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不如帰 (小説)

日本のベストセラー小説
『不如帰』初版本

不如帰』は、明治31年(1898年)から32年(1899年)にかけて国民新聞に掲載された徳冨蘆花の小説。のちに出版されてベストセラーとなった。 なお徳冨蘆花自身は『不如帰』の読みとして、少なくとも後年「ふじょき」としたが[注釈 1][1]、現在では「ほととぎす」という読みが広まっている。

目次

概要編集

片岡中将の愛娘浪子は、実家の冷たい継母、横恋慕する千々岩、気むずかしいに苦しみながらも、海軍少尉川島武男男爵との幸福な結婚生活を送っていた。しかし武男が日清戦争へ出陣してしまった間に、浪子の結核を理由に離婚を強いられ、夫をしたいつつ死んでゆく。浪子の

あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!
ああつらい! つらい! もう女なんぞに生まれはしませんよ[注釈 3]

というセリフは日本近代文学を代表する名セリフとなった。

家庭内の新旧思想の対立と軋轢、伝染病に対する社会的な知識など当時の一般大衆の興趣に合致し、広く読者を得た。

作中人物にはモデルが存在する。しかしベストセラーとなったが故に、当時小説がそのまま真実と信じた民衆によって、モデルとなった人物に事実無根の風評被害があった(詳細は作中人物のモデルの『不如帰』項を参照)。

浪子が夫の出征を見送る際にハンカチを振るシーンがあり、この小説をきっかけにハンカチは別れの小道具となった[2]

あらすじ編集

幼くして母を亡くした浪子は冷たい継母、優しい父片岡陸軍中将のもとで18歳になったが、川島家の若い当主と結婚することになり、初めて人生の幸福をあじわうことができる。明るい川島武男少尉と伊香保で新婚をすごして、夢のようである。夫は遠洋航海に出て、気難しい姑川島未亡人につかえて、1人で耐える。

半年ぶりに夫に会い、ふたたび蜜月をすごす思いであるが、風邪から結核にかかり、逗子に転地することになる。しだいに回復するところに、浪子に恋していた千々岩が失恋のはらいせに、伯母川島未亡人に伝染病の恐ろしさ、家系の断絶を言い立て、武男の居ない間に浪子を離縁させる。武男が知ったのは、日清戦争開戦間際だったから、母と争う時間もないまま、やけで砲丸の的になれと涙ながらに戦場にむかう。

武男は黄海で戦い、負傷し、佐世保の病院におくられ、無名の小包を受け取る。送り主の浪子は武男からの手紙を逗子で受取り、相思相愛で寄り添うことのできないのを悲しみ、思い出の地不動の岩から身を投げようとし、キリスト教信者に女に抱き留められ、宗教に心慰められる。

傷も癒えてふたたび戦場に向かう武男は、旅順で敵に狙撃されようとする片岡中将を救う。凱旋した片岡中将は、病気の浪子を慰めようと関西旅行をして、山科駅で台湾へ出征する途中の武男を車窓に見る。

浪子の病気は帰京してますます重くなり、伯母で仲人の夫人に武男あての遺書を託して、月見草のように淑やかな生涯を終える。訃報に接した武男が帰京の日に、青山墓地に行くと、墓標の前で片岡中将と巡り会い、中将は武男の手を握り「武男さん、わたしも辛かった」「娘は死んでも、喃、わたしは矢張りあんたの爺ぢや」という。

小説を元にした作品編集

本作品を原作とした映画や演劇などの演劇作品が数多く制作されている。

舞台編集

映画編集

テレビ編集

漫画編集

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 岩波文庫版の巻末の注:題名の読み方について/最初新聞にのったときは「ほととぎす」とふりがながついていて以来一般にそれが用いられてきました。作者自身はのちに「ふじょき」と言い、百版の序文ではそうふりがなしていますが、本文庫版では言いならわしに従って「ほととぎす」の方を採用しました。
  2. ^ 「不如帰(ふじょき)が百版になるので、校正かたがた久しぶりに読んでみた。(中略)明治42年2月2日 昔の武蔵野今は東京府下/北多摩郡千歳村粕谷の里にて/徳冨健次郎識」。
  3. ^ 原文表記は「婦人(おんな)」。

出典編集

  1. ^ 第百版不如帰の巻首[注釈 2]
  2. ^ 林えり子『暮しの昭和史』pp.185 海竜社 2009年

関連項目編集

外部リンク編集