京都町奉行

江戸幕府が京都に設置した遠国奉行の1つ

京都町奉行(きょうとまちぶぎょう)は、江戸幕府京都に設置した遠国奉行の1つ。老中支配であるが、任地の関係で実際には京都所司代の指揮下で職務を行った。東西の奉行所が設置され、江戸町奉行と同様に東西1ヶ月ごとの月番制を取った(ただし、奉行所の名称は江戸・大坂とは違い、「東御役所」「西御役所」と呼ばれていた)。京都郡代から分離する形で寛文8年12月8日1669年1月10日)に設置された。

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概要編集

江戸幕府成立以来、京都とその周辺の行政は京都所司代及び京都郡代が管轄していたが、その職務が過重となってきたために、京都郡代を経済・財政部門を扱う京都代官に改め、今まで京都郡代が担当していた京都とその周辺(山城丹波近江大和)の裁判及び天領に関する行政の権限については、万治3年11月22日1660年12月24日)に小出尹貞が執り行う事になった(『万治日記』)。ただし、当時はまだ京都町奉行にあたる役職が無かったために小出は定数外の伏見奉行として派遣されて、前京都郡代の役宅に入っている。寛文5年6月25日1665年8月6日)に小出が死去すると、同年8月6日(1665年9月14日宮崎重成雨宮正種の2名に小出の後任を命じられ、翌寛文6年3月11日1666年4月15日)には伏見奉行水野忠貞が兼ねていた畿内5ヶ国・近江・丹波・播磨の奉行職を免じられて両名に移管された(なお、水野の伏見奉行辞任は寛文9年(1669年)である)。更に寛文8年(1668年)に入ると、京都所司代牧野親成の退任も決まり、これを機に所司代が担当していた京都市中に対する民政部門を統合して京都町奉行が成立し、宮崎は初代東町奉行・雨宮は初代西町奉行となった。

老中支配であるが、任地の関係で京都所司代の指揮下で職務を行った。京都町政の他畿内天領および寺社領の支配も行うため、寺社奉行勘定奉行町奉行の三奉行を兼ねたような職務であった。定員は2名。役高は1500石で、役料として現米600石が支給された。配下には与力20騎と同心50人が付いた。

前述のように京都の行政・裁判の他、周辺4ヶ国の裁判・天領の行政及び寺社領の支配(ただし、門跡寺院は除く)を行った。また、享保7年(1722年)には大津奉行の職務を統合して大津の支配も行った。役高は1500石・現米600石が支給された。また、就任にあたり従五位下に叙任されることになっていた。東西それぞれに与力20騎と同心50人が付いていたが、享保年間から元文年間にかけて、

  • 訴訟の受付と市中警備を担当する番方
  • 闕所された財物の処分を入札監督などを担当する闕所方
  • 制札や各種証明書の発給や宗門改鉄砲改浪人改を行う証文方
  • 建築の届出・確認や道路管理などの都市計画を行う新家方
  • 奉行所内外の監察業務を行う目付(後に新家方を統合して目付方とも)
  • 奉行所内の会計・公的な入札業務及び天領の年貢収納を行う勘定方
  • 一般の刑事・行政を扱う公事方
  • 賀茂川の管理を行う川方

といった担当部門に分離されてそこに与力・同心が配置されるようになる。更に時代が下ると、腐敗した朝廷の口向(経理)を監督するための「御所向御取扱掛」(安永3年(1774年)設置、奉行が兼務)や京都市街の無秩序な拡大を防止して適正な町割をするための「新地掛」(文化10年(1813年)設置、与力が兼務)などの新たな職掌が生まれ、これに対応するために与力の嫡子を見習名目で職務に当たらせて給銀だけを与える事で与力の数を事実上水増ししたり、本来は町役人の元締であった町代に事務業務を委任したりするようになった。

慶応3年12月13日1868年1月7日)に、新政府の命令によって京都所司代とともに廃止された。

京都町奉行の一覧編集

東町奉行編集

西町奉行編集

参考文献編集

  • 藤井譲吉「京都町奉行の成立過程」(京都町触研究会 編『京都町触の研究』(岩波書店、1996年 ISBN 4000027530))
  • 安国良一「町奉行所の役人」(京都町触研究会 編『京都町触の研究』(岩波書店、1996年 ISBN 4000027530))

関連項目編集