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松本 泰輔(まつもと たいすけ、1895年12月21日 - 没年不詳)は、日本俳優である[1][2][3]。本名同じ[1][2]帝国キネマ日活などで伊藤大輔監督映画を中心に非常に多数の時代劇・現代劇で主演を務めた大スターである。

まつもと たいすけ
松本 泰輔
本名 同じ
生年月日 (1895-12-21) 1895年12月21日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 鳥取県鳥取市立川町3丁目
職業 俳優
ジャンル 新派劇映画時代劇現代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1911年 - 1942年
配偶者 あり
主な作品
森訓導鉄路の露
籠の鳥
酒中日記
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来歴・人物編集

1895年(明治28年)12月21日鳥取県鳥取市立川町3丁目に生まれる[1][2]

1911年(明治44年)、旧制東京美術学校を中退して川上音二郎一座に入る[1][2]1917年(大正6年)には伊庭孝率いる歌舞伎協会し、1918年(大正7年)には大阪で旗上げした山本嘉一を座長とする傑作座に加わる[1][2]。同年、天然色活動写真大阪支部に所属して大阪やその周辺で新派に多く出演した。

1923年(大正12年)4月帝国キネマ女形を使った旧式新派映画を廃止し、女優出演の革新現代劇を製作する意図から阪急神戸本線芦屋川駅付近にロケ隊集合所を設立[1][2]。以後の現代劇を「帝国キネマ芦屋作品」と改称したが、松本はその開設と共に幹部俳優として招かれ、同年、賀古残夢監督映画『森訓導鉄路の露』で歌川八重子の相手役として主演して以来、歌川や沢蘭子里見明らと毎週の様に主演を務めた[1][2]。特に伊藤大輔監督映画に多く出演しており、人間苦を背負った学校長に扮して写実的な演技を評価された1924年公開の第一回作品『酒中日記』を始め、『坩堝の中に』『血で血を洗ふ』『星は乱れ飛ぶ』『熱血を秘めて』などに主演している。

1925年(大正14年)、帝国キネマが分裂。松本はアシヤ映画製作所に加わり、筆頭俳優として第一回作品『子守唄』以下多数に出演[1][2]。ところが1927年(昭和2年)1月に退社して松竹合名会社専属となり、進藤英太郎らと新人座人情劇一派を組織して京都座、大阪の弁天座に出演[1]。更に新派俳優の小織桂一郎梅島昇らと昭生座を結成して角座に出演する[1]

同年12月日活太秦撮影所に入社する[1][2]1928年(昭和3年)公開の辻吉郎監督映画『千姫』で梅村蓉子と共演したのを始め、帝国キネマ時代とは変わった温厚な時代劇に貫禄を見せた。しかし同年末、松本は日活を退社する。

退社後、浅草で実演活躍をしていたが、1929年(昭和4年)5月、帝国キネマに復帰[1][2]。以後も多数の現代劇又は時代劇に出演するほか、1930年(昭和5年)に公開された鈴木重吉監督映画『子守唄』などのトーキー映画にも出演した。1931年(昭和6年)9月新興キネマと改称した後も出演を続けるが、特に1934年(昭和9年)公開の押本七之輔監督映画『水戸黄門 前篇』を始めとする「水戸黄門」シリーズの水戸黄門役が有名である。1938年(昭和13年)からは新興キネマ京都撮影所に移籍して脇役に回り、阪東妻三郎主演の第一回トーキー作品『新納鶴千代』で大老井伊直弼役など、多数の時代劇で助演した[1][2]

1941年(昭和16年)に公開された押本監督映画『直参風流男』が確認出来る最後の出演作品であり、1942年(昭和17年)1月、新興キネマが大映に統合されると共に芸能界を引退した。しかし、以後の消息は明らかになっていない[1][2]没年不詳

脚注編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本映画俳優全集 男優篇』キネマ旬報社、1979年、540頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 『芸能人物事典 明治大正昭和』 日外アソシエーツ、1998年。
  3. ^ 『日本映画美男俳優 戦前編』 ワイズ出版、2014年。

外部リンク編集