 
 
 
 
アブー=ハフス・ウマル
 
イスハーク
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ユースフ2世ムスタンスィル5
 
ヤフヤー・ムウタスィム8
 
アブドゥルワーヒド・ラシード10
 
アブールハサン・サイード11
 
ムハンマド
 
ウマル・ムルタダー12
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イドリース・ワーシク13
 

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 東方への遊学でアカーリー派の学説とスーフィズムの影響を受けた[3]
  2. ^ 那谷 (1984)、p.150 以下では「アブド・ル・ムーミニーン」と表記していて、余部 (1992)、p.136 以下では「アブドゥルムーミン」と表記している。

出典編集

  1. ^ ヒッティ (1983)、p.389
  2. ^ 私市 (2002)、p.230
  3. ^ 那谷 (1984)、pp.149-150.
  4. ^ a b c 私市 (2002)、p.232
  5. ^ 那谷 (1984)、p.153
  6. ^ 那谷 (1984)、p.150
  7. ^ 那谷 (1984)、p.160
  8. ^ 那谷 (1984)、p.155
  9. ^ 那谷 (1984)、pp.156-160.
  10. ^ a b 私市 (2002)、p.233
  11. ^ 那谷 (1984)、p.160
  12. ^ 私市 (2002)、p.235
  13. ^ 那谷 (1984)、p.161
  14. ^ a b 那谷 (1984)、p.162
  15. ^ 私市 (2002)、pp.236-237.
  16. ^ 那谷 (1984)、p.163

参考文献編集