伊東胡蝶園
伊東胡蝶園(いとうこちょうえん、1904年 創業 - 1997年 清算)は、かつて存在した日本の化粧品メーカーである。
本社所在地 |
日本 東京市麻布区本村町145番地 (現在の東京都港区南麻布3丁目) |
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設立 | 1904年 |
業種 | 化学 |
事業内容 | 化粧品製造販売 |
代表者 | 伊東栄 |
主要子会社 | 玄文社 1916年 - 1926年 |
関係する人物 |
長谷部仲彦 三輪善兵衛 結城禮一郎 佐野繁次郎 花森安治 |
特記事項:1904年 胡蝶園として創業 1909年 伊東胡蝶園に改称 1948年 株式会社パピリオに改称 1974年 帝人が買収、株式会社帝人パピリオに改称 1987年 アサヒペンが買収 1990年 ツムラが買収、ツムラ化粧品株式会社に改称 1997年 清算 |
略歴・概要
編集明治の四大覇者
編集1900年(明治33年)、岐阜県令・長谷部恕連の次男であり、フランス・パリから帰朝した化学者で、東京市京橋区南鍋町2丁目3番地(現在の東京都中央区銀座6丁目)で出版社「十一堂」を営んでいた長谷部仲彦が、日本初の純無鉛で健康を害さず、使用に耐えうる白粉を発明、販売した。同年5月10日の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の成婚の際に献上した。
1904年(明治37年)、長谷部が、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトに学んだ「近代医学の父」こと伊東玄朴の四男・伊東栄(初代、1847年‐1911年)と組み、東京市芝区(現在の東京都港区芝)で「胡蝶園」を創業、大正天皇夫妻に献上したことから「御料御園白粉」と命名して製造し、1906年(明治39年)からのちに「ミツワ石鹸」で知られる三輪善兵衛の丸見屋が販売した。紙箱は四谷区(現在の新宿区四谷)の「尚山堂」(現在の東京紙器株式会社)が製造・納品した[1]。
「胡蝶」とは、胡の国の蝶のことで、アゲハチョウをさす。のちに商標となり社名ともなった「パピリオ」は、アゲハチョウの学名Papilioに由来する。
化粧品業界で、「白粉の御園」は、「歯磨のライオン」(「獅子印ライオン歯磨」、小林富次郎商店)、「クリームのレート」(平尾賛平商店、1954年倒産)、「クラブの洗粉」(中山太陽堂)とならぶ「明治の四大覇者」と呼ばれた[2]。
「御園白粉」 明治37年(1904)に、伊東胡蝶園から発売された無鉛白粉。明治の末頃までは、役者や芸者を中心に、使用感、仕上がりのよさから、鉛中毒をもたらす鉛白粉が使われていた。豊とよほぎのまい寿舞(二人の巫女が雄蝶と雌蝶にそれぞれ扮して舞う)が描かれ、「御料御園白粉 東京芝 胡蝶園謹製 発賣元丸見屋商店」と記された広告が書き写されている。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「御園白粉」より抜粋[3]
二代目のころ
編集1909年(明治42年)に「伊東胡蝶園」に商号変更した。1911年(明治44年)2月23日、初代伊東栄が死去、1873年(明治6年)8月生まれ、慶應義塾、東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業した長男・謙吉(1873年 - 1929年)が二代目伊東栄を襲名、社長に就任する。1916年(大正5年)12月22日、薄田泣菫が『大阪毎日新聞』夕刊に連載していた『茶話』の第211話『狂人の書』に登場している「伊東玄朴の孫」とは、二代目のことである。
1916年(大正5年)に同社は、出版社「玄文社」を設立、主幹に結城無二三の長男で元『國民新聞』記者、元『東京毎夕新聞』主幹、元『帝国新聞』主幹の結城禮一郎を採用した。玄文社は『新演芸』(主筆岡村柿紅)、『新家庭』、『花形』、『詩聖』といった雑誌を発行、多数の書籍を出版した。同社の編集者には鈴木泉三郎、長谷川巳之吉、仲木貞一、内山佐平、服部普白、堀川寛一、小林徳二郎らがいた。同社は、1926年(大正15年)ごろ廃業している。
1921年(大正10年)「御園コールドクリーム」を発売、1925年(大正14年)、丸見屋との総代理店契約を解消し、伊東胡蝶園が販売も行う。同年「御園コンパクト」を発売。1926年(大正15年)、「新御園白粉」を発売した。
1929年(昭和4年)7月28日、二代目伊東栄が57歳で死去する。1934年(昭和9年)7月、三代目伊東栄が『父とその事業』(伊東胡蝶園)を執筆、同社が発行した。
同社が無鉛白粉を始めて30年、無鉛はすっかり主流になり、1930年(昭和5年)に有鉛白粉の製造禁止、1934年(昭和9年)に販売禁止となり、無鉛白粉の競争が激化する。このころ洋画家の佐野繁次郎が入社、「パピリオ」のロゴデザインを手がけた。同時期、のちの『暮らしの手帖』編集長、花森安治が宣伝部に入社、佐野に師事した。1933年(昭和8年)、「御園つぼみ白粉」を発売、1935年(昭和10年)、「パピリオ白粉」発売、「パピリオ」ブランドがスタートする。1936年(昭和11年)には「パピリオ口紅」を発売した。
第二次世界大戦後
編集1948年(昭和23年)、「株式会社パピリオ」に改称した。1950年(昭和25年)、マネキン宣伝を開始。
1974年(昭和49年)、帝人がパピリオを買収、由比盛靖が社長に就任、「株式会社帝人パピリオ」となった。由比は翌1975年(昭和50年)10月27日、社団法人麻布法人会の第4代会長に就任した。
1987年(昭和62年)、アサヒペンが帝人から帝人パピリオを買収、「パピリオ」はアサヒペンの化粧品部門のブランドとなったが、やがて化粧品部門から撤退、1990年(平成2年)、ツムラがアサヒペンからパピリオを買収、「ツムラ化粧品株式会社」を設立も、1997年(平成9年)にはツムラ化粧品は清算された。
2004年(平成16年)、映画『君の名は』(1953年 - 1954年)とのタイアップや「オリリーカバーマーク」で知られる、大阪の化粧品メーカーピアスが「パピリオ」の商標権を獲得し、新会社パピリオを設立したが、これは「胡蝶園」に始まる歴史とは資本的にも人的にも一切関係がない。
おもなビブリオグラフィ
編集関連事項
編集註
編集- ^ 東京抜型工業会編『東京抜型工業会25年記念誌』(東京抜型工業会、1988年)の記述を参照。
- ^ クラブコスメチックス公式サイト「株式会社クラブコスメチックス」の記事「資料室」の記述を参照。
- ^ 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「御園白粉」国立国会図書館蔵書、2018年2月10日閲覧
外部リンク
編集- パピリオ株式会社 - 現在のパピリオ(2004年 - )の公式サイト